KNNエンパワーメントコラム コレクション 黒田長政のエディプスコンプレックス #軍師官兵衛/神田敏晶

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NHK 軍師官兵衛 49回「如水最後の勝負」を見た。

大河ドラマの面白さは、史実にもとづきながら、自由闊達な人物描写ができるところだ。

黒田長政は黒田家の当主でありながらも、父、如水(黒田官兵衛)の動きが気になる。徳川側についた黒田家と九州での引退したはずの如水が、天下人への狙いも...。

大河ドラマでは、黒田長政は、巧みな家康の幼少の頃の人質の身のシンパシー戦略に、もう一人の父親としてを感じていたのかもしれない。

フロイトが提唱した「エディプス・コンプレックス」だ。

反抗期というのは自我の目覚めと共にあるが、父親が偉大であればあるほど、その子供は自分の負い目をコンプレックスとして投じてしまう。

エディプスコンプレックスにはふたつの逃避、いや回避方法がある。



ひとつは、従順に父に従い、負けを認めながら、自我をゆっくりと学習させ進化させる方法だ。そしてもうひとつは、父とは、まったく反対の方向へ遠ざけエス(ess)であり超自我(das Ich)を覚醒させる回避だ。

黒田長政は、後者の父とは違うという相違点を明確に打ち出した。そして、それを主君としての徳川家康にアピールすることによって、エディプスコンプレックスを克服しようとしたのではないだろうか?

父、如水こと官兵衛に対して、黒田家の当主であることでしか自分のポジションはない。また、又兵衛こと、後藤基次とのユングの提唱するカイン・コンプレックスを背負って生きてきた。それは、豊臣秀吉も同様であった。

そして、それは、またデストルドーへのタナトス欲求度が高い忠誠心が求められた戦国時代だ。

デストルドーとは、「生の本能=エロス」と対峙した「死への本能」のことであり、戦国時代はこのエロスとデストルドーが非常に近い位置に存在していたようだ。死は武士にとって、プライドであり、どういう死に方をするかによって、他者や社会からのレピュテーションを非常に気にしていた。タナトスとは、ギリシャ神話の死の神である。

関ヶ原の戦いでは、東軍8万人、西軍10万人(モチベーションは3万人)が、自分のデストルドーを賭して、戦さに望んだ。

「死」は常に「生」と隣合わせの時代だからこそ、「死」のスタイルをどう選択するのかが武士や大名の美学だった。総数20万人が関ヶ原で、死を賭けた戦さをするのが当たり前の時代だった。

今や、ライブ・コンサートでさえそれだけの人数のオペレーションは相当大変だ。それぞれが期限のない戦さで展開する。何よりも、食料の調達、加工、保存、分配など。それらすべては、死へのデストルドーが何も怖くない境地を醸成している。

まさにアルカイダやイスラム国の現在の倫理と似ている。

それにしても、大河ドラマの軍師官兵衛、如水は、ようやく誰かの為に仕えるのではなく、九州で、自分の意思で兵を動かしはじめた。これもまた、タイミングを待っていたのか、狙いだったのか...。

岡田准一の如水の表情は、謙虚で聡明な官兵衛ではなく、傲慢な大名に見えてきた...。表情に織田信長が宿ってきたようだ。

いよいよ最終回。

選挙のおかげで飛んでしまうが、黒田官兵衛の命の使い方がどう描かれるかが気になる。

【かんだ・としあき】
KandaNewsNetwork,Inc.CEO
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