《うっかり「お騒がれしました」なんて言っちゃいそうだ》
■映画と夜と音楽と...[438]
地味で誠実VS危険で魅力的
【縛り首の木/決断の3時10分/ペイルライダー】
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![105]
公共の場で撮るときはマナーを守ろう(!?)
──要はお詫びと言い訳
GrowHair
■映画と夜と音楽と...[438]
地味で誠実VS危険で魅力的
【縛り首の木/決断の3時10分/ペイルライダー】
十河 進
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公共の場で撮るときはマナーを守ろう(!?)
──要はお詫びと言い訳
GrowHair
■映画と夜と音楽と...[438]
地味で誠実VS危険で魅力的
【縛り首の木/決断の3時10分/ペイルライダー】
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20091023140200.html
>
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●日本の映画監督がOK牧場の決闘を映画化する話
逢坂剛さんの「墓石の伝説」を読んだのは、数年前のことになる。西部劇大好きの逢坂さんと「墓石」とくれば、それがトゥームストーンという名前の西部の町だと、知っている人は思うだろう。そう、OK牧場の決闘で有名になったトゥームストーンだ。ジェームス・ガーナー主演の「墓石と決闘」(1967年)という映画もあった。
「墓石と決闘」は「OK牧場の決闘」(1957年)を撮ったジョン・スタージェスが、10年後に決闘の後日談を描いた映画だった。ワイアット・アープはバート・ランカスターからジェームス・ガーナーに変わり、ドク・ホリディはカーク・ダグラスからジェーソン・ロバーズに変わった。
OKコラルが「牧場」ではなく、単なる馬つなぎ場(要するに、現代で言えば駐車場みたいなもの)だったことは、今ではかなり知られるようになった。確かに「墓石と決闘」でも、町はずれの囲いがある大して広くないところでの撃ち合いから映画は始まった。その後、ワイアット・アープとドク・ホリディらは、それが私闘かどうかを裁判で問われることになる。
逢坂さんの「墓石の伝説」は、伝説的な日本の映画監督がOK牧場の決闘を映画化しようとする話である。その小説の中で、逢坂さんは西部劇に関するマニアックな知識を全開にしていて、僕なんかが読むと「そう、そう」とうなずくことが多い。しかし、一般的にはどうだろう。新聞に連載された小説だが、マニアックすぎたのではないか。
面白いのは、西部劇ファンの映画監督が、もうひとりのディープな西部劇マニアと対談する場面である。ふたりとも自己の主張を譲らず、ケンカになる。単純な話で、「西部劇の監督ベスト3」とか「西部劇ベスト3」を選ぶ話などがきっかけになる。こうなると、マニアは困ったもので、絶対に譲らない。僕も似たところがあるので、読みながら深く反省した。
「墓石と決闘」を読んでいると、逢坂さんのB級西部劇好みがよくわかる。主演者の名前だって、オーディ・マーフィ、ランドルフ・スコット、グレン・フォード、ジョエル・マクリーなど、今では誰も知らない名前ばかりが出てくる。アラン・ラッドは「シェーン」(1953年)があるから、かろうじて今でも名前が残っているが、あれだって典型的なB級西部劇だった。
そんな中で、逢坂さんがよく出してくるのがデルマー・デイビスという監督だった。デルマー・デイビスと言えば、僕には「避暑地の出来事」(1959年)「恋愛専科」(1962年)「スペンサーの山」(1963年)の監督という認識しかない。B級の恋愛映画を撮った人としか思っていなかった。いや、トロイ・ドナヒューの専属監督だと思っていた。ところが、逢坂さんは西部劇監督ベスト3に入れている。
そこで少し調べてみると、30過ぎのときに「化石の森」(1936年)を撮っているではないか。おおっ、と僕は唸った。ハンフリー・ボガートの悪役が強烈だった作品だ。名作である。少し見直した。その後のフィルモグラフィーには、「折れた矢」(1950年)「襲われた幌馬車」(1956年)「決断の3時10分」(1957年)「縛り首の木」(1959年)という西部劇の名作が並んでいた。
●「縛り首の木」は物騒なタイトルだが深い考察がある
もう初老と言ってもいい歳のゲイリー・クーパーが主人公の「縛り首の木」は不思議な作品である。デルマー・デイビスの最後の西部劇らしい。この後、デルマー・デイビスはトロイ・ドナヒュー主演映画を3本続けて撮り、その後はスザンヌ・プレシェットの映画を数本撮る。
「縛り首の木」は原題のままの物騒なタイトルだが、内容は深い考察に充ちた西部劇である。ある金鉱の町に流れてきた初老のガンマン風の男は実は医者で、その町になくてはならない存在になる。ヒロインはドイツ人のマリア・シェル(マクシミリアン・シェルの姉)である。ヨーロッパの女優が西部劇のヒロインをやった例は他に知らない。
ゲイリー・クーパーはある若者を助け、その若者は彼の医療助手として働くようになる。ある日、駅馬車が襲われ、たったひとり生き残った女性が救われるが、彼女は太陽に灼かれて全身にひどい火傷を負っていた。さらに、目も灼かれて失明寸前だった。その女性をクーパーと助手が看病するシーンが延々と続くのである。
「縛り首の木」は過去に傷を負った男が、新しい土地にきて住み着き、人生をやり直そうとする話だったのだと見終わってからわかる構造になっている。西部劇というよりは、初老の男と彼を再生させるきっかけになる若い女性の恋愛劇という印象だ。この作品の後、デルマー・デイビスが恋愛劇ばかり作ったのも納得できた。
デルマー・デイビスが西部劇監督だった頃の最高傑作は「決断の3時10分」だろう。原題は「3時10分ユマ行き」という意味だが、それは、今年の夏に公開になったリメイク版「3時10分、決断のとき」も同じである。リメイク版には、ラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルが出演している。ラッセル・クロウがグレン・フォードの役で、クリスチャン・ベイルはヴァン・ヘフリンの役である。
ラッセル・クロウの方がクリスチャン・ベイルより格上だが、オリジナル版でもグレン・フォードの名前が最初に出る。グレン・フォードは1940年代から50年代にかけて、多くの主演作を持つスターである。代表作は「ギルダ」(1946年)が有名だが、その他にもいろいろある。「暴力教室」(1955年)の教師役もよく知られている。もっとも、主題歌の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の方が有名ではあるけれど...。
一方のヴァン・ヘフリンは地味な役者だし、主演級スターではなかった。しかし、「決断の3時10分」は間違いなく彼が主演である。ヴァン・ヘフリンは、「シェーン」の開拓農民の役で多くの人に顔を知られているが、この映画でも同じような役を演じて、「シェーン」の役に対して異議申し立てをしているかのようだ。それが監督のデルマー・デイビスの主張だったのかもしれない。
「シェーン」が公開されて大ヒットし、西部劇の代表作のように言われ、名作としての評価が定まった頃、「決断の3時10分」は作られた。「シェーン」の4年後の制作である。「シェーン」のヴァン・ヘフリンは開拓地に入植し地道に働き妻子を養っていたのに、妻子はある日フラッとやってきた流れ者のガンマンに心を寄せてしまう。妻はシェーンに露骨な視線を注ぐし、息子は「シェーン、カムバック」と、父親より銃のうまい流れ者を尊敬する。
もちろん、ヴァン・ヘフリンは狭量な男ではない。愛する貞淑な妻がシェーンに心を寄せていることに気付きながら、そのことを許容する。シェーンを友として遇する。父親より他人の方が息子の教育者として適していると受け入れ、息子がシェーンに憧れるままにさせておく。しかし、彼もいつかきっと自分の真価を、息子が認めてくれることを願っていたに違いない。
そんな、開拓農民であるヴァン・ヘフリンの想いを実現させる物語をデルマー・デイビスは制作した。「決断の3時10分」を見たとき、僕はずっと「シェーン」を思い出していた。ある意味では、「シェーン」のアンチテーゼとして「決断の3時10分」は存在する。
●夫への愛が伝わってくる感動的なラストシーン
「決断の3時10分」は、十数人の男たちが駅馬車を襲うところから始まる。強盗団のボス(グレン・フォード)は御者を射殺するが、それを牛追いの途中で見ていたのが小さな牧場をやっているヴァン・ヘフリンと二人の息子たちだ。「助けよう」という息子たちに、父親は「様子を見よう」と答える。
グレン・フォードは町の酒場に寄り、酒場の女とつかの間の情事を持つ。危険な香りを持つ男は、女にとって魅力的なのだ。だが、その間に保安官に知らせが届き、グレン・フォードは逮捕されてしまう。保安官は列車が停まる一番近い町までグレン・フォードを送り、そこからユマ行き列車に乗せようとするが、グレン・フォードの部下たちが奪還にくることを耳にする。
保安官は自分がおとりの護送隊になり、グレン・フォードは別の人間たちに護送させようと報奨金を出して人を募る。手を挙げたのがヴァン・ヘフリンと酔っ払いの男である。ヴァン・ヘフリンは水不足が続いて牛に水を飲ませることができず、現金を稼いで大きな牧場の川で水を飲ませる権利を獲得したかったのだ。
ヴァン・ヘフリンは酔っ払いの男とふたりでグレン・フォードを護送するが、まず自宅に連れ帰り食事をさせる。グレン・フォードは何人も殺した無法者だが、女にとっては魅力的な男だ。話もうまく、ハンサムである。ヴァン・ヘフリンの妻も好意を持った意味のことを夫に告げる。グレン・フォードも「いい奥さんだな。貧乏暮らしで可哀想だ」と口にする。
まるで「シェーン」みたいなシチュエーションである。違うのは、同じガンマンであってもシェーンは開拓農民のために立ち上がり、グレン・フォードは強盗犯として逮捕されていることである。ヴァン・ヘフリンの妻は「子どもたちが、あなたをヒーローを見る目で見ていたわ」と言うが、ヴァン・ヘフリンは子どもたちに自分の勇敢さを誇るために護送役を買って出たのかもしれない。
ヴァン・ヘフリンは慣れない銃を構えてグレン・フォードを護送し、駅がある町に着き列車の時刻までホテルの部屋に入る。グレン・フォードが「俺を逃がせば金をやる」と彼を誘惑する。また、隙を見て銃を奪おうとする。部下たちがボスを奪い返しにやってくる。相棒の酔っ払いの男は射殺され、ホテルの天井から吊される。「殺されるぞ。俺を逃がせ。美人の奥さんのところに帰れ」とグレン・フォードは囁く。ヴァン・ヘフリンは迷う。
二枚目ではない、どちらかと言えば悪役面のヴァン・ヘフリンの心の迷いが伝わってくる。もちろん命は惜しいし、妻子のことを考えれば死ぬわけにはいかない。だが、一度引き受けた使命を投げ出すわけにもいかない。自分は流れ者のアウトローのようなヒーロータイプではない。地味な存在だ。だが、妻の言葉への反発もある。臆病と思われる態度を子どもたちに見せてしまった後悔もある。だから、見返したい。
ずっと雨が降らず、そのことでヴァン・ヘフリンは追い込まれていたのだが、グレン・フォードの部下たちが集まった頃から雷鳴が轟き始める。ヴァン・ヘフリンの妻が夫を心配して、馬車でやってくる。彼女は自分が不用意にもらしたグレン・フォードへの好意的な言葉に、夫がこだわっていることを感じ取ったのだろう。その罪滅ぼしの気持ちもあったに違いない。やがて、ユマへ向かう列車が町に入ってきた。3時10分が近づいてくる...。
「決断の3時10分」で、デルマー・デイビスは「シェーン」的な西部劇に反論しているかのようだ。地味なヴァン・ヘフリンに花を持たせ、ラストシーンで愛し合う夫婦の明るい未来を感じさせる。妻は単調で刺激のない貧乏暮らしの日々に訪れた非日常的な状況(有名なアウトローと食事をし、その魅力的な話にひきこまれたこと)に、少し心が揺れただけ。夫を強く愛していたのだと伝わってくる感動的なラストシーンだった。
ちなみに、「シェーン」のパターンを踏襲して魅力的な西部劇を作ったのは、クリント・イーストウッドだった。「ペイルライダー」(1985年)である。迫害されている砂金掘りたちの集落にいる少女の願いを叶えるように、ひとりの男がやってくる。彼は牧師であり、銃の名手だった。ラストシーン、悪者たちを退治して去っていくガンマンに向かって、少女は「プリチャー(牧師)」と叫ぶ。背景は高い山々だ。
「ペイルライダー」では、少女の母親は実直で地味だが自分たちを大事にしてくれる男ではなく、流れ者のガンマンに積極的に身を投げ出して誘う。やがて、ガンマンが去った後、地道な男の求婚を受け入れる。昔も今も、アウトローのように強くて危険な匂いのする男が魅力的に見えるのは、何も女性に限ったことではない。男だって、そんなヒーローに憧れている。地味で誠実な男より危険な男の方が魅力的なのは間違いない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
酒場で東理夫さんに紹介されて名刺をいただいた。東さんと言えばミステリマガジンの連載でよく読んでいたが、「スペンサーの料理」を刊行したのはもう20年前だという。自宅に帰って本棚を探したら文春新書「エルヴィス・プレスリー」があった。東さんは音楽もプロだ。エルヴィスの話をうかがっておきたかったなあ。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![105]
公共の場で撮るときはマナーを守ろう(!?)
──要はお詫びと言い訳
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20091023140100.html
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前回、テーマパークや庭園などの公共の施設でコスプレイヤーや人形などを撮影するときは、事前に管理者に申請を出して、許可を得てから実行するのが望ましい、というようなことを書いた。その舌の根の乾かぬうちに、ゲリラ撮影を二度にわたって決行してしまった。「よい子はまねしないでね」みたいな調子で諭しつつ、自分は平気でやっているその了見はいかなるものか、とお叱りを受けそうな、ちょっと危険な香りの漂うレポートです。
●少数ならまかり通る道徳的グレーゾーン
電車に乗ると、たいてい「携帯電話による通話はご遠慮ください」というアナウンスがある。しかし「高歌放吟はご遠慮ください」というアナウンスは、ない。少なくとも私はいまだかつて聞いたことがない。なぜか。そんなことする人がいないから。麻雀をするのはご遠慮ください、くさやを焼くのはご遠慮ください、お座敷ゲレンデでスキーをするのはご遠慮ください、日本酒を醸造するのはご遠慮ください、などといちいち並べ立てていては、ゲシュタルト崩壊してしまう。あるいは、終点に着いてしまう。
しかし、もし、通勤電車の中で大声で歌う人がいたら、どうなるのだろう。まず、ケータイで話されるよりは、まわりへの迷惑度は大きいだろう。ド下手だと特に。けど、案外、苦情を持ち込んだりする人はなく、まかり通っちゃったりするのではあるまいか。わけのわからんやつって、たま〜に見かけるし、被害の度合いだって、財布を抜き取られるとかケツをなでられるとかに比べれば、ぬかみそが腐るぐらい微々たるもんだし、放っときゃいいか、ってなもんで。
これを放置したからといって、市民権を得たとばかりに毎日歌われるとか、真似するやつが増えてどの車両に乗ってもうなり声がなり声の嵐になっちゃう、なんてことにもなるまい。なったらなったで、そのときに、禁止のアナウンスをするとか、高歌放吟専用車両を設けるとか、すればいい。一人がやれば、単発の珍事。大勢がやれば社会問題。そんなもんだ。
路上での無許可撮影というのも、これに類する行為なんではないかと。一人がやる分には、たまたま通りがかった通行人もけっこう寛容で、珍しい光景が見れていい退屈しのぎになった、ぐらいで笑って許してくれる。けど、もしこんなのが大流行して、そこいらじゅうで見かけるようになったら、やっぱうっとおしい(←なぜか変換できない※)し、苦言を呈したくもなるわな。
※某巨大掲示板発祥のネタ。下記のように使って遊ぶ。
ふいんき(←何故か変換できない)
そのとうり(←なぜか変換できない)
がいしゅつ(←なぜか変換できない)
ほっぽうりょうど(←なぜか返還されない)
童貞(←なぜか卒業できない)
見つめあうと(←素直におしゃべりできない)
自衛隊(←なぜか派遣できない)
せんたっき(←なぜか変換できる)
空気(←なぜか読めない)
Romantic(←止まらない)
えーっと何の話だったっけ? そうだ、ゲリラ撮影。私とて、人々から賞賛されるような立派なことをしているわけではないってことは、重々承知している。なので、せめて姿勢はいつも低く低くと心がけている。少し離れたところから見ている人がいることに気がついたら、まずこっちから「どうもすみません」と謝っちゃう。たいていの場合「あ、いえいえ、見てるだけですから」と言ってくれる。そこで撮影の主旨を説明すれば、納得してくれる。
話がはずんじゃうこともある。展示するイベントの情報を聞いていってくれる人もいる。励ましてくれる人や、礼を言って立ち去っていく人さえいる。これがもし逆に、黙っていると、見ている人の不安がどんどん高じていったかもしれない。そうすると、直接話しかけるのもなんだか恐いから、どこかに苦情を持ち込むしかない、という気になるかもしれない。「なんか変な人たちが、よく分からないことをしてるんですけど、あれはいったい何なんでしょう? 宗教団体かなんかですかね?」なんて。そうなると、たとえ許可を取っていたとしても、即中止させられ、二度と許可が下りなくなる。
このあたり、問題がたいへん微妙で、こんなふうに論じること自体も、自分の行為を正当化しようとしている、盗っ人猛々しい、と受け取られまいかと、びくびくもんである。だけど、経験から来る所感をあえて述べちゃうと、路上撮影そのものが迷惑行為かどうかは、それ自体ではなんとも言えなくて、たまたま通りがかった人から、楽しいものを見たと喜んでもらえるか、怪しげな光景を見たと気味悪がられるかは、コミュニケーションのとり方いかんにかかっている。笑って帰っていただければ、こっちだって少なくとも社会にマイナスの影響を与えるようなことはしてないぞ、と気分が楽になる。
これと関連付けて言うのはまた微妙なんですが、実地における被害規模はさほどのものでもなかったのに、行為を描写した情報のインパクトゆえ、またたく間に世間の知るところとなり、その騒ぎゆえに容赦ない批判を受けたり厳しい処罰を食らったりってことが、最近よくあるような気がしませんか。「お騒がせしました」と言って謝罪することになるわけだが、細かい理屈を言えば「騒がせ」てはおらず、騒いだ人が自発的に騒いだだけであって、もし騒がなければ事件でも何でもなかったんじゃないかなー、なんて。私がもしその立場だったら、うっかり「お騒がれしました」なんて言っちゃいそうだ。言い間違いの中に、ぼろっと本音が出ちゃう現象をフロイディアン・スリップというのだが。選挙で当選した政治家がうっかり「おかねさまで」って言っちゃう、アレです。
しばらく前に、酒に酔って公園で裸になって大声をあげて捕まったタレントが世間を「騒がせ」たけど。あれだって、実地における迷惑は、近隣住民がうるさい声を聞かされたということだけであって、裸は通報で駆けつけた警官しか見てないんだよね。つい最近では、名門私立大学の男子学生9人が早朝の駅の構内を全裸で走り回るという事件があった。もちろん日本では公共の場で裸になってはいけないと法律で決められていて、それに沿った処罰を食らうのは仕方がないことなのだが、ただ、実地における人々の迷惑や社会秩序の混乱がどの程度であったかという尺度からするとミクロンオーダーの小事件でありながら、情報の伝わり方や人々のリアクションにおいては大事件のような騒ぎになっちゃったという点においては、多少気の毒な気がしないでもない。
秋葉原にまだ歩行者天国があったころ、ミニスカートの路上アイドルが、カメラ持参で群がるファンたちに、足を上げて行き過ぎたサービスをしたという事件があったが、これも、被害者がどこにいる、という観点からすると、類例に位置づけうるかもしれない。私には博愛主義の天使のように見えたけどなー。mixiで見つけてマイミク申請を送ったら、「ライブなどでよく会うなど、リアルなお知り合いに限定したい」という理由つきで、丁重なお断りのメッセージが送られてきた。おぉ、礼儀をわきまえた、いい人じゃん。沢本あすか。好感度、ぎゅーんと上がりました、私の中では。
けど、ネットではこれでもかっちゅうぐらい、叩かれてましたねー。まあ、こういうのを笑って見過ごす社会よりは、許さない社会のほうが健全なんだろうけど。同じホコ天で、「ハレ晴れユカイ」をすごい大集団で踊っちゃって、途中で警察官がやってきたら蜘蛛の子を散らすように逃げていくという映像がYouTube にアップされているけど、あれなんて、見て大笑いすればいいんじゃないかと思うんだけど、ネットではやっぱりようけ叩かれてました。
35年くらい前、ストリーキングというのが話題になりましたね。人がいっぱいいる繁華街などを全裸で走り抜けるという遊び。もちろん、捕まれば処罰される。私は小学校6年生だったが、昨日のことのように覚えている。隣の席の門脇くん(仮名)は、とっても素直な性格の子で、牛乳を飲んでいる最中に私が横からアヤシゲな抑揚をつけて「ストォリーキィィィング!」と言うと、盛大に吹いてくれた。ああもちろん小池先生(仮名)からはこっぴどく叱られましたとも。
まあ、ストリーキングは、世間に騒いでもらうこと自体が目的だったようなフシがあり、それを大事件のように報道しちゃうマスコミもマスコミなら、狙いどおりに騒いじゃう大衆も大衆である。あの時代は、人々は元気がよく、付和雷同的で、ヒーローを待ち望んでいて、なにかと騒がしかった。1970年のコンニチハ〜、ですね。
......話が大幅に逸れまくり、何が言いたいのかよく分からなくなってきたが、要はお詫びと言い訳です。あんまり望ましい行為でないことは重々承知の上、ひたすら低姿勢で臨んでいます、目立ちたいとか騒がれたいとか、めっそうもございません、周囲に及ぼすマイナスの影響はあっても微々たるものであることを鑑み、寛大な心でお許しいただければ、と。要約するとわずか5行ですね。
余談だけど、電車の中などで、無意識のうちについつい口から歌が出てたってこと、みなさんはありませんか? 頭の中で勝手に鳴っていた音(「ディラン効果」でいいのかな?)が、いつの間にか口から漏れ出ていた、みたいな。私の場合、最近だと、どういうわけか、石川ひとみの「パープルミステリー」がよく出てくる。精神医学的にはチック症状の一種なのではないかという気がしなくもないが、フルコーラス歌い切るチックがあるかどうかは知らない。
●神様のご慈悲に甘えて
関東地方を台風が襲った木曜、民家のトタン屋根が飛来して軌道に落ちたとかで、電車が止まった。人手では動かせず、クレーンを手配中、なんてアナウンスがあって、こりゃー当分動かんわ、とは思ったけど、会社に着いたのは午後1時過ぎだった。この日、人形作家の美登利さんとメールをやりとりして、急遽、3日後の日曜に撮影をしようという話になった。
前日の10月7日(水)から翌週の10月15日(木)までの予定で、丸善・丸の内本店4Fギャラリーにて「人・形(ヒトガタ)展」が開催中だったのだが、2日目にして、白蟻姫に買い手がついたそうである。まだ私は一枚も撮っていない。ぜひっ。会期が終わると会場から買い手に発送されちゃうとのことで、その前に何とか。で、土曜の閉店後に美登利さんが連れ出し、日曜の早朝に撮影して、9時の開店時にはさりげなく元に戻しておこう、というスリリングなことを企てたのである。
さて、どこで撮ろうか。白蟻、白蟻、と考えて、なぜか思いついちゃったのは、神社である。おいしそうな神社、攻略する白蟻という構図。帰りがけにロケハン。と思ったら、今度は踏み切り事故とかで、またもや電車が止まってる。昼の現場とビミョーに近い。まさか屋根を飛ばされちゃった民家の住人が...(←考えすぎだった)。別の路線で迂回する。風がまだ強くて、人があんまり歩いていない不気味な夜の寺社めぐり。ここぞというポイントを見つけておいた。
日曜、初電で撮影場所に向かう。6時から撮影。乾いた空気、赤みを帯びてまぶしい朝日、さわやかな神社の朝だ。人影はまばら。ぜんぜんいなくはない。神社をミニチュアにしたような祠(ほこら)があって、ちょうど人形サイズだったりする。座らせて、撮る。
意外にも、というか自分の生活習慣をうっかり世の中の標準のように錯覚してただけなのだが、この時間から参拝に来る人って、いるんですね。毎朝の散歩コースに組み込まれている、という調子で、さっと来てさっと拝んでさっと去っていく。その度ごとに平謝り。白蟻姫はそこに据えっぱなしなので、まるで人形を拝んでいるような格好になっちゃう。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。心広きみなさまに白蟻ちゃんのご利益が降り注ぎますように。
そうこうするうちに、横の本殿から人が出てきた。怒られるかと思ったら、ほめられた。すばらしい人形ですね、と。おお、さすがは神職、お目が高い。ただ、心配なことが一点あったようで、一言だけ注意を述べられた。「置いてかないで、ちゃんと持って帰ってくださいね」。そこですかい。捨て子じゃありませんて。まあ、和歌山の淡島神社のような例もあるし。人形の持ち主が亡くなって、形見分けではみんな気味悪がって引き取り手がなく、神社へ、っていうパターンはあるのかもしれない。だいじょうぶです、ご心配なく。
これで大手を振って撮れると思いきや。警備員さんがつかつかつかとやってきて、きっつい調子で「許可取ってやってんですか」。あ、いえ、その。先ほど神社の方とはお話ししたのですが。「神社の方って誰?」。明らかにムッとした調子。「俺は聞いてねーぞ!!!」と顔に大書してある。あ、すみませんすみませんすぐに撤退します。
終了。けど、あと少しで、もともと撮影終了予定にしていた時間だ。だいたい撮り終えている。ラッキー。われわれのために、神様が特別に計らってくれたということでしょうか。え〜っと、よい子はまねしないでね。
●表参道で人形撮るのはそんなに変ですかそうですか
このところ、美登利さんの動きが目まぐるしい。丸善の「人・形展」と同時開催で、京都の人形店「昔人形青山/K1ドヲル」にも作品を展示している。このお店では、月代わりでひとりの人形作家の作品の特別展示を催しているのだが、10月4日(日)〜31日(土)は「林美登利人形展」である。そっちには新作2体を出品している。ぽっこりと角の生えかけた「鬼娘」は、9月27日(日)に、群生する曼珠沙華の咲く巾着田で撮影させてもらっている。魚の下半身が鳥の羽でできている「金魚姫」は、10月1日(木)の午前中、出社前に中野哲学堂で撮影させてもらっている。両方とも売れちゃったというから、撮っておいてよかった。
下記サイトで[Monthly K1-doll]をつつくと、展示の写真が見れます。
< http://www2.odn.ne.jp/k1-aoyama/
>
一方、「人・形展」には3体出品していた。口から寄生キノコの生えた「冬虫夏草」ちゃんは、8月28日(金)に撮らせてもらっているけど、その後、手が加えられ、別人のように様変わりしている。搬入用に箱を作っている暇がなくて、むきだしのまま抱えて電車に乗ってきたそうで、そうとう怪しい人になっていたらしい。カラオケ屋でセーラー服を着た私の上をいく大胆さのような気がするが、セーラー服のほうがまだ上だという意見もある。「竜樹(りゅうじゅ)」くんは、鬼の子のような姿の小さな人形。「白蟻姫」を撮り終えて返したとき、会場で撮らせてもらった。
白蟻姫と竜樹くんが買われていった。多少スケジュールに無理があっても、撮れるうちに撮っとかないと、どんどんいなくなってしまうのだ。10月24日(土)、25日(日)のデザフェスに出品できるのが冬虫夏草ちゃんしかいないので、新しいの作らなきゃ、なんて軽く言ってるけど、可能なのかいな。まあ、できるような気がする。今、フロー状態(※)なんじゃないかな。
(※)フロー:心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱された概念で、人間がそのときしていることに、完全に浸りきり、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動中の精神状態をいう。(ウィキペディアより)
10月17日(土)、美登利さんは新生冬虫夏草ちゃんと小学校一年生の息子さんを連れて原宿にやってきた。代々木公園に行って撮れば普通なのだが、気分を変えてみたくなった。エレガントなファッションタウン、無関心に通りすぎる都会の若者たち、ぽつねんと取り残された人形、みたいな構図で撮ってみたくなった。表参道へ。
いや〜人だらけ。ひっきりなしの人の流れは、我々を避けるように膨らんだ弧を描いていたかもしれない。だけど、そこは原宿。人だかりができるとか、交通が大混乱に陥るとか、通報を受けて機動隊が出動するとか、ヘリコプターが上空にホバリングしてテレビ中継されるとか、そういった騒ぎにまではならなかった。
私は撮ることに神経を集中していたので、まわりの反応には気がついていなかったのだが、美登利さんによれば、ちょっと立ち止まって眺めていく人や、「うわ、なにこれー」みたいな感想を述べていく人はけっこういたようである。そういえば、一度だけ "strange" という英語が耳に入り、「はいはいどうせストレンジイエローモンキーですよ、悪うござんしたね」と心の中で反応したっけ。
いずれにせよ、「お騒がせ」というほどの事態には至らず、ほぼ黙殺していただけたのは、こちらとしてはたいへんありがたかった。まあ、原宿だから。奇異な人にいちいち反応していては、歩けんわな。こっちとしては、変人っぷりをこれ見よがしに見せつけてやろうなんて気はさらさらないのだけれど、自然体のつもりでいながら奇異に映るという今の事態は、少し考えたほうがいいのかもしれない。
神社で撮った白蟻姫の写真はこちら:
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Shrine091011/
>
原宿で撮った冬虫夏草ちゃんの写真はこちら:
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Town091017/
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【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
誘惑に屈した。ネットでたまたま見つけたバレエ用品のお店「コッペリア」。レオタードやトウシューズだけでなく、部屋着なんかも扱っていて。「レイシースワン」っていうネグリジェが超かわいいの。白のコットン100%で、丈が長くて、フリルひらひらで。下までボタンがあって全部開くタイプではないめんどうくささが、かわいさのポイントなんだわ。
けっこういいお値段なんで、迷いに迷ったんだけど、自分を納得させる時間が必要だっただけで、結論は最初から決まってたんだわ。値引きセールやってるのを見た瞬間、マウスボタンを「ぽちっとなー」。まずANAのページに行って、そこから楽天に行き、クレジットカードで決済してポイント3重取りというちゃっかりコースは忘れてないんだけど。だけど、その直後に、値引き、プラス、ポイント5倍セールやってて、ちょっとくやしい。
土曜日に届いて、わくわくしながら開けたら、期待以上のかわいさで。思わずぎゅーっと抱いてすりすりしちゃった。ボクの宝物。ネグリジェ着て寝るのは初めてだったけど、これ、いいわぁ〜。ストレス社会のトラップから逃れるためのマジックワードは「ナルシシズム」だと思うの。四六時中でなくてもいいけど、自分かわいい〜、ってうっとりしてる時間って、誰にも必要よね。オススメよ〜ん。
< http://www.coppelia.co.jp/
>
原宿での撮影の前に、銀座のヴァニラ画廊でたまさんの少女主義的水彩画展「Gallows」を見てきた。どうして白(イノセント)と黒(残虐性)がうまく融合して彩り豊かな美を放つかなーという不思議な絵。1年前のデザフェスでブースに立ち寄ってちょこっとお話ししただけなので、覚えてないかなーと思いきや、「ヒゲ、伸びましたね」と。天才?
今度のデザフェス、美登利さんと組んで、人形と写真を出展します。写真は美登利さんの人形のだけで構成します。10月24日(土)25日(日)11:00〜19:00東京ビッグサイトにて。ブースはC0566。鳥取の「中華コスプレ・プロジェクト」とカブった。そっちも行きたいのは山々山々山また山なのだが、残念。
< http://www.designfesta.com/index.html
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< http://www.pulse.vc/cos/
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■編集後記(10/23)
・人を殺しても一人までなら死刑にはならない。そんなばかな話が通用する。殺害された被害者が一人の事件で、死刑を適用すべきかが争点となった裁判が最近ふたつあった。あの江東区殺人死体切断遺棄事件。一審判決は「殺害に計画性はなく反省もしており、死刑は重すぎる」「殺害行為は冷酷ではあるが、残虐極まりないとまでは言えない」など信じられない判断で無期懲役、当然検察側は控訴したが、東京高裁で棄却されてしまった。弁護側は被告が深く反省していることなどを挙げたほか、「過去に被害者が一人で死刑判決が出たほかの事件と比べても特別に悪質だったとはいえない」と言う。悪質性の度合いが低いから(充分悪質だろうが!)極刑回避という理屈だが、遺族は納得できるわけがない。長崎市長射殺事件の福岡高裁判決では、一審の死刑を覆し無期懲役が言い渡された。その理由は、被害者が一人にとどまっているから、極刑は慎重の上にも慎重に、とかいって回避したのだ。遺族は納得できるわけがない。裁判所なんかあてにならない、自分が当事者なら自分で裁いてやるといつも思う。娘を殺されたフランス人の父が、ドイツ人の容疑者の引き渡しを拒むドイツから誘拐し、フランスで刑に服させようとしたというニュース。27年かけた復讐談は感動的だ。その執念を支持する。/↓閣僚みんな変な目だよ(柴田)
・GrowHairさんと性別交換したい……。フリルの服より黒の燕尾服が〜。あ、でも試着するならマリー・アントワネットかエリザベートの豪華輪っかドレスだな。/今のお部屋は窓が大きい上に遮るものが少なく、朝日や夕日が見られるのが嬉しい。今朝はオリオン座あたりで流星っぽいのが見られた。街灯があるのでうっすらだけど。南西で一日中明るく、お日様が出ている間は電灯不要。西日が目に直撃する夕方30分はカーテンが必要になるが。夏場はきっと一日中暑いだろう。雲を見るのは楽しい。いつも違うから。豪雨でなければ、雨が降っているかどうかわかりにくいのが欠点か。/原口大臣の目が変。大臣就任してすぐのインタビューの時からそう思っているんだけど、気になる人いません? まばたきが少ないというか、目の焦点がぼやけているというか。あんな目だったかなぁ。寝不足なのかなぁ。(hammer.mule)
< https://bn.dgcr.com/archives/20091016140200.html
>
お金も手間もかからずにカラマネ環境
< http://www.dtp-booster.com/vol09/
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制作者のための出力できるPDF
地味で誠実VS危険で魅力的
【縛り首の木/決断の3時10分/ペイルライダー】
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20091023140200.html
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●日本の映画監督がOK牧場の決闘を映画化する話
逢坂剛さんの「墓石の伝説」を読んだのは、数年前のことになる。西部劇大好きの逢坂さんと「墓石」とくれば、それがトゥームストーンという名前の西部の町だと、知っている人は思うだろう。そう、OK牧場の決闘で有名になったトゥームストーンだ。ジェームス・ガーナー主演の「墓石と決闘」(1967年)という映画もあった。
「墓石と決闘」は「OK牧場の決闘」(1957年)を撮ったジョン・スタージェスが、10年後に決闘の後日談を描いた映画だった。ワイアット・アープはバート・ランカスターからジェームス・ガーナーに変わり、ドク・ホリディはカーク・ダグラスからジェーソン・ロバーズに変わった。
OKコラルが「牧場」ではなく、単なる馬つなぎ場(要するに、現代で言えば駐車場みたいなもの)だったことは、今ではかなり知られるようになった。確かに「墓石と決闘」でも、町はずれの囲いがある大して広くないところでの撃ち合いから映画は始まった。その後、ワイアット・アープとドク・ホリディらは、それが私闘かどうかを裁判で問われることになる。
逢坂さんの「墓石の伝説」は、伝説的な日本の映画監督がOK牧場の決闘を映画化しようとする話である。その小説の中で、逢坂さんは西部劇に関するマニアックな知識を全開にしていて、僕なんかが読むと「そう、そう」とうなずくことが多い。しかし、一般的にはどうだろう。新聞に連載された小説だが、マニアックすぎたのではないか。
面白いのは、西部劇ファンの映画監督が、もうひとりのディープな西部劇マニアと対談する場面である。ふたりとも自己の主張を譲らず、ケンカになる。単純な話で、「西部劇の監督ベスト3」とか「西部劇ベスト3」を選ぶ話などがきっかけになる。こうなると、マニアは困ったもので、絶対に譲らない。僕も似たところがあるので、読みながら深く反省した。
「墓石と決闘」を読んでいると、逢坂さんのB級西部劇好みがよくわかる。主演者の名前だって、オーディ・マーフィ、ランドルフ・スコット、グレン・フォード、ジョエル・マクリーなど、今では誰も知らない名前ばかりが出てくる。アラン・ラッドは「シェーン」(1953年)があるから、かろうじて今でも名前が残っているが、あれだって典型的なB級西部劇だった。
そんな中で、逢坂さんがよく出してくるのがデルマー・デイビスという監督だった。デルマー・デイビスと言えば、僕には「避暑地の出来事」(1959年)「恋愛専科」(1962年)「スペンサーの山」(1963年)の監督という認識しかない。B級の恋愛映画を撮った人としか思っていなかった。いや、トロイ・ドナヒューの専属監督だと思っていた。ところが、逢坂さんは西部劇監督ベスト3に入れている。
そこで少し調べてみると、30過ぎのときに「化石の森」(1936年)を撮っているではないか。おおっ、と僕は唸った。ハンフリー・ボガートの悪役が強烈だった作品だ。名作である。少し見直した。その後のフィルモグラフィーには、「折れた矢」(1950年)「襲われた幌馬車」(1956年)「決断の3時10分」(1957年)「縛り首の木」(1959年)という西部劇の名作が並んでいた。
●「縛り首の木」は物騒なタイトルだが深い考察がある
もう初老と言ってもいい歳のゲイリー・クーパーが主人公の「縛り首の木」は不思議な作品である。デルマー・デイビスの最後の西部劇らしい。この後、デルマー・デイビスはトロイ・ドナヒュー主演映画を3本続けて撮り、その後はスザンヌ・プレシェットの映画を数本撮る。
「縛り首の木」は原題のままの物騒なタイトルだが、内容は深い考察に充ちた西部劇である。ある金鉱の町に流れてきた初老のガンマン風の男は実は医者で、その町になくてはならない存在になる。ヒロインはドイツ人のマリア・シェル(マクシミリアン・シェルの姉)である。ヨーロッパの女優が西部劇のヒロインをやった例は他に知らない。
ゲイリー・クーパーはある若者を助け、その若者は彼の医療助手として働くようになる。ある日、駅馬車が襲われ、たったひとり生き残った女性が救われるが、彼女は太陽に灼かれて全身にひどい火傷を負っていた。さらに、目も灼かれて失明寸前だった。その女性をクーパーと助手が看病するシーンが延々と続くのである。
「縛り首の木」は過去に傷を負った男が、新しい土地にきて住み着き、人生をやり直そうとする話だったのだと見終わってからわかる構造になっている。西部劇というよりは、初老の男と彼を再生させるきっかけになる若い女性の恋愛劇という印象だ。この作品の後、デルマー・デイビスが恋愛劇ばかり作ったのも納得できた。
デルマー・デイビスが西部劇監督だった頃の最高傑作は「決断の3時10分」だろう。原題は「3時10分ユマ行き」という意味だが、それは、今年の夏に公開になったリメイク版「3時10分、決断のとき」も同じである。リメイク版には、ラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルが出演している。ラッセル・クロウがグレン・フォードの役で、クリスチャン・ベイルはヴァン・ヘフリンの役である。
ラッセル・クロウの方がクリスチャン・ベイルより格上だが、オリジナル版でもグレン・フォードの名前が最初に出る。グレン・フォードは1940年代から50年代にかけて、多くの主演作を持つスターである。代表作は「ギルダ」(1946年)が有名だが、その他にもいろいろある。「暴力教室」(1955年)の教師役もよく知られている。もっとも、主題歌の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の方が有名ではあるけれど...。
一方のヴァン・ヘフリンは地味な役者だし、主演級スターではなかった。しかし、「決断の3時10分」は間違いなく彼が主演である。ヴァン・ヘフリンは、「シェーン」の開拓農民の役で多くの人に顔を知られているが、この映画でも同じような役を演じて、「シェーン」の役に対して異議申し立てをしているかのようだ。それが監督のデルマー・デイビスの主張だったのかもしれない。
「シェーン」が公開されて大ヒットし、西部劇の代表作のように言われ、名作としての評価が定まった頃、「決断の3時10分」は作られた。「シェーン」の4年後の制作である。「シェーン」のヴァン・ヘフリンは開拓地に入植し地道に働き妻子を養っていたのに、妻子はある日フラッとやってきた流れ者のガンマンに心を寄せてしまう。妻はシェーンに露骨な視線を注ぐし、息子は「シェーン、カムバック」と、父親より銃のうまい流れ者を尊敬する。
もちろん、ヴァン・ヘフリンは狭量な男ではない。愛する貞淑な妻がシェーンに心を寄せていることに気付きながら、そのことを許容する。シェーンを友として遇する。父親より他人の方が息子の教育者として適していると受け入れ、息子がシェーンに憧れるままにさせておく。しかし、彼もいつかきっと自分の真価を、息子が認めてくれることを願っていたに違いない。
そんな、開拓農民であるヴァン・ヘフリンの想いを実現させる物語をデルマー・デイビスは制作した。「決断の3時10分」を見たとき、僕はずっと「シェーン」を思い出していた。ある意味では、「シェーン」のアンチテーゼとして「決断の3時10分」は存在する。
●夫への愛が伝わってくる感動的なラストシーン
「決断の3時10分」は、十数人の男たちが駅馬車を襲うところから始まる。強盗団のボス(グレン・フォード)は御者を射殺するが、それを牛追いの途中で見ていたのが小さな牧場をやっているヴァン・ヘフリンと二人の息子たちだ。「助けよう」という息子たちに、父親は「様子を見よう」と答える。
グレン・フォードは町の酒場に寄り、酒場の女とつかの間の情事を持つ。危険な香りを持つ男は、女にとって魅力的なのだ。だが、その間に保安官に知らせが届き、グレン・フォードは逮捕されてしまう。保安官は列車が停まる一番近い町までグレン・フォードを送り、そこからユマ行き列車に乗せようとするが、グレン・フォードの部下たちが奪還にくることを耳にする。
保安官は自分がおとりの護送隊になり、グレン・フォードは別の人間たちに護送させようと報奨金を出して人を募る。手を挙げたのがヴァン・ヘフリンと酔っ払いの男である。ヴァン・ヘフリンは水不足が続いて牛に水を飲ませることができず、現金を稼いで大きな牧場の川で水を飲ませる権利を獲得したかったのだ。
ヴァン・ヘフリンは酔っ払いの男とふたりでグレン・フォードを護送するが、まず自宅に連れ帰り食事をさせる。グレン・フォードは何人も殺した無法者だが、女にとっては魅力的な男だ。話もうまく、ハンサムである。ヴァン・ヘフリンの妻も好意を持った意味のことを夫に告げる。グレン・フォードも「いい奥さんだな。貧乏暮らしで可哀想だ」と口にする。
まるで「シェーン」みたいなシチュエーションである。違うのは、同じガンマンであってもシェーンは開拓農民のために立ち上がり、グレン・フォードは強盗犯として逮捕されていることである。ヴァン・ヘフリンの妻は「子どもたちが、あなたをヒーローを見る目で見ていたわ」と言うが、ヴァン・ヘフリンは子どもたちに自分の勇敢さを誇るために護送役を買って出たのかもしれない。
ヴァン・ヘフリンは慣れない銃を構えてグレン・フォードを護送し、駅がある町に着き列車の時刻までホテルの部屋に入る。グレン・フォードが「俺を逃がせば金をやる」と彼を誘惑する。また、隙を見て銃を奪おうとする。部下たちがボスを奪い返しにやってくる。相棒の酔っ払いの男は射殺され、ホテルの天井から吊される。「殺されるぞ。俺を逃がせ。美人の奥さんのところに帰れ」とグレン・フォードは囁く。ヴァン・ヘフリンは迷う。
二枚目ではない、どちらかと言えば悪役面のヴァン・ヘフリンの心の迷いが伝わってくる。もちろん命は惜しいし、妻子のことを考えれば死ぬわけにはいかない。だが、一度引き受けた使命を投げ出すわけにもいかない。自分は流れ者のアウトローのようなヒーロータイプではない。地味な存在だ。だが、妻の言葉への反発もある。臆病と思われる態度を子どもたちに見せてしまった後悔もある。だから、見返したい。
ずっと雨が降らず、そのことでヴァン・ヘフリンは追い込まれていたのだが、グレン・フォードの部下たちが集まった頃から雷鳴が轟き始める。ヴァン・ヘフリンの妻が夫を心配して、馬車でやってくる。彼女は自分が不用意にもらしたグレン・フォードへの好意的な言葉に、夫がこだわっていることを感じ取ったのだろう。その罪滅ぼしの気持ちもあったに違いない。やがて、ユマへ向かう列車が町に入ってきた。3時10分が近づいてくる...。
「決断の3時10分」で、デルマー・デイビスは「シェーン」的な西部劇に反論しているかのようだ。地味なヴァン・ヘフリンに花を持たせ、ラストシーンで愛し合う夫婦の明るい未来を感じさせる。妻は単調で刺激のない貧乏暮らしの日々に訪れた非日常的な状況(有名なアウトローと食事をし、その魅力的な話にひきこまれたこと)に、少し心が揺れただけ。夫を強く愛していたのだと伝わってくる感動的なラストシーンだった。
ちなみに、「シェーン」のパターンを踏襲して魅力的な西部劇を作ったのは、クリント・イーストウッドだった。「ペイルライダー」(1985年)である。迫害されている砂金掘りたちの集落にいる少女の願いを叶えるように、ひとりの男がやってくる。彼は牧師であり、銃の名手だった。ラストシーン、悪者たちを退治して去っていくガンマンに向かって、少女は「プリチャー(牧師)」と叫ぶ。背景は高い山々だ。
「ペイルライダー」では、少女の母親は実直で地味だが自分たちを大事にしてくれる男ではなく、流れ者のガンマンに積極的に身を投げ出して誘う。やがて、ガンマンが去った後、地道な男の求婚を受け入れる。昔も今も、アウトローのように強くて危険な匂いのする男が魅力的に見えるのは、何も女性に限ったことではない。男だって、そんなヒーローに憧れている。地味で誠実な男より危険な男の方が魅力的なのは間違いない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
酒場で東理夫さんに紹介されて名刺をいただいた。東さんと言えばミステリマガジンの連載でよく読んでいたが、「スペンサーの料理」を刊行したのはもう20年前だという。自宅に帰って本棚を探したら文春新書「エルヴィス・プレスリー」があった。東さんは音楽もプロだ。エルヴィスの話をうかがっておきたかったなあ。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![105]
公共の場で撮るときはマナーを守ろう(!?)
──要はお詫びと言い訳
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20091023140100.html
>
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前回、テーマパークや庭園などの公共の施設でコスプレイヤーや人形などを撮影するときは、事前に管理者に申請を出して、許可を得てから実行するのが望ましい、というようなことを書いた。その舌の根の乾かぬうちに、ゲリラ撮影を二度にわたって決行してしまった。「よい子はまねしないでね」みたいな調子で諭しつつ、自分は平気でやっているその了見はいかなるものか、とお叱りを受けそうな、ちょっと危険な香りの漂うレポートです。
●少数ならまかり通る道徳的グレーゾーン
電車に乗ると、たいてい「携帯電話による通話はご遠慮ください」というアナウンスがある。しかし「高歌放吟はご遠慮ください」というアナウンスは、ない。少なくとも私はいまだかつて聞いたことがない。なぜか。そんなことする人がいないから。麻雀をするのはご遠慮ください、くさやを焼くのはご遠慮ください、お座敷ゲレンデでスキーをするのはご遠慮ください、日本酒を醸造するのはご遠慮ください、などといちいち並べ立てていては、ゲシュタルト崩壊してしまう。あるいは、終点に着いてしまう。
しかし、もし、通勤電車の中で大声で歌う人がいたら、どうなるのだろう。まず、ケータイで話されるよりは、まわりへの迷惑度は大きいだろう。ド下手だと特に。けど、案外、苦情を持ち込んだりする人はなく、まかり通っちゃったりするのではあるまいか。わけのわからんやつって、たま〜に見かけるし、被害の度合いだって、財布を抜き取られるとかケツをなでられるとかに比べれば、ぬかみそが腐るぐらい微々たるもんだし、放っときゃいいか、ってなもんで。
これを放置したからといって、市民権を得たとばかりに毎日歌われるとか、真似するやつが増えてどの車両に乗ってもうなり声がなり声の嵐になっちゃう、なんてことにもなるまい。なったらなったで、そのときに、禁止のアナウンスをするとか、高歌放吟専用車両を設けるとか、すればいい。一人がやれば、単発の珍事。大勢がやれば社会問題。そんなもんだ。
路上での無許可撮影というのも、これに類する行為なんではないかと。一人がやる分には、たまたま通りがかった通行人もけっこう寛容で、珍しい光景が見れていい退屈しのぎになった、ぐらいで笑って許してくれる。けど、もしこんなのが大流行して、そこいらじゅうで見かけるようになったら、やっぱうっとおしい(←なぜか変換できない※)し、苦言を呈したくもなるわな。
※某巨大掲示板発祥のネタ。下記のように使って遊ぶ。
ふいんき(←何故か変換できない)
そのとうり(←なぜか変換できない)
がいしゅつ(←なぜか変換できない)
ほっぽうりょうど(←なぜか返還されない)
童貞(←なぜか卒業できない)
見つめあうと(←素直におしゃべりできない)
自衛隊(←なぜか派遣できない)
せんたっき(←なぜか変換できる)
空気(←なぜか読めない)
Romantic(←止まらない)
えーっと何の話だったっけ? そうだ、ゲリラ撮影。私とて、人々から賞賛されるような立派なことをしているわけではないってことは、重々承知している。なので、せめて姿勢はいつも低く低くと心がけている。少し離れたところから見ている人がいることに気がついたら、まずこっちから「どうもすみません」と謝っちゃう。たいていの場合「あ、いえいえ、見てるだけですから」と言ってくれる。そこで撮影の主旨を説明すれば、納得してくれる。
話がはずんじゃうこともある。展示するイベントの情報を聞いていってくれる人もいる。励ましてくれる人や、礼を言って立ち去っていく人さえいる。これがもし逆に、黙っていると、見ている人の不安がどんどん高じていったかもしれない。そうすると、直接話しかけるのもなんだか恐いから、どこかに苦情を持ち込むしかない、という気になるかもしれない。「なんか変な人たちが、よく分からないことをしてるんですけど、あれはいったい何なんでしょう? 宗教団体かなんかですかね?」なんて。そうなると、たとえ許可を取っていたとしても、即中止させられ、二度と許可が下りなくなる。
このあたり、問題がたいへん微妙で、こんなふうに論じること自体も、自分の行為を正当化しようとしている、盗っ人猛々しい、と受け取られまいかと、びくびくもんである。だけど、経験から来る所感をあえて述べちゃうと、路上撮影そのものが迷惑行為かどうかは、それ自体ではなんとも言えなくて、たまたま通りがかった人から、楽しいものを見たと喜んでもらえるか、怪しげな光景を見たと気味悪がられるかは、コミュニケーションのとり方いかんにかかっている。笑って帰っていただければ、こっちだって少なくとも社会にマイナスの影響を与えるようなことはしてないぞ、と気分が楽になる。
これと関連付けて言うのはまた微妙なんですが、実地における被害規模はさほどのものでもなかったのに、行為を描写した情報のインパクトゆえ、またたく間に世間の知るところとなり、その騒ぎゆえに容赦ない批判を受けたり厳しい処罰を食らったりってことが、最近よくあるような気がしませんか。「お騒がせしました」と言って謝罪することになるわけだが、細かい理屈を言えば「騒がせ」てはおらず、騒いだ人が自発的に騒いだだけであって、もし騒がなければ事件でも何でもなかったんじゃないかなー、なんて。私がもしその立場だったら、うっかり「お騒がれしました」なんて言っちゃいそうだ。言い間違いの中に、ぼろっと本音が出ちゃう現象をフロイディアン・スリップというのだが。選挙で当選した政治家がうっかり「おかねさまで」って言っちゃう、アレです。
しばらく前に、酒に酔って公園で裸になって大声をあげて捕まったタレントが世間を「騒がせ」たけど。あれだって、実地における迷惑は、近隣住民がうるさい声を聞かされたということだけであって、裸は通報で駆けつけた警官しか見てないんだよね。つい最近では、名門私立大学の男子学生9人が早朝の駅の構内を全裸で走り回るという事件があった。もちろん日本では公共の場で裸になってはいけないと法律で決められていて、それに沿った処罰を食らうのは仕方がないことなのだが、ただ、実地における人々の迷惑や社会秩序の混乱がどの程度であったかという尺度からするとミクロンオーダーの小事件でありながら、情報の伝わり方や人々のリアクションにおいては大事件のような騒ぎになっちゃったという点においては、多少気の毒な気がしないでもない。
秋葉原にまだ歩行者天国があったころ、ミニスカートの路上アイドルが、カメラ持参で群がるファンたちに、足を上げて行き過ぎたサービスをしたという事件があったが、これも、被害者がどこにいる、という観点からすると、類例に位置づけうるかもしれない。私には博愛主義の天使のように見えたけどなー。mixiで見つけてマイミク申請を送ったら、「ライブなどでよく会うなど、リアルなお知り合いに限定したい」という理由つきで、丁重なお断りのメッセージが送られてきた。おぉ、礼儀をわきまえた、いい人じゃん。沢本あすか。好感度、ぎゅーんと上がりました、私の中では。
けど、ネットではこれでもかっちゅうぐらい、叩かれてましたねー。まあ、こういうのを笑って見過ごす社会よりは、許さない社会のほうが健全なんだろうけど。同じホコ天で、「ハレ晴れユカイ」をすごい大集団で踊っちゃって、途中で警察官がやってきたら蜘蛛の子を散らすように逃げていくという映像がYouTube にアップされているけど、あれなんて、見て大笑いすればいいんじゃないかと思うんだけど、ネットではやっぱりようけ叩かれてました。
35年くらい前、ストリーキングというのが話題になりましたね。人がいっぱいいる繁華街などを全裸で走り抜けるという遊び。もちろん、捕まれば処罰される。私は小学校6年生だったが、昨日のことのように覚えている。隣の席の門脇くん(仮名)は、とっても素直な性格の子で、牛乳を飲んでいる最中に私が横からアヤシゲな抑揚をつけて「ストォリーキィィィング!」と言うと、盛大に吹いてくれた。ああもちろん小池先生(仮名)からはこっぴどく叱られましたとも。
まあ、ストリーキングは、世間に騒いでもらうこと自体が目的だったようなフシがあり、それを大事件のように報道しちゃうマスコミもマスコミなら、狙いどおりに騒いじゃう大衆も大衆である。あの時代は、人々は元気がよく、付和雷同的で、ヒーローを待ち望んでいて、なにかと騒がしかった。1970年のコンニチハ〜、ですね。
......話が大幅に逸れまくり、何が言いたいのかよく分からなくなってきたが、要はお詫びと言い訳です。あんまり望ましい行為でないことは重々承知の上、ひたすら低姿勢で臨んでいます、目立ちたいとか騒がれたいとか、めっそうもございません、周囲に及ぼすマイナスの影響はあっても微々たるものであることを鑑み、寛大な心でお許しいただければ、と。要約するとわずか5行ですね。
余談だけど、電車の中などで、無意識のうちについつい口から歌が出てたってこと、みなさんはありませんか? 頭の中で勝手に鳴っていた音(「ディラン効果」でいいのかな?)が、いつの間にか口から漏れ出ていた、みたいな。私の場合、最近だと、どういうわけか、石川ひとみの「パープルミステリー」がよく出てくる。精神医学的にはチック症状の一種なのではないかという気がしなくもないが、フルコーラス歌い切るチックがあるかどうかは知らない。
●神様のご慈悲に甘えて
関東地方を台風が襲った木曜、民家のトタン屋根が飛来して軌道に落ちたとかで、電車が止まった。人手では動かせず、クレーンを手配中、なんてアナウンスがあって、こりゃー当分動かんわ、とは思ったけど、会社に着いたのは午後1時過ぎだった。この日、人形作家の美登利さんとメールをやりとりして、急遽、3日後の日曜に撮影をしようという話になった。
前日の10月7日(水)から翌週の10月15日(木)までの予定で、丸善・丸の内本店4Fギャラリーにて「人・形(ヒトガタ)展」が開催中だったのだが、2日目にして、白蟻姫に買い手がついたそうである。まだ私は一枚も撮っていない。ぜひっ。会期が終わると会場から買い手に発送されちゃうとのことで、その前に何とか。で、土曜の閉店後に美登利さんが連れ出し、日曜の早朝に撮影して、9時の開店時にはさりげなく元に戻しておこう、というスリリングなことを企てたのである。
さて、どこで撮ろうか。白蟻、白蟻、と考えて、なぜか思いついちゃったのは、神社である。おいしそうな神社、攻略する白蟻という構図。帰りがけにロケハン。と思ったら、今度は踏み切り事故とかで、またもや電車が止まってる。昼の現場とビミョーに近い。まさか屋根を飛ばされちゃった民家の住人が...(←考えすぎだった)。別の路線で迂回する。風がまだ強くて、人があんまり歩いていない不気味な夜の寺社めぐり。ここぞというポイントを見つけておいた。
日曜、初電で撮影場所に向かう。6時から撮影。乾いた空気、赤みを帯びてまぶしい朝日、さわやかな神社の朝だ。人影はまばら。ぜんぜんいなくはない。神社をミニチュアにしたような祠(ほこら)があって、ちょうど人形サイズだったりする。座らせて、撮る。
意外にも、というか自分の生活習慣をうっかり世の中の標準のように錯覚してただけなのだが、この時間から参拝に来る人って、いるんですね。毎朝の散歩コースに組み込まれている、という調子で、さっと来てさっと拝んでさっと去っていく。その度ごとに平謝り。白蟻姫はそこに据えっぱなしなので、まるで人形を拝んでいるような格好になっちゃう。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。心広きみなさまに白蟻ちゃんのご利益が降り注ぎますように。
そうこうするうちに、横の本殿から人が出てきた。怒られるかと思ったら、ほめられた。すばらしい人形ですね、と。おお、さすがは神職、お目が高い。ただ、心配なことが一点あったようで、一言だけ注意を述べられた。「置いてかないで、ちゃんと持って帰ってくださいね」。そこですかい。捨て子じゃありませんて。まあ、和歌山の淡島神社のような例もあるし。人形の持ち主が亡くなって、形見分けではみんな気味悪がって引き取り手がなく、神社へ、っていうパターンはあるのかもしれない。だいじょうぶです、ご心配なく。
これで大手を振って撮れると思いきや。警備員さんがつかつかつかとやってきて、きっつい調子で「許可取ってやってんですか」。あ、いえ、その。先ほど神社の方とはお話ししたのですが。「神社の方って誰?」。明らかにムッとした調子。「俺は聞いてねーぞ!!!」と顔に大書してある。あ、すみませんすみませんすぐに撤退します。
終了。けど、あと少しで、もともと撮影終了予定にしていた時間だ。だいたい撮り終えている。ラッキー。われわれのために、神様が特別に計らってくれたということでしょうか。え〜っと、よい子はまねしないでね。
●表参道で人形撮るのはそんなに変ですかそうですか
このところ、美登利さんの動きが目まぐるしい。丸善の「人・形展」と同時開催で、京都の人形店「昔人形青山/K1ドヲル」にも作品を展示している。このお店では、月代わりでひとりの人形作家の作品の特別展示を催しているのだが、10月4日(日)〜31日(土)は「林美登利人形展」である。そっちには新作2体を出品している。ぽっこりと角の生えかけた「鬼娘」は、9月27日(日)に、群生する曼珠沙華の咲く巾着田で撮影させてもらっている。魚の下半身が鳥の羽でできている「金魚姫」は、10月1日(木)の午前中、出社前に中野哲学堂で撮影させてもらっている。両方とも売れちゃったというから、撮っておいてよかった。
下記サイトで[Monthly K1-doll]をつつくと、展示の写真が見れます。
< http://www2.odn.ne.jp/k1-aoyama/
>
一方、「人・形展」には3体出品していた。口から寄生キノコの生えた「冬虫夏草」ちゃんは、8月28日(金)に撮らせてもらっているけど、その後、手が加えられ、別人のように様変わりしている。搬入用に箱を作っている暇がなくて、むきだしのまま抱えて電車に乗ってきたそうで、そうとう怪しい人になっていたらしい。カラオケ屋でセーラー服を着た私の上をいく大胆さのような気がするが、セーラー服のほうがまだ上だという意見もある。「竜樹(りゅうじゅ)」くんは、鬼の子のような姿の小さな人形。「白蟻姫」を撮り終えて返したとき、会場で撮らせてもらった。
白蟻姫と竜樹くんが買われていった。多少スケジュールに無理があっても、撮れるうちに撮っとかないと、どんどんいなくなってしまうのだ。10月24日(土)、25日(日)のデザフェスに出品できるのが冬虫夏草ちゃんしかいないので、新しいの作らなきゃ、なんて軽く言ってるけど、可能なのかいな。まあ、できるような気がする。今、フロー状態(※)なんじゃないかな。
(※)フロー:心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱された概念で、人間がそのときしていることに、完全に浸りきり、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動中の精神状態をいう。(ウィキペディアより)
10月17日(土)、美登利さんは新生冬虫夏草ちゃんと小学校一年生の息子さんを連れて原宿にやってきた。代々木公園に行って撮れば普通なのだが、気分を変えてみたくなった。エレガントなファッションタウン、無関心に通りすぎる都会の若者たち、ぽつねんと取り残された人形、みたいな構図で撮ってみたくなった。表参道へ。
いや〜人だらけ。ひっきりなしの人の流れは、我々を避けるように膨らんだ弧を描いていたかもしれない。だけど、そこは原宿。人だかりができるとか、交通が大混乱に陥るとか、通報を受けて機動隊が出動するとか、ヘリコプターが上空にホバリングしてテレビ中継されるとか、そういった騒ぎにまではならなかった。
私は撮ることに神経を集中していたので、まわりの反応には気がついていなかったのだが、美登利さんによれば、ちょっと立ち止まって眺めていく人や、「うわ、なにこれー」みたいな感想を述べていく人はけっこういたようである。そういえば、一度だけ "strange" という英語が耳に入り、「はいはいどうせストレンジイエローモンキーですよ、悪うござんしたね」と心の中で反応したっけ。
いずれにせよ、「お騒がせ」というほどの事態には至らず、ほぼ黙殺していただけたのは、こちらとしてはたいへんありがたかった。まあ、原宿だから。奇異な人にいちいち反応していては、歩けんわな。こっちとしては、変人っぷりをこれ見よがしに見せつけてやろうなんて気はさらさらないのだけれど、自然体のつもりでいながら奇異に映るという今の事態は、少し考えたほうがいいのかもしれない。
神社で撮った白蟻姫の写真はこちら:
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Shrine091011/
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原宿で撮った冬虫夏草ちゃんの写真はこちら:
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Town091017/
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【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
誘惑に屈した。ネットでたまたま見つけたバレエ用品のお店「コッペリア」。レオタードやトウシューズだけでなく、部屋着なんかも扱っていて。「レイシースワン」っていうネグリジェが超かわいいの。白のコットン100%で、丈が長くて、フリルひらひらで。下までボタンがあって全部開くタイプではないめんどうくささが、かわいさのポイントなんだわ。
けっこういいお値段なんで、迷いに迷ったんだけど、自分を納得させる時間が必要だっただけで、結論は最初から決まってたんだわ。値引きセールやってるのを見た瞬間、マウスボタンを「ぽちっとなー」。まずANAのページに行って、そこから楽天に行き、クレジットカードで決済してポイント3重取りというちゃっかりコースは忘れてないんだけど。だけど、その直後に、値引き、プラス、ポイント5倍セールやってて、ちょっとくやしい。
土曜日に届いて、わくわくしながら開けたら、期待以上のかわいさで。思わずぎゅーっと抱いてすりすりしちゃった。ボクの宝物。ネグリジェ着て寝るのは初めてだったけど、これ、いいわぁ〜。ストレス社会のトラップから逃れるためのマジックワードは「ナルシシズム」だと思うの。四六時中でなくてもいいけど、自分かわいい〜、ってうっとりしてる時間って、誰にも必要よね。オススメよ〜ん。
< http://www.coppelia.co.jp/
>
原宿での撮影の前に、銀座のヴァニラ画廊でたまさんの少女主義的水彩画展「Gallows」を見てきた。どうして白(イノセント)と黒(残虐性)がうまく融合して彩り豊かな美を放つかなーという不思議な絵。1年前のデザフェスでブースに立ち寄ってちょこっとお話ししただけなので、覚えてないかなーと思いきや、「ヒゲ、伸びましたね」と。天才?
今度のデザフェス、美登利さんと組んで、人形と写真を出展します。写真は美登利さんの人形のだけで構成します。10月24日(土)25日(日)11:00〜19:00東京ビッグサイトにて。ブースはC0566。鳥取の「中華コスプレ・プロジェクト」とカブった。そっちも行きたいのは山々山々山また山なのだが、残念。
< http://www.designfesta.com/index.html
>
< http://www.pulse.vc/cos/
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■編集後記(10/23)
・人を殺しても一人までなら死刑にはならない。そんなばかな話が通用する。殺害された被害者が一人の事件で、死刑を適用すべきかが争点となった裁判が最近ふたつあった。あの江東区殺人死体切断遺棄事件。一審判決は「殺害に計画性はなく反省もしており、死刑は重すぎる」「殺害行為は冷酷ではあるが、残虐極まりないとまでは言えない」など信じられない判断で無期懲役、当然検察側は控訴したが、東京高裁で棄却されてしまった。弁護側は被告が深く反省していることなどを挙げたほか、「過去に被害者が一人で死刑判決が出たほかの事件と比べても特別に悪質だったとはいえない」と言う。悪質性の度合いが低いから(充分悪質だろうが!)極刑回避という理屈だが、遺族は納得できるわけがない。長崎市長射殺事件の福岡高裁判決では、一審の死刑を覆し無期懲役が言い渡された。その理由は、被害者が一人にとどまっているから、極刑は慎重の上にも慎重に、とかいって回避したのだ。遺族は納得できるわけがない。裁判所なんかあてにならない、自分が当事者なら自分で裁いてやるといつも思う。娘を殺されたフランス人の父が、ドイツ人の容疑者の引き渡しを拒むドイツから誘拐し、フランスで刑に服させようとしたというニュース。27年かけた復讐談は感動的だ。その執念を支持する。/↓閣僚みんな変な目だよ(柴田)
・GrowHairさんと性別交換したい……。フリルの服より黒の燕尾服が〜。あ、でも試着するならマリー・アントワネットかエリザベートの豪華輪っかドレスだな。/今のお部屋は窓が大きい上に遮るものが少なく、朝日や夕日が見られるのが嬉しい。今朝はオリオン座あたりで流星っぽいのが見られた。街灯があるのでうっすらだけど。南西で一日中明るく、お日様が出ている間は電灯不要。西日が目に直撃する夕方30分はカーテンが必要になるが。夏場はきっと一日中暑いだろう。雲を見るのは楽しい。いつも違うから。豪雨でなければ、雨が降っているかどうかわかりにくいのが欠点か。/原口大臣の目が変。大臣就任してすぐのインタビューの時からそう思っているんだけど、気になる人いません? まばたきが少ないというか、目の焦点がぼやけているというか。あんな目だったかなぁ。寝不足なのかなぁ。(hammer.mule)
< https://bn.dgcr.com/archives/20091016140200.html
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お金も手間もかからずにカラマネ環境
< http://www.dtp-booster.com/vol09/
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