──吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、お歯ぐろ溝に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。明け暮れなどお構いなしの車の行き来はこの町の果てしない全盛を表しており、大音寺前という仏くさい名前とは裏腹に陽気な町だよ、とは住む人の言である。(たけくらべ:樋口一葉)──
●はじめに
東京の下町に魅了されてから早数年が経ち、時間が空いたとき、愛機(NikonD90)を首からぶら下げ、当時(大正〜昭和初期)の面影が残る地域へと足を運び、文化や建築物、歴史を辿りながら余暇を愉しませております。
下町の文化や建築物、歴史に興味を持たれているかたは、たくさんいらっしゃいますが、皆それぞれ、違った下町の愉しみ方をされていることが、個人BLOGなどから窺うことができます。ワタクシの愉しみかたは主に、「空気と匂い」。その地域により、四季折々の表情があることは、誰もが知っているところです。
ワタクシなんかよりも、下町の歴史に精通されているかたは、たくさんいらっしゃいますし、生粋の東京下町生まれなクリエイターさん達とも親しくさせていただいているので、こうしてコラムとして綴るのは、気後れして恥ずかしいところがあるのですが、このコラムを機に、東京下町に興味を抱いてくれる読者さんが増えると嬉しいなぁ......。
ワタクシが連載させていただいている本編とは別に、不定期掲載ながらも、東京下町の文化に触れながら、番外編コラムの本筋である、「吉原遊郭」という、江戸時代から昭和初期まで実在した、浮き世の世界を綴っていきます。
吉原遊郭の歴史は、現在の東京・日本橋-人形町あたる場所から始まり、明暦3年(1657年)に発生し、江戸の半分が燃え上がったと云われる(明暦の大火)までを「元吉原」と呼び、その後、浅草の裏手(現在の日本堤)に移転し、昭和32年(1957年)まで続いたのを「新吉原」と呼びます。ここでは、扱う内容から、「新吉原」のことを吉原と書かせていただきます。
ただ漠然と、遊郭の歴史だけを綴っても面白みがないので、ワタクシの視点で吉原遊郭という世界を表現していくのと同時に、当時の文化と、今に続く催事や下町の日常にも着目しながら、ゆっくりと綴っていければ幸いです。本編共々、宜しくお願いいたします。
●はじめに
東京の下町に魅了されてから早数年が経ち、時間が空いたとき、愛機(NikonD90)を首からぶら下げ、当時(大正〜昭和初期)の面影が残る地域へと足を運び、文化や建築物、歴史を辿りながら余暇を愉しませております。
下町の文化や建築物、歴史に興味を持たれているかたは、たくさんいらっしゃいますが、皆それぞれ、違った下町の愉しみ方をされていることが、個人BLOGなどから窺うことができます。ワタクシの愉しみかたは主に、「空気と匂い」。その地域により、四季折々の表情があることは、誰もが知っているところです。
ワタクシなんかよりも、下町の歴史に精通されているかたは、たくさんいらっしゃいますし、生粋の東京下町生まれなクリエイターさん達とも親しくさせていただいているので、こうしてコラムとして綴るのは、気後れして恥ずかしいところがあるのですが、このコラムを機に、東京下町に興味を抱いてくれる読者さんが増えると嬉しいなぁ......。
ワタクシが連載させていただいている本編とは別に、不定期掲載ながらも、東京下町の文化に触れながら、番外編コラムの本筋である、「吉原遊郭」という、江戸時代から昭和初期まで実在した、浮き世の世界を綴っていきます。
吉原遊郭の歴史は、現在の東京・日本橋-人形町あたる場所から始まり、明暦3年(1657年)に発生し、江戸の半分が燃え上がったと云われる(明暦の大火)までを「元吉原」と呼び、その後、浅草の裏手(現在の日本堤)に移転し、昭和32年(1957年)まで続いたのを「新吉原」と呼びます。ここでは、扱う内容から、「新吉原」のことを吉原と書かせていただきます。
ただ漠然と、遊郭の歴史だけを綴っても面白みがないので、ワタクシの視点で吉原遊郭という世界を表現していくのと同時に、当時の文化と、今に続く催事や下町の日常にも着目しながら、ゆっくりと綴っていければ幸いです。本編共々、宜しくお願いいたします。
●東京下町散策から「粋と張り」の花魁に魅せられるまで
2009年の春、まずは、都電荒川線沿いから散策してみよう! と、早稲田駅近くのコインパーキングに車を停め、一日乗車券を購入すると、ワタクシの記念すべき、第一回目の東京下町散策がスタートした。なぜ都電荒川線沿いから始めたかと謂うと、Googleで検索したら、荒川線沿いが面白そう! と、至って単純な理由だったり。本来なら、両国や向島、上野、浅草などの地域から散策するようですが......。
・沿線は観光ポイント、都電荒川線【東京のいいところ】:東京人の東京観光
< http://tokyoite.biz/favorite/toden_arakawasen/index.shtml
>
荒川線に揺られた散策は、古くも新しい発見や、子どものころに嗅いだことがある「空気の匂い」が流れており、途中、不審者で通報されないかと心配しながらも、家と家の間にある小道を歩いてみたり、植込みの下のほうにポッカリと開いている穴を覗いてみたりと、童心に戻って満喫。
途中から雨足が強くなってきたので、荒川線のちょうど真ん中くらいに位置している、荒川車庫前駅で一旦下車し、早稲田方面へ向かう電車が来るまで、駅に隣接(駅の敷地そのものですけど)している、都電おもいで広場で、昭和初期に活躍していた車両を眺めつつ、早稲田へと戻った。
早稲田に戻り着いた頃には、雨もパラパラと小雨に。なんだ、そのまま三ノ輪まで電車に揺られながら愉しめばよかった......、と後悔しても仕方がないので、検索してチェックしていた、天丼が美味しいという有名な老舗で夕食を済まそうと、車で三ノ輪方面へ移動。
三ノ輪近くに到着し、コインパーキングを探すも、どこも満車。駐車場の回転が良い観光地ならともかく、いつ空くか分からないコインパーキングを路上待ちしていても仕方ないので、先の天丼が美味しいお店近くまで行く。
幸い、お店のちょっと先にあったコインパーキングが空いていたので、なにも考えずに駐車。このコインパーキングに停めたことが、ワタクシと吉原遊郭の出会いになり、その世界観に魅了される入口になるとは、予想もしてなかった。
時間も18時ころと、普段より早めではあるが、先に腹ごしらえをしてしまおうと、目的の天麩羅屋さんへ向かうと、すごい行列ができている。いまさっき通ったときに、なにやら人の行列ができていたのは、チラっと見えて知っていたが、まさか、いまから食べようとしている天丼で、こんなにも行列ができているとは予想外。
どんなに軽く見積もっても、一時間以上は待ちそうだったので、車を停めたついでに、近辺を散策してみることに。
・土手の伊勢屋:食べログ
< http://r.tabelog.com/tokyo/A1324/A132401/13003745/
>
──コラム本編後記でも書いたのですが、今年の5月に、突然、天丼が食べたくなったので、土手の伊勢屋さんへカミさんと二人で足を運びました。小雨は降っていたものの、運良く5人待ちだったので、2年越しで、土手の伊勢屋さんの天丼にありつけることができました。丼からはみ出る穴子の天麩羅に、海老、イカなど、たくさんの天麩羅が、見た目とは裏腹のタレがたっぷり染み込んでいて、とても美味しかったです。「天丼は関東で喰うべし! 下町で喰うならなお美味し!」──
●衣紋坂から吉原大門
子どものころ、大人の会話の中から「吉原」という地名を聞いてはいたが、実際に「吉原」というところに行ったこともなく、物心がついた頃になると、いろいろな話から、「吉原=ソープランド」というイメージが定着。単純に吉原はエロ繁華街という、誤解した情報だけが頭にあった。
土手の伊勢屋さんからすぐ近くにある、「吉原大門(よしわらおおもん)」と記された信号を渡り、S字カーブになった道路を歩いていくと、一見、マンションが立ち並ぶ住宅地といった景観だが、視線を道路から少し上にあげると、特浴(所謂、ソープランド)の看板がたくさん目に付く。
これ以上フラフラと先に歩いて、羽を掴まれた蝶々になっても仕方がないので、その日は大人しく帰宅することに。ピンクや赤色の看板から後ろを振り向き、ふと電柱に目をやると、そこには「吉原」という地名ではなく、「千束」と記された地名表示が目に入った。
不思議に思いながら、車のナビで近くの住所を見てみると、この辺一帯は、千束か日本堤という住所が表示されており、「吉原」という地名はどこにも表示されていない。
自宅に着いてから調べて始めて知った「吉原」のこと。その日に歩いたS字カーブになった道は、「衣紋坂(えもんざか)」と呼ばれていた通りで、遊郭に遊びにきたお客が、衣紋を繕う通りとして呼ばれていたことを知ると、江戸の庶民文化とはかけ離れた郭(くるわ)の存在を知る。
ワタクシの中で、ただの「風俗街としての吉原」が、突如、「粋な生きかたが密集していた場所が吉原」に一変し、その歴史を紐解きたくなり、吉原遊郭や、そこで生きる花魁(遊女)の生き様に魅了されるきっかけとなった。
その日から2年後の、2011年5月。改めて足を運んだ吉原は、なんの知識もなかったあの日とは違い、優美で妖艶だったであろうその世界に、さらに引き込まれることとなったのです。
・新吉原大門─台東区 今昔物語:イーナビライフ・ドットコム
< http://www.e-navilife.com/taito/story/06/10/index.html
>
大門は、お歯黒溝(おはぐろどぶ)という濠で囲まれた吉原遊郭の、唯一の出入り口で、遊女の逃亡防止と、治安目的から一箇所にされていたと謂われております。大門の他に、お歯黒溝に非常用の跳ね橋があったようですが、普段は架けられていることはなく、酉の市などの縁日などが催されるときだけ、橋が架けられ、普段は吉原に用や目的がない人(女性や子ども)も自由に出入りができたようです。
1881年(明治14年)に鉄製の門になり、アーチはなくなったようですが、その後、映画「吉原炎上」で何度か見れるような、アーチの中央に、弁天像(乙姫さま?)が飾られている大門の姿になったようです。しかし、明治44年(1911年)の大火で、ほぼ焼失したようで、関東大震災が起きたとき、残念ながら吉原と共に撤去されたようです。
しかし、下記動画の中で、吉原最後の芸者と呼ばれている、みな子姐さんが「(門は)戦争で持っていかれた」と仰っているので、実際は、昭和に入ってからも大門は存在していたのだろう。動画を追っていくうちに知ったのですが、残念なことに、みな子姐さんは、昨年の5月に永眠されたようです。日本の文化の灯りが、またひとつ消えてしまったようで、淋しくもある。心からご冥福をお祈りいたします。
・今も現役 最後の「吉原芸者」 その生き様と在りし日の遊郭
< http://video.google.com/videoplay?docid=4496365666294561142
>
●あとがき
今回は、きっかけから吉原大門について綴りました。次回は、花魁に纏わる内容を考えておりますが、もしかしたら、遊郭とその文化背景を綴るかもしれません。順番的にいくと、先に花魁の話から進めると、遊郭の文化が面白くなるし、遊郭の文化を知ることは、花魁の魅力を知ることになるので、書く順番に悩んだりしてます。
とにかく、吉原遊郭から派生するキーワードアイテムが多いことと、ひとつひとつが、とにかく濃い内容なので、各々をバラバラに綴り、パズルのピースを合わるような、そんなコラムでも面白いかもしれませんね。
【べちおサマンサ】pipelinehot@yokohama.email.ne.jp
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○このコラムの趣旨:中学生のころから、江戸時代の文化には興味は持っていた/吉原遊郭といっても、エロ要素はなし。エロ産業としての文化に魅了されたのではなく、「粋と張り」を信条にし、当時のファンションリーダー的な存在でもあった花魁(遊女たち)の生き様に魅了された/オイラは歴史に強いわけでもないので、識者のかたが読んだら、オマエは何も分かってない!って怒られそうですけど、「ふーん、こんな見方もあるんだ」くらいでお願いします。