デジタルちゃいろ[10]今更ケータイ小説考
── browneyes ──

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先日、義務教育時代の友人の家に久しぶりに滞在しました。3年ぶりかな、4年ぶりかな。ワタシが地元を離れ、多忙を極め、会う頻度が激減している分、行ける時はしっかりお泊りコースで、だらだら時間を過ごす形が増えてます。だらだらしつつも、そのだらだらこそが貴重だったりするのですよね。これ自体女子的感覚なんですかね?

彼女とワタシは表層的にはとことん共通点がなく、在学中、ワタシは地味めでおとなしめな平均的中学生。彼女はその中学、その学年の、本気とかいてマジと読むレベルのスケバン的な何か。当然、当時はまるで接点はなかったのですが、どこでどう間違ったのかわかりませんが、大人になってから小さな縁が度重なり、細く長く今後一生続くであろう数少ない友人の一人となりました。

人生の序盤がそれだけ異なるので、その後の人生においても暮らしぶりから趣味までとことん違うのですが、その友人、元ヤンでありながら、ビジュアル系バンドの追っかけを長年やっていて、BLが大好きで、ケータイ小説が大好き。どれもこれもワタシとは相容れない趣味なのですが、ケータイ小説にハマる人はこれまで周囲にあまりいないのでちょっと興味深い。

そんな感じで唯一ワタシの周りに現れたケータイ小説好きの話を元に、今更ケータイ小説について色々考えてみたりしました。サンプル少なすぎなので、これで全体を語れるはずはないですが、個人的には今更の第一次接近遭遇、よい機会だったので。

思い返すと彼女は、日常接する人の中に一人、ちょっとPCに詳しい人がいることもあり、結構早い時期からPCでネットもやっている。いつ頃だろう、2000年の前半のうちから、wysiwygなソフトを使ってホームページも自分で作ってた。タグなんかまったく知らなくても、ばんばん作っちゃう。




そのホームページで何をするかというと、文章を書くことと、文章を書いてる人と交流すること。そういえばケータイ小説なんかが流行るずっと以前から、メルマガで小説のようなものを書く、なんてコトもやってた。

ところがここ数年、PCは億劫になっちゃってほとんど起動もしなくなり、ネットで云々はそれ自体が彼女のマイブームとしても終わっている様子。そしてケータイ回帰。彼女の日々接する人間関係からはそちらの方が主流なので、むしろ自然な着地点に落ち着いた格好。そして、震災直後にガラケーをスマホに買い替えて以降、読み手としてケータイ小説サイトに、どっぷりハマっているらしい。

ケータイ小説コミュニティはワタシにとってはまるで未知なので、トレンドも皆目わからないのだけど、最近彼女がお気に入りのケータイ小説コミュニティのサイトでは、読むばっかりでなく、自分も書き手になれるスペースがあるらしく、「アタシもね、またエッセイ書き始めたの!」と、嬉々として見せてくれた。

書き手にもなってみたがる心理やニーズについては、別途考えてみた方がいい気がしますね。なのでここでは読み手としての彼女に着目。

気に入った作品が見つかればとことんスマホ上で読み耽る、その作者が気に入れば、作者の発表の場がサービスをまたいでいてもどんどん追いかける。Amazonで書籍版も売り始めたと聞けばポンと買う。

購入した実物を見せてもらったけど、装丁もない、フォントの調整もレイアウトも何もない、テキストデータをそのまま横書きでダラダラ印刷しただけ、みたいな本で、金二千ウン百円也。それを何度も何度も読み返し、次また買っちゃおうか、何買おうか、と思案する。

彼女が語り、見せる様々なその「ケータイ小説」にまつわる話は、確かにワタシの感覚からすると率直なところ、「なにそれありえない」の連続だったのだが、多分、程度の差はあっても、ケータイ小説にハマる層は増える一方で、否定したり無視したりし続ける時期はとっくに過ぎているんだろうな、と思う。

とはいえ、既存の本の虫ともネット界隈の人とも融合していく気配は、いつまでたっても感じられない。かくいうワタシも、「現象」としてやっとこ着目してはみたものの、今後もケータイ小説を自発的に好んで読むか、と言われれば読むことはなそうではある。......というか、そもそも融合する意味はそこにはないんだろうな。

なんだろう、既存の小説とか、既存の本とか、その括りにケータイ小説を入れて理解しようと思うと恐らく「お互い」色々と腑に落ちない感じになる気がする。発想を完全に切り替えて、新たなメディアとして考えると色々スッと理解できるような気がする。そして、そう考えた時のケータイ小説は伸びシロがまだまだ大きい、現代では希少な黎明期で上り調子な新メディアのひとつなんだろうな。

ケータイ小説の読者は既存の、小難しい言葉が頻出したりする小説は芯から苦手だけど、それは読書欲がないとイコールなわけではない。読書欲はむしろものすごく旺盛。あと、感性的にはかなり保守的で、あまり新奇性は求めてない。求めてないけど、くり返しくり返し、愛してやまないテンプレっぽいストーリーや命題を、様々なバリエーションで味わうことを求めてる。

この層はまだまだコンテンツに飢えている。長いこと自分に合わない小難しい本を「読む」「読まない」の二択しか与えられていなかったところに、「読める」コンテンツが加わったばかりで、焼け石に水......いや違うな、乾いたスポンジのように新作を求め、彼らなりの良作を求めてる。

デバイスについては、上にで触れたように、ハマった作品は最終的にAmazonで「本」の形態になったものも購入はするので、最初から本として手にする可能性もあるけれど、どうなんだろう。個人的にはやや懐疑的。

そもそも、既存の「書籍」に対する「難しくてよくわかんない」「読む気になれない」という心的な壁は今もそこにある訳で、そこは取り除いてなくなるものではないし、取り除くコトに注力するコトはちょっと的外れな気もする。

彼らの読んでもいいと思える環境で、お金もかけずに、試し読みが出来る、という導入の段階は結構キモで、とはいえ彼らは、わざわざ読書のためにiPadやKindleやその他の電子ブックリーダーを予め買うほどの熱意はないので、どうしてもケータイなのでしょうね、今のところ。

ケータイ小説の本気なプロの書き手とか、編集者とか仕掛け人ってどのくらいいるんでしょうね、ゼロではないんでしょうけどまだまだ少ないのかな。知らないだけで脈々とあるのかもしれませんけど。

自分で書きたい訳ではないけれど、書くためのアプローチも戦略もまったく普通の小説とは違うみたいなので、今更ですが、同じ文字という道具を使っていてもまったく別のこの新メディア、そういった周辺に着目しつつ勉強かたがたいくつか眺めてみようかな。

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■今回のどこかの国の音楽

□BOHEMIA "Ek tera pyar feat. Devika"
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実は20世紀中はワタシ、クロっぽい音楽が大好物だったこともあり、このボヘミア君はワタシの大のお気に入りです。

9歳だったかな、そのくらいの歳で両親と共にパキスタンからアメリカに移民としてやってきたものの、アメリカ移住後すぐにお母様が亡くなり、それをきっかけに家出、ストリートでラップに出会った、という、思いのほか濃厚なエピソードを、つい最近インタビューで語っていましたが、数年前からパンジャビ語のラッパーとして結構注目株。

南亜細亜出身のミュージシャンが、アメリカのクロっぽい音楽で活躍するコトも昔からないことはないのですが、日本人がいつまでもゲイシャ・ハラキリ(......いや、今はもうヲタク文化に変わったのかしら)なのと同様、南亜細亜臭をウリにしてる感が拭えないケースが多かったものですが、彼は自分の言語を異国の文化にきちんと融合させてる感じがします。

【browneyes】 dc@browneyes.in
日常スナップ撮り続けてます。
アパレル屋→本屋→キャスティング屋→ウェブ屋(←いまここ)しつつなんでも屋。
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デジタルちゃいろ:今回のどこかの国の音楽プレイリストまとめ
└< http://j.mp/xA0gHF
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最近は色々と新しい出会いも多く、知恵熱出そうなくらいたくさんの刺激を受けてますが、その割に自分自身の行動が伴わず、やや消化不良。とはいえ、新しい流れや新しい挑戦の時期なのかもな、という感覚が付きまとってるので、後先考えずに色々面白い波に突撃していきたいな。