《3Dプリントを基盤とした大プロジェクト始動》
■はぐれDEATH[71]
はぐれと名画の歪な関係
藤原ヨウコウ
■3Dプリンター奮闘記[114]
3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想
織田隆治
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■はぐれDEATH[71]
はぐれと名画の歪な関係
藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20190301110200.html
───────────────────────────────────
●はぐれ的にはヨーロッパの「名画」とやらはことごとく大暴落
美術の授業が大嫌いだった。特に座学はつまらん。いつの時代の誰が評価したのか、ボクにはどうでもいい。ボクが見ていいと思えるかどうか、という傲慢極まりない価値観が幼少期からあったので、教科書に紹介されるいわゆる「名画」にはなんの興味もわかなかった。
長じてそれなりの知識を習得せざるを得なくなっても、この基本的な姿勢は微動だにしていない。むしろ、評価がさらに急降下(どころか墜落やな)した作家の作品だって腐るほどある。
特にヨーロッパの「名画」とやらは、ことごとく大暴落している。集中しているのは、ルネッサンス期と後期印象派。前者で下落が著しかったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品である。
元々、それほど好きではなかったのだが、「なぜこうも完成した作品が少ないのか?」と素朴な疑問を抱いて、一時期、資料を乱読した。結論から言えば、「完成させるための忍耐力を、ダ・ヴィンチは持っていなかった」という身も蓋もない理由で、ばっさり切り捨てた。
ダ・ヴィンチの特徴は夥しいアイデア・スケッチや素描にある。とにかく、アイデアの量は群を抜いていると言ってもいいだろう。
こうしたスケッチ群の中には、解剖学から建築、発明に関わるものが多数含まれているのだが、完成に至ったものはものの見事に、恐ろしく少ない。完成作を見ても、この忍耐力のなさは発揮されている。
ダ・ヴィンチの頃に、油画の技術の基礎はあらかた完成している。特徴的なのは、透明度の高い油を媒体として、薄く重ね塗りしていく方法なのだが、本来は画面の強度を保つために乾性油(代表的な例としてリンシードオイルやサンシックドオイル)を使う。
いわゆる酸化合成による乾燥なのだが、完全に乾燥するまでの時間はかなりかかる。これに樹脂(ダンマル樹脂は代表的か?)が加わると、更に乾燥時間が長くなるが透明度は圧倒的に増す。この透明層の重なりが、油画特有の深みを生み出す。
ダ・ヴィンチの特徴は、テレピン油という本来は希釈目的の油を多用していた点だ。テレピン油は揮発性が高いので、乾燥速度は乾性油とは比べものにならないほど早いのだが、肝心要の媒体としての役目はほとんど発揮できない。
極端な話、乾燥したら支持体(キャンバスだの板だの)の上に、顔料だけがこびりついているような状態になる。当然、脆い。テンペラやフレスコ画の方が乾燥時間も強度も圧倒的に高くなるし、ダ・ヴィンチ向きではあるのだが、なぜか積極的に手を出した形跡がほとんどない。ボクが知らないだけかもしれないけど。
「悪魔のような薄さで層を重ねている」というのは、とあるイタリアの専門家の評だが、希釈油をつかっているのだから、乾性油に比べれば悪魔の如く薄い層を作るのはたやすいことである。
更にダ・ヴィンチの完成作には、大作もほとんど見られない。スケッチはたくさんあるけど。
当時、大作の制作の際には、作家自身が単独で行うということはほとんどなかった。作家自身は作品の監督であり演出家であり、多くの弟子と共に作画をした一人にすぎない。
この手の文献はルーベンスが腐るほど書類で記録しており(契約書でもある)、「この作品のこの人物はルーベンス自身が描くこと」という一文まで明記されているぐらいだ。ちなみに予算や期日まで指定されている。
忍耐力の一言で片付けるのはいささか乱暴ではあるのだが、じっさい人を使って限りなく自身の理想に近づけようとするのには、相当な根気が必要になる。
もちろん、弟子の教育からスタートしなければいけないのだが(でないと工房として機能しない)習得すべき技術が高度化すればするほど、作家自身が弟子の技量を見ざるを得ない。当然、自分の作業は後回し。簡単に書いてしまったが、これを実践するのは本当に大変なのだ。
●はぐれの若気の至り
ボクはアート・ディレクターとして、似たような(似て非なるものです)ことを会社員時代にしていたわけだが、「どうしてこれが分からんかなぁ?」と煩悶するのは日常茶飯事で、若気の至りで自ら手を出してしまい、版下まで自分で作ってしまうという、今考えれば失礼極まりないことをデザイナーさんにしていた。
相手が分かるように説明できないボクに非があるのは確かなのだが、とにかくもどかしさが先に立つ。こうなると「説明するより自分でちゃっちゃとやった方が手っ取り早い」という短絡この上ない発想に繋がるのだが、ここで我慢ができるかどうかで、その後の展開は大きく変わるのだ。
我慢を憶えたのは入社して二年目。現場に配属されて半年ほど経った頃である。25〜26歳だろう。
明らかにボクよりも年上で、経験値が豊富な方ばかり相手にしていたのだが、どうもある種の「慣れ」が鼻につく。これは長年同じお仕事に関わっているとどうしても染みついてしまうものなのだが(ボク自身も例外ではない)、可能な限りニュートラルな状態に、作業が一段落したところで戻すのが望ましい。
ところが、これができない人があまりに多すぎた。考えるより先に手が動いてしまう、というのもその一例である。
ボクに言わせれば、もう条件反射のようなもので、まずこの条件から崩す必要に迫られてから、やっと我慢するというのが如何なることかということを痛感した。ただ辛抱強く待っていても無意味なのである。普段の作業ルーチンの条件を、根底からひっくり返すことが必要になる。
今なら根底からひっくり返すことはもちろんしない。じわじわと洗脳する方が楽だし(こっちの方が陰険極まりないという意見があるのは百も承知だ)。
●最後の晩餐なのに横並びで食事って?
話をダ・ヴィンチに戻す。契約不履行はあたり前で(!)弟子もロクにいない。同時代ならミケランジェロと比較するのが比較的妥当だろうが、成果品の規模・量ともにミケランジェロが圧倒している。
サンピエトロ寺院大聖堂の天井画なんて、ダ・ヴィンチの「忍耐力」で間違いなく未完成に終わっているはずだ。
ちなみに、ミケランジェロの評価は、今のところ保留にしている。実物を見いないのだ。いくら成果品が多くても、それだけで評価を下すほどボクは傲慢
ではない。もっとも、一生保留状態になる可能性をボクは否定しない。
逆に、たった一枚見ただけで評価が180度変わったのが、ルーベンスである。これは以前にも触れたが、シカゴ美術館所蔵のとある小品に目を奪われたら、それがたまたまルーベンスだったというだけの話である。
ちなみに、シカゴ美術館では収穫よりも却下した作家の方が圧倒的に多く(というか、ルーベンス以外は全部却下だ)エル・グレコは一目見た瞬間に「これはあかんわ」とあっさり見切っているのだ。セザンヌ、ゴッホ、スーラ、ルノワールもほとんど一目で却下した。それでもマネは未だに保留にしてる。
またまたダ・ヴィンチに話を戻す。もうほとんど唯一の完成大作と言ってもいい「最後の晩餐」。Wikipediaによると「レオナルドは、遠近法、明暗法、解剖学の科学を駆使し、それまでとはまったく違った新しい芸術を生み出した」とある。アホか!
https://ja.wikipedia.org/wiki/最後の晩餐_(レオナルド)
まず遠近法。たかが一点透視ですよ。二点透視、三点透視すらすでにあったはずの時代に、これしきのことで持ち上げるのはいかがなものか。
さらにこの構図のめちゃくちゃずるいところは、前景・中景・後景と分かりやすいにもほどがある点で、イエスと弟子達はズラッと横並び。これ、人の大きさを遠近法で計算する必要がない、一番楽ちんな描き方です。ボクがよく使う手なので、これは断言してもいい(自分で首締めてないか?)。
当たり前の話ですが、前景・中景・後景それぞれに人物を配置しようと思えば当然、人物描写に大小が生まれる。手抜きとしか思えん(私感です)。
そもそも最後の晩餐なのに、横並びで食事って普通するか? 実物は見たことがないのだが、個人的に親しみのあるギュスターヴ・ドレの同じシーンは、ずっとそれっぽい。
ドレは『聖書物語』や『神曲』などの挿絵を描いているが(?)、やはり物語の解釈と再現という点では、こちらに軍配を上げたい。
明暗法、解剖学については、同時代でもダ・ヴィンチの専売特許でも何でもなく(先端技術ではあるけど)やはりミケランジェロも取り入れている。
ダ・ヴィンチとミケランジェロの大きな違いは、ミケランジェロがきちんと(!)彫刻を手掛けている点である。解剖学の世界となると、絵画よりも彫刻の方が圧倒的である。何しろブツとしての量感がすごい。
ちなみに、ダ・ヴィンチも彫刻に手を出そうとしているふしは、スケッチの中で散見できるが、完成に至ったものは相当少ない。そもそも、設計そのものに無理があるのだ。現存する唯一の作品である、ミラノ公騎馬像のスケッチは多数残っているのだが、とにかく強度無視の無茶苦茶なモノばかりである。
おまけに小さいし! フィギュアかっ!!!
いや、別にフィギュアを馬鹿にしてるわけではないです。好きだし、時々ボクも作る。
https://response.jp/release/kyodonews_kaigai/20161207/30491.html
ここでも大作苦手病が露呈している。この人はあくまでもルネサンス期の理想像の一つである「万能人」の一例として評価すべきであり、ボクに言わせればそれ以上でもそれ以下でもない。彼の業績は夥しいスケッチ群に明確に見られるし、この点に関しては高く評価すべきだ。逆に、後付けする必要などないほど十二分なのだ。
●はぐれの物差しでしか絵を見ていないのだが
完全にボクの主観なのでご勘弁いただきたいのだが、とにかく気にくわないものは気にくわないし、評価の仕方もよく分からないものが多すぎるのだ。
絵の怖さというのは、見た瞬間に評価が決まるという(ボク自身の歪な価値観かもしれない)点にある。
誰がどう評価しようが、見て心地いいものと悪いもの、どうでもいいものぐらいの評価は誰にでもできると思うのだが、なぜか「いや、勉強不足で」と評価を濁す人に少なからず出会った経験からすると、「なんで?」としかボクには思えないのだ。
ボクが自分の絵を否定されてもさして怒ったりしないのは、ボク自身がボクの物差しでしか絵を見ていないからで、物差しが変われば評価も変わると思っているからだ。絵の好き嫌いくらい自由にすればいい。別にそれで死ぬわけじゃないんだし。
「そういうことを言えるのは鑑定眼があるからだ」と反論する人も多いが、ボクは鑑定のプロフェッショナルじゃないし、訓練だってしたことはまったくない。「いいものが環境にあったからだ」とまだ粘る人もいるのだが、いいも悪いも、ボクが勝手に決めることだ。
まぁ、居心地のいい場所があるのは確かだが。実際、ボクにとっていいものがたくさんあるが、それらを他人がどう見るかなんてのは知ったことではない。単純に見てピンと来るかどうかの話である。
ただ、教科書に載っている「名画」にほとんどピンと来なかったボクが、美術に興味を持つはずもない。だって、何がどういいのかなんてのは、本当にどうでもよくて、一目見るだけの話である。それでも北斎の評価は当時としては珍しいほど高かった。今でもだけど。
もっとも北斎に限って言えば、肉筆画は苦手である。あくの強い線が鼻について仕方がないのだ。ボクの線も大概だけど。
これが現代美術になると拒否反応しかでない。ウォーホルですらダメなのだ。「作品で美の哲学を語る」(?)という主旨はなんとなく分かるが、とにかくボクは見た目勝負の人だ。それならベタベタの宗教画を見てる方が、よほど機嫌がいい。
再三、白状しているように、ボクは無神論者だが宗教そのものを否定する気は毛頭ない。もちろん、宗教に題材を取った作品も否定しないし、これまた自分の目で見ていいか悪いかは決める。
●はぐれがピンと来るものは
小学校の修学旅行で訪れた東大寺で、ボクの度肝を抜いたのは盧舎那仏ではなく阿吽像(金剛力士像)のボリュームだった。「教科書で見たのと全然違うやないか」と心の底から思ったのだ。
いや、写真だから違うことはないのだ。単に「写真では見れないものを見てしまった」という方が正確なのだろう。ここで完全に度肝を抜かれたので、盧舎那仏はほとんどどうでもよかった。後年、ゆっくり拝見したのだが、やはり阿吽像の凄まじさの方が圧倒的である。
というか、小学生の時の修学旅行のハイライトはこの阿吽像であり、前後はどうでもよかった。とにかく「すごいものを見てしまった」というショックが大きかったのだ。
これで少しは美術に興味が行くかというと、まったくの逆で「教科書に載ってるものは全然信用できん」と確信したのもこの時なら、「美術・芸術ほど人任せに信用してはいけないものはない」というアホな価値観まで確立した。
このように、「評価の人任せを信用してはいけない」という考えの持ち主が、それこそ他人の評価頼りのエカキになるなど、露ほども思っていなかったのはむしろ当然の話であり、未だにこの恐怖は厳然としてあるのだ。
だからといって、「他人様が好きそうな絵」や、一度ウケたタイプの絵を描き続けるほどボクは人間が練れていない。
ほんの一例だが、上記の如く古今東西の「名作」とやらをばっさり切り捨てているのだ。我が身に降りかかっても仕方がないではないし、実際そんなもんだと思っている。
ボク自身が描いた絵の評価が、ボクにとって一番厳しくなるのは当然のことであり、一人で自分にダメ出しをし続けて、何をどうしていいやら分からなくなるなんてのは、日常茶飯事の話だ。ボクに言わせれば、「一番エカキになってはいけないタイプ」の人なのだが、ここまで来てはもうどうしようもない。
評価基準を緩めれば多少は楽になるかもしれないが、歳をとるにつれむしろ評価基準は高く狭くなっている。もちろん、他の方の作品の評価も同様である。ちなみに、鑑賞する分には老眼はさして影響がない。微に入り細を穿つような見方を、ボクは全然しないからだ。いつも通り一目見てそれで終わりである。
もしかすると、「見る」ということすら正確ではないのかもしれない。阿吽像の衝撃は「見た」衝撃ではなく、「出会った」衝撃に近かったのかもしれない。うまい具合に表現できないのだが、見ただけというのはどうも違う気がする。
これはシカゴ美術館のルーベンスも同様で、ボクは真正面から見るよりも先に(もっといえば相当斜め横からだ)気をとられて吸い寄せられるように対峙したのだ。
正直、年々ピンと来るものは少なくなっているのだが(むしろ嫌悪をもよおすものが大半だ)、それでも「エエやン」というものを見つけた時の感動は、より深くなっている気がする。その分、自分の絵に絶望することが多々ある。
むしろ、身の回りの移り変わる自然にピンと来る方が圧倒的に多い。川面のキラキラした反射光とか雲なんかは、見ててまったく飽きない。
自然美礼賛は基本にあるものの、こうした自然から得られたインスピレーションなりなんなりで、自然の美を突き抜ける作品だって稀少ではあるがあることはある。あると言っても、ボクがピンと来ただけなのは言うまでもあるまい。それもちゃんとした具象画で。
●大家と呼ばれる人の貧相な絵
一番インパクトがあったのは、おねえちゃん(編集部注:娘さんのこと)が、小学校低学年の時に描いた水彩画の朝顔。本当にさらっと描いてしまっているのだが、奧さんと二人でびっくりした。ものの30分ぐらいで描いたようだが、あれはボクでもちょっと真似できない。
朝顔のふとした瞬間が描かれているのだが、観察して描いたのではなく「何となくこんなん」というのが本人の弁だ。「何となくこんなん」はボクもよく使う手だが(というかこればっかりやな)、あそこまでやられると完全に白旗である。
「何となく」のバックボーンに、普段の何気ない視線の積み重ねがあるのは言うまでもないが、だからといって本当に何気なくさらっと描いて、それなりになってしまうのは簡単なことではない。ましてや、まともな絵の訓練など皆無のおねえちゃんである。アタリすらろくにとっていないし……。
「描く」という行為は、ボクの稼業のせいで我が家では特殊なことではない。おねえちゃんにとっては、日常生活の中にある行為の一つにすぎない。もちろん、相当特殊な環境ではあるが。
ボクはおねえちゃんに絵の手ほどきをしたことは一度もない。「描きたい」と言えば好きに描かせていたが、それでも描き方に口を出したことは皆無である。
もちろん、おねえちゃんの例をもって普遍化するほどボクはアホではない。我が家よりももっと絵を描くために整った環境で生まれ育ったのに、「どうしてこうなる?」というような絵しか描けない人が結構いるのを知っているからだ。
もちろん「大家」と呼ばれる人達の中にも大勢いる。むしろ、何をどうやったらあのような貧相な絵になるのか理解に苦しむほどだ。
本人がどう思っているのかは、もちろん想像すらできない。それでも、ああした貧相な絵を描き続け、世間様に見せられる度胸には感服する。いや、嫌みでもなんでもなく。
ボクも同じようなことをしてるのだが、あのレベルはちょっと無理やなぁ。にっちもさっちもいかず、どうしても出さざるを得なくなったら、その時は送った直後に失踪するか死を選ぶ。
恥の多い(というか、恥しかないんだけど)ボクですら、ここまであっさり自分を葬ることを選ぶようなことを平然とできるというのは、ボクにとっては化け物(もちろんかなり忌まわしい)を見てるようなもんだ。
こうした作家さんを高く評価して、世間に宣伝している人達が当然いるわけだが、もちろんこんな人達の評価をボクが鵜呑みにするはずもなく、いわゆる「名画」に関するあれこれの評価だって、ボクに言わせれば差して変わらないレベルの話にしかならない。もっと露骨な言い方をすれば「信用するに値しない」のだ。
絵を描く環境については、デジタル時代になって(もう少しましな言い方はないものか?)敷居が恐ろしく低くなった。何度も書いているが、ボクもその恩恵を受けている一人だ。
じゃあボクが、デジタル方面の絵なり何なりをまともに見ているかというと、むしろ避けている。ガックリを通り越してしまうからだ。ボクが否定した「名画」の方がよほどまともに見えてくる、という事実はボクに言わせれば「お先真っ暗」であり「末世」ですらある。
さらにこうしたものが世に流布して、こんな絵ばっかりを見ている人が少なくない事実を加えると、もう目を逸らすしか他に手がないではないか。
「そっちはそっちで勝手にしてていいから、こっちに口は出すな」というのがボクの基本姿勢なのだが、これを本業でやるともちろんダメージしかない。
そもそもこんなことをこの場(デジクリですよ!)で書くこと自体、もう正気の沙汰ではないのかもしれない。もちろん、気を悪くする読者の方も執筆者の方もめちゃめちゃいるだろう。
それでも「名画」をあっさり否定しているボクが、デジタルというここ30年足らずの成果品群をあっさり評価するはずはない。くどいようだが、ボクだってこの一員なのだ。その程度の自覚も覚悟もある。
だが、上記した「大家」の貧相な絵よろしく、ボクなら自らを葬るようなもの(イヤそれより酷いかもしれん)と思う絵は、腐るほどたくさん出回っている。
「正義はどこにある?」などということを言う気はさらさらない。世間様が認めるなら、それはそれで一種の正義なのだろう。「名画」「大家」も然り。ボクが一人で嫌がっているだけの話だ。
もっと言えば、妥協なり何なりして、世間様と足並みを揃えるに越したことはないのだが、そもそも協調性のカケラもない上に、どう頑張っても(!)それっぽくならないのが、ボクの厄介なところである。
ちゃんと努力はしたんですよ。それでもこうだから、ショーバイ上これほど困ったことはないのだが、もはやどうしようもない。
「ピンと来る」だけで生きるというのは、こういう負の側面だって露骨にある。もうちょっと理知的ならまた違ったのかもしれないが、実態はそうじゃないし。ここに自己肯定力0という要素が加わるから、更に立場は厄介になる。
こうして考えるとボク自身が一番愚かやな、呵々♪
【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3Dプリンター奮闘記[114]
3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想
織田隆治
https://bn.dgcr.com/archives/20190301110100.html
───────────────────────────────────
みなさま、ご無沙汰しています。昨年からかなりバタバタしてまして、デジクリへの寄稿ができずにおりました。色々と書く事も溜まってきて、近々大きな動きもありますので、久しぶりに頑張ってみました。
さて、タイトルにもあります「3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想」という、3Dプリントを基盤とした大きなプロジェクトが動き出しました。
これは、近畿経済局が主体となり、海外の3D造形の量産化に対応するため、「3Dものづくり普及促進会」と国との連携により、オール・ジャパンの企業を対象とした、3D造形による新たな実用化モデル輩出を目指す、というプロジェクトです。
3Dものづくり普及促進会
http://www.3d-monodukuri.jp/
1/24(木)の近畿経済局局長の記者発表会で、正式に記者発表されました。
実は、こちらのネットワークにつきまして、昨年大阪のクリエイター支援機関でもある「メビック扇町」にて、昨年の6月29日に「自由放談─産学連携を多面的に考える」共催:大阪大学大学院工学研究科、というミーティングが行われました。
僕も参加し、色々な情報交換等、有意義なミーティングを行うことができました。その後の懇親会会場にて、近畿経済局の方が来られ、色々とお話をお聞きして、このプロジェクトに参加させていただくことになった次第です。
日本初「3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想」について
http://www.kansai.meti.go.jp/3jisedai/project/3Dkansai/press/20190124.html
僕の方では、これまで稚拙ながら色々な学校にて3Dプリンターや造形の基礎、応用等を講義しており、「筑波大学」と「キャンパスOJT型産学連携教育推進財団」と共に、立ち上げ時より協力している、筑波大学内のFAB施設「創房」という制作工房において、毎年、色々なモノ作りに関するノウハウを学生さんに実習として参加してもらい、集中講義・実習「立体造形の基礎と3Dプリンタの応用」のインストラクターとして活動しています。
キャンパスOJT型産学連携教育推進財団
http://www.cojt.or.jp/jp/%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81/
openfab 創房
http://inf.tsukuba.ac.jp/ET-COJT/openfab_sobo/index.html
その事から、この「3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想」において、3Dプリンターを使える人を育成する、これからの人材作りを主として僕も参加することになりました。
これにつきましては、3月7日に開催される「3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想」キックオフイベントにて発表されました。
http://www.kansai.meti.go.jp/3jisedai/project/3Dkansai/press/20190124.html
主要な内容につきましては、プレスより以下、引用します。
▼
グローバルの先端的なものづくり分野においては、3D積層造形技術の飛躍的な革新に伴い「3D積層造形による量産化」が加速化しています。このため、近畿経済産業局は、この流れに対応するため、日本初となる「3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想」を1/24(木)に発表しました。
本構想では、産学官連携による広域ネットワークを構築するとともに、3D積層造形を活用した新たなモノづくりの普及を目指す「3Dものづくり普及促進会」
http://www.3d-monodukuri.jp/
との連携により、様々な分野での「新たなモノづくりの変革モデル」を創出し、2025年国際博覧会大阪万博に繋がる未来の技術開発に挑戦して参ります。
つきましては、本構想の具体的な内容や広域ネットワークの連携支援機関である大学において展開している「3D積層造形による先導的実用化モデル」の取り組みをご紹介するキックオフイベントを以下のとおり開催します。
なお、本イベントでは、最新の3D積層造形装置の技術レベルを体感できる「3D積層造形試作展示」も同時に開催しますので、是非、ご参加下さい!
〈概要〉
日時:2019年3月7日(木)13:00~17:00
場所:大阪工業大学 梅田キャンパス(大阪府大阪市北区茶屋町1番45号)
3階常翔ホール
https://www.oit.ac.jp/rd/access/index.html
主催:近畿経済産業局
協力:3Dものづくり普及促進会
定員:450名
〈式次第〉
13:00 主催者挨拶 近畿経済産業局 局長 森清氏
13:05 「3D積層造形によるモノづくり革新拠点化構想」の取り組み説明
近畿経済産業局 次世代産業・情報政策課
13:30 講演1
「(仮称)ソフトロボティクスにおける3D積層造形の活用と実用化」
立命館大学ロボティクス研究センター センター長 川村貞夫氏
14:15 講演2
「(仮称)フードプリンティングの開発:OPEN MEALS構想」
山形大学大学院 理工学研究科教授 古川英光氏
15:00 休憩:3Dものづくり普及促進会協力による「3D積層造形試作展示」見学
15:25 講演3
「(仮称)4Dプリンティングの開発」
慶応義塾大学 SFC研究所 所長 田中浩也氏
16:10 講演4
「(仮称)金属3D積層造形に係る異方性制御技術開発」
大阪大学 工学研究科教授 中野貴由氏
17:00 閉会
〈お申込み方法〉
https://mm-enquete-cnt.meti.go.jp/form/pub/kansai01/form131
こちらの申し込みサイトから3/6(水)までにお申し込み下さい。
※定員に達し次第、締切りとさせていただきます。
〈問い合わせ先〉
近畿経済産業局 地域経済部 次世代産業・情報政策課 谷川
電話番号:06-6966-6008
▲
以上、これからのモノ作りにはかかせない「3Dプリンター」について、いよいよ本格的なネットワークが形成されます。
このようなプロジェクトに参加できることは、今後の日本の産業や技術力に少しでも貢献できますし、もちろん、僕にとっても嬉しいことです。これから若い人たちが、ますます活躍できるよう、僕も頑張って行こうと思っています。
筑波大学内の「創房」において、先日2/16〜18日の3日間、実習を行ってきました。3DCAD等で制作したデータを、「創房」の3Dプリンターで出力。オブジェクトを研磨仕上げした「シリコン型」を制作して、レジンキャストによる複製をする、という内容でした。
「シリコン型>レジンによる複製」という作業は、基本的にはアナログ作業になります。以前からこのコラムでも伝え続けていますが、3Dプリンターを使いこなす上で、デジタル技術は当たり前になりますが、その根本として「アナログ技術」も兼ね備えることにより、より一層そのモノ作りの質も上がり、幅も広がります。
学生さんたちは、初めて触る素材にワクワクしながらも、色々なことを理解してくれたようで、みなさん最終日には綺麗な複製品を作る事に成功しました。
僕の講義実習では、基本的にはアナログ技術を元にしたデジタル技術、というスタンスで行っています。実際、昨年夏の筑波大学での講義(座学2日間)での内容は、半分がアナログ技術の造形についてでした。
受講した学生からのレポートによると、「3Dプリンター等、デジタルを勉強しようと思ったのに、前半がほとんどアナログでの造形だった。しかし、最終的にデジタル造形への造形の流れを聞くにあたり、アナログ技術の大切さが理解出来た」という感想が大半を閉め、僕の講義を理解してくれているんだなぁ、と関心しました。その後の色々な制作に役立ててくれることを祈っています。
今回の掲載は、これからの日本のモノ作りの主要となる分野でもありますし、みなさん益々興味を持っていただけたらと思い、執筆させていただきました。
次回は、キックオフイベントの感想や、内容等喪レポート出来ればと思います。ではでは!
【織田隆治】
___FULL_DIMENSIONS_STUDIO_____
oda@f-d-studio.jp
http://www.f-d-studio.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集後記(03/01)
●偏屈BOOK案内:「淋しい人はボケる 認知症になる心理と習慣」高島明彦
建国記念日にまた一つ歳をとった、準高齢者なわたしである。まだ早いがボケとか認知症のことも知っておくか、このタイトルも気になるし、ということで読んでみた。筆者は国立長寿医療研究センター分子基盤研究部長。ビギナー向け(ってのも変な表現だが)アルツハイマー病の予防本も書いている人。
高齢期にかかるうつ病とボケには相関関係がある。高齢になれば脳の老化で前頭葉などの機能が衰え、判断力や思考力が落ち、うつ病の症状が出ると考えるのが自然である。そして、脳の老化がより進めばボケるリスクも高まる。一人暮らしだった人が50歳以降にボケるリスクは、既婚者やパートナーがいる人に比べて約2倍高い。離婚後に独身を貫いた人は、ボケるリスクが3倍に高まる。
より深刻なのは、50歳より前に死別や離婚で伴侶を失い独身を貫いた人で、ボケるリスクは6倍に高まる。孤独感が脳の老化を加速させ、認知機能を低下させる。また糖尿病とボケには高い相関がある。肥満の人は標準体重の人と比較してボケるリスクが80%増加するという調査結果がある。やっぱりデブはダメ。
血圧は高すぎても低すぎてもボケるリスクがあがる。どのような症状になったら「ボケ予備軍」と言えるのか。年をとるとよく人の名前が出てこないといった、物忘れをしがちだ(わたしも重症)。普通に考えれば忘れるはずがないことを忘れるようになったら、脳の老化による物忘れが始まっているサインだといえる。「夕食を食べたかどうかがわからない」といったケースは危険だ。
うつ状態になったのはボケの初期段階である可能性があるほか、うつ病そのものがボケの危険因子になることも考えられる。自分の考えや感情を表に出さず溜め込んだり、何ごとも理詰めで合理的にやろうとするのも、ストレスフルな態度と考えられ、それもボケ発症の原因になる。また、新聞や本をよく読む人、教育歴の高い人は、ひとたびボケを発症すると、進行が速い傾向にあるという。
カレーを食べるとボケにくいという説がある。疫学研究で65歳以上のアメリカ人とインド人を比較したところ、アメリカ人はボケの発症率が1000人中17.5人、インド人は4.7人だった。カレーにはウコンという多年草の植物が使われている。ウコンに含まれる「クルクミン」というポリフェノールは、さまざまな病気の治療薬として使われている。私の好きなカレーはそんな効用があったのか。
自分の考えや感情を表に出さず溜め込むとストレスになるし、何ごとも理詰めで合理的にやろうとするのもストレスフルな態度だと考えられる。言いたいことをいい、「まあ、こんなもんでいいか」と物事を大雑把に考える人のほうが、長生きできる可能性が高い。わたしはその型だと思うが、長生きはご免である。
ボケ防止は、家にひきこもるな、家の外では身だしなみに無頓着ではダメ、日記やブログを書け、緑茶を飲め、葉物野菜を食べよ、筆者はそういうアドバイスをしている。けっこうそんな生活をしているから、サクセスフルエイジング(健康老化)中である。ヘタしたら長生きしちゃうじゃないか。(柴田)
「淋しい人はボケる 認知症になる心理と習慣」高島明彦 2014 幻冬舎新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344983521/dgcrcom-22/
●技術の凄さとかと「好き」は違いますもんね。/川に行く機会が少ないので今はどうかわからないのですが、雲はほんと飽きないです。/一目惚れした絵のひとつが、ジョン・シンガー・サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」。
/わたしも重症だ……。人の名前が覚えられない、ポケモンの名前も忘れがち、意識せずにできることだとやったかどうか忘れる、やりかけで中断したことを忘れる……。
/カレーを意識して食べようっと。上等カレーBRのとんかつカレーのチーズトッピングが好き。でも上等カレーって、店ごとに味が微妙に違ってたりするのよね。
ウコン入ってるのかなぁ。市販のカレールウには「香辛料」、レトルトカレーには「カレー粉」と書かれてあるだけであった。検索すると知恵袋が出てきた。その後にも調べてみたが、知恵袋通りであった。
/身体を冷やすからと、ほうじ茶・麦茶シフトしたのに、緑茶に戻すかなぁ。交互に飲んでみようかな/そういや、最近ティーバッグならぬ珈琲バッグ買ってみたよ。(hammer.mule)
John Singer Sargent(テート・ギャラリー)
https://www.tate.org.uk/art/artists/john-singer-sargent-475
https://ja.wikipedia.org/wiki/カーネーション、リリー、リリー、ローズ
上等カレー、上等カレーBR
http://www.tokumasa.net/original11.html
カレーにウコンがはいってるって本当ですか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311896793
「ターメリックといって、色を出すのに使うので、使われていないカレー粉はないと断言出来ます。たくあんなどの黄色も同じものです。」
たくあんって何で白いのと黄色いのがあるんですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153827971
「黄色たくあんにはウコンの粉末(黄色)を入れて色付けしています。」
ネスカフェ 香味焙煎 濃厚クンディナマルカブレンド Dip Style
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07GJN767P/dgcrcom-22/