はぐれDEATH[71]はぐれと名画の歪な関係
── 藤原ヨウコウ ──

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●はぐれ的にはヨーロッパの「名画」とやらはことごとく大暴落

美術の授業が大嫌いだった。特に座学はつまらん。いつの時代の誰が評価したのか、ボクにはどうでもいい。ボクが見ていいと思えるかどうか、という傲慢極まりない価値観が幼少期からあったので、教科書に紹介されるいわゆる「名画」にはなんの興味もわかなかった。

長じてそれなりの知識を習得せざるを得なくなっても、この基本的な姿勢は微動だにしていない。むしろ、評価がさらに急降下(どころか墜落やな)した作家の作品だって腐るほどある。

特にヨーロッパの「名画」とやらは、ことごとく大暴落している。集中しているのは、ルネッサンス期と後期印象派。前者で下落が著しかったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品である。





元々、それほど好きではなかったのだが、「なぜこうも完成した作品が少ないのか?」と素朴な疑問を抱いて、一時期、資料を乱読した。結論から言えば、「完成させるための忍耐力を、ダ・ヴィンチは持っていなかった」という身も蓋もない理由で、ばっさり切り捨てた。

ダ・ヴィンチの特徴は夥しいアイデア・スケッチや素描にある。とにかく、アイデアの量は群を抜いていると言ってもいいだろう。

こうしたスケッチ群の中には、解剖学から建築、発明に関わるものが多数含まれているのだが、完成に至ったものはものの見事に、恐ろしく少ない。完成作を見ても、この忍耐力のなさは発揮されている。

ダ・ヴィンチの頃に、油画の技術の基礎はあらかた完成している。特徴的なのは、透明度の高い油を媒体として、薄く重ね塗りしていく方法なのだが、本来は画面の強度を保つために乾性油(代表的な例としてリンシードオイルやサンシックドオイル)を使う。

いわゆる酸化合成による乾燥なのだが、完全に乾燥するまでの時間はかなりかかる。これに樹脂(ダンマル樹脂は代表的か?)が加わると、更に乾燥時間が長くなるが透明度は圧倒的に増す。この透明層の重なりが、油画特有の深みを生み出す。

ダ・ヴィンチの特徴は、テレピン油という本来は希釈目的の油を多用していた点だ。テレピン油は揮発性が高いので、乾燥速度は乾性油とは比べものにならないほど早いのだが、肝心要の媒体としての役目はほとんど発揮できない。

極端な話、乾燥したら支持体(キャンバスだの板だの)の上に、顔料だけがこびりついているような状態になる。当然、脆い。テンペラやフレスコ画の方が乾燥時間も強度も圧倒的に高くなるし、ダ・ヴィンチ向きではあるのだが、なぜか積極的に手を出した形跡がほとんどない。ボクが知らないだけかもしれないけど。

「悪魔のような薄さで層を重ねている」というのは、とあるイタリアの専門家の評だが、希釈油をつかっているのだから、乾性油に比べれば悪魔の如く薄い層を作るのはたやすいことである。

更にダ・ヴィンチの完成作には、大作もほとんど見られない。スケッチはたくさんあるけど。

当時、大作の制作の際には、作家自身が単独で行うということはほとんどなかった。作家自身は作品の監督であり演出家であり、多くの弟子と共に作画をした一人にすぎない。

この手の文献はルーベンスが腐るほど書類で記録しており(契約書でもある)、「この作品のこの人物はルーベンス自身が描くこと」という一文まで明記されているぐらいだ。ちなみに予算や期日まで指定されている。

忍耐力の一言で片付けるのはいささか乱暴ではあるのだが、じっさい人を使って限りなく自身の理想に近づけようとするのには、相当な根気が必要になる。

もちろん、弟子の教育からスタートしなければいけないのだが(でないと工房として機能しない)習得すべき技術が高度化すればするほど、作家自身が弟子の技量を見ざるを得ない。当然、自分の作業は後回し。簡単に書いてしまったが、これを実践するのは本当に大変なのだ。

●はぐれの若気の至り

ボクはアート・ディレクターとして、似たような(似て非なるものです)ことを会社員時代にしていたわけだが、「どうしてこれが分からんかなぁ?」と煩悶するのは日常茶飯事で、若気の至りで自ら手を出してしまい、版下まで自分で作ってしまうという、今考えれば失礼極まりないことをデザイナーさんにしていた。

相手が分かるように説明できないボクに非があるのは確かなのだが、とにかくもどかしさが先に立つ。こうなると「説明するより自分でちゃっちゃとやった方が手っ取り早い」という短絡この上ない発想に繋がるのだが、ここで我慢ができるかどうかで、その後の展開は大きく変わるのだ。

我慢を憶えたのは入社して二年目。現場に配属されて半年ほど経った頃である。25〜26歳だろう。

明らかにボクよりも年上で、経験値が豊富な方ばかり相手にしていたのだが、どうもある種の「慣れ」が鼻につく。これは長年同じお仕事に関わっているとどうしても染みついてしまうものなのだが(ボク自身も例外ではない)、可能な限りニュートラルな状態に、作業が一段落したところで戻すのが望ましい。

ところが、これができない人があまりに多すぎた。考えるより先に手が動いてしまう、というのもその一例である。

ボクに言わせれば、もう条件反射のようなもので、まずこの条件から崩す必要に迫られてから、やっと我慢するというのが如何なることかということを痛感した。ただ辛抱強く待っていても無意味なのである。普段の作業ルーチンの条件を、根底からひっくり返すことが必要になる。

今なら根底からひっくり返すことはもちろんしない。じわじわと洗脳する方が楽だし(こっちの方が陰険極まりないという意見があるのは百も承知だ)。

●最後の晩餐なのに横並びで食事って?

話をダ・ヴィンチに戻す。契約不履行はあたり前で(!)弟子もロクにいない。同時代ならミケランジェロと比較するのが比較的妥当だろうが、成果品の規模・量ともにミケランジェロが圧倒している。

サンピエトロ寺院大聖堂の天井画なんて、ダ・ヴィンチの「忍耐力」で間違いなく未完成に終わっているはずだ。

ちなみに、ミケランジェロの評価は、今のところ保留にしている。実物を見いないのだ。いくら成果品が多くても、それだけで評価を下すほどボクは傲慢
ではない。もっとも、一生保留状態になる可能性をボクは否定しない。

逆に、たった一枚見ただけで評価が180度変わったのが、ルーベンスである。これは以前にも触れたが、シカゴ美術館所蔵のとある小品に目を奪われたら、それがたまたまルーベンスだったというだけの話である。

ちなみに、シカゴ美術館では収穫よりも却下した作家の方が圧倒的に多く(というか、ルーベンス以外は全部却下だ)エル・グレコは一目見た瞬間に「これはあかんわ」とあっさり見切っているのだ。セザンヌ、ゴッホ、スーラ、ルノワールもほとんど一目で却下した。それでもマネは未だに保留にしてる。

またまたダ・ヴィンチに話を戻す。もうほとんど唯一の完成大作と言ってもいい「最後の晩餐」。Wikipediaによると「レオナルドは、遠近法、明暗法、解剖学の科学を駆使し、それまでとはまったく違った新しい芸術を生み出した」とある。アホか!

https://ja.wikipedia.org/wiki/最後の晩餐_(レオナルド)


まず遠近法。たかが一点透視ですよ。二点透視、三点透視すらすでにあったはずの時代に、これしきのことで持ち上げるのはいかがなものか。

さらにこの構図のめちゃくちゃずるいところは、前景・中景・後景と分かりやすいにもほどがある点で、イエスと弟子達はズラッと横並び。これ、人の大きさを遠近法で計算する必要がない、一番楽ちんな描き方です。ボクがよく使う手なので、これは断言してもいい(自分で首締めてないか?)。

当たり前の話ですが、前景・中景・後景それぞれに人物を配置しようと思えば当然、人物描写に大小が生まれる。手抜きとしか思えん(私感です)。

そもそも最後の晩餐なのに、横並びで食事って普通するか? 実物は見たことがないのだが、個人的に親しみのあるギュスターヴ・ドレの同じシーンは、ずっとそれっぽい。

https://bn.dgcr.com/archives/2019/03/01/images/001

ドレは『聖書物語』や『神曲』などの挿絵を描いているが(?)、やはり物語の解釈と再現という点では、こちらに軍配を上げたい。

明暗法、解剖学については、同時代でもダ・ヴィンチの専売特許でも何でもなく(先端技術ではあるけど)やはりミケランジェロも取り入れている。

ダ・ヴィンチとミケランジェロの大きな違いは、ミケランジェロがきちんと(!)彫刻を手掛けている点である。解剖学の世界となると、絵画よりも彫刻の方が圧倒的である。何しろブツとしての量感がすごい。

ちなみに、ダ・ヴィンチも彫刻に手を出そうとしているふしは、スケッチの中で散見できるが、完成に至ったものは相当少ない。そもそも、設計そのものに無理があるのだ。現存する唯一の作品である、ミラノ公騎馬像のスケッチは多数残っているのだが、とにかく強度無視の無茶苦茶なモノばかりである。

おまけに小さいし! フィギュアかっ!!!
いや、別にフィギュアを馬鹿にしてるわけではないです。好きだし、時々ボクも作る。
https://response.jp/release/kyodonews_kaigai/20161207/30491.html


ここでも大作苦手病が露呈している。この人はあくまでもルネサンス期の理想像の一つである「万能人」の一例として評価すべきであり、ボクに言わせればそれ以上でもそれ以下でもない。彼の業績は夥しいスケッチ群に明確に見られるし、この点に関しては高く評価すべきだ。逆に、後付けする必要などないほど十二分なのだ。

●はぐれの物差しでしか絵を見ていないのだが

完全にボクの主観なのでご勘弁いただきたいのだが、とにかく気にくわないものは気にくわないし、評価の仕方もよく分からないものが多すぎるのだ。

絵の怖さというのは、見た瞬間に評価が決まるという(ボク自身の歪な価値観かもしれない)点にある。

誰がどう評価しようが、見て心地いいものと悪いもの、どうでもいいものぐらいの評価は誰にでもできると思うのだが、なぜか「いや、勉強不足で」と評価を濁す人に少なからず出会った経験からすると、「なんで?」としかボクには思えないのだ。

ボクが自分の絵を否定されてもさして怒ったりしないのは、ボク自身がボクの物差しでしか絵を見ていないからで、物差しが変われば評価も変わると思っているからだ。絵の好き嫌いくらい自由にすればいい。別にそれで死ぬわけじゃないんだし。

「そういうことを言えるのは鑑定眼があるからだ」と反論する人も多いが、ボクは鑑定のプロフェッショナルじゃないし、訓練だってしたことはまったくない。「いいものが環境にあったからだ」とまだ粘る人もいるのだが、いいも悪いも、ボクが勝手に決めることだ。

まぁ、居心地のいい場所があるのは確かだが。実際、ボクにとっていいものがたくさんあるが、それらを他人がどう見るかなんてのは知ったことではない。単純に見てピンと来るかどうかの話である。

ただ、教科書に載っている「名画」にほとんどピンと来なかったボクが、美術に興味を持つはずもない。だって、何がどういいのかなんてのは、本当にどうでもよくて、一目見るだけの話である。それでも北斎の評価は当時としては珍しいほど高かった。今でもだけど。

もっとも北斎に限って言えば、肉筆画は苦手である。あくの強い線が鼻について仕方がないのだ。ボクの線も大概だけど。

これが現代美術になると拒否反応しかでない。ウォーホルですらダメなのだ。「作品で美の哲学を語る」(?)という主旨はなんとなく分かるが、とにかくボクは見た目勝負の人だ。それならベタベタの宗教画を見てる方が、よほど機嫌がいい。

再三、白状しているように、ボクは無神論者だが宗教そのものを否定する気は毛頭ない。もちろん、宗教に題材を取った作品も否定しないし、これまた自分の目で見ていいか悪いかは決める。

●はぐれがピンと来るものは

小学校の修学旅行で訪れた東大寺で、ボクの度肝を抜いたのは盧舎那仏ではなく阿吽像(金剛力士像)のボリュームだった。「教科書で見たのと全然違うやないか」と心の底から思ったのだ。

いや、写真だから違うことはないのだ。単に「写真では見れないものを見てしまった」という方が正確なのだろう。ここで完全に度肝を抜かれたので、盧舎那仏はほとんどどうでもよかった。後年、ゆっくり拝見したのだが、やはり阿吽像の凄まじさの方が圧倒的である。

というか、小学生の時の修学旅行のハイライトはこの阿吽像であり、前後はどうでもよかった。とにかく「すごいものを見てしまった」というショックが大きかったのだ。

これで少しは美術に興味が行くかというと、まったくの逆で「教科書に載ってるものは全然信用できん」と確信したのもこの時なら、「美術・芸術ほど人任せに信用してはいけないものはない」というアホな価値観まで確立した。

このように、「評価の人任せを信用してはいけない」という考えの持ち主が、それこそ他人の評価頼りのエカキになるなど、露ほども思っていなかったのはむしろ当然の話であり、未だにこの恐怖は厳然としてあるのだ。

だからといって、「他人様が好きそうな絵」や、一度ウケたタイプの絵を描き続けるほどボクは人間が練れていない。

ほんの一例だが、上記の如く古今東西の「名作」とやらをばっさり切り捨てているのだ。我が身に降りかかっても仕方がないではないし、実際そんなもんだと思っている。

ボク自身が描いた絵の評価が、ボクにとって一番厳しくなるのは当然のことであり、一人で自分にダメ出しをし続けて、何をどうしていいやら分からなくなるなんてのは、日常茶飯事の話だ。ボクに言わせれば、「一番エカキになってはいけないタイプ」の人なのだが、ここまで来てはもうどうしようもない。

評価基準を緩めれば多少は楽になるかもしれないが、歳をとるにつれむしろ評価基準は高く狭くなっている。もちろん、他の方の作品の評価も同様である。ちなみに、鑑賞する分には老眼はさして影響がない。微に入り細を穿つような見方を、ボクは全然しないからだ。いつも通り一目見てそれで終わりである。

もしかすると、「見る」ということすら正確ではないのかもしれない。阿吽像の衝撃は「見た」衝撃ではなく、「出会った」衝撃に近かったのかもしれない。うまい具合に表現できないのだが、見ただけというのはどうも違う気がする。

これはシカゴ美術館のルーベンスも同様で、ボクは真正面から見るよりも先に(もっといえば相当斜め横からだ)気をとられて吸い寄せられるように対峙したのだ。

正直、年々ピンと来るものは少なくなっているのだが(むしろ嫌悪をもよおすものが大半だ)、それでも「エエやン」というものを見つけた時の感動は、より深くなっている気がする。その分、自分の絵に絶望することが多々ある。

むしろ、身の回りの移り変わる自然にピンと来る方が圧倒的に多い。川面のキラキラした反射光とか雲なんかは、見ててまったく飽きない。

自然美礼賛は基本にあるものの、こうした自然から得られたインスピレーションなりなんなりで、自然の美を突き抜ける作品だって稀少ではあるがあることはある。あると言っても、ボクがピンと来ただけなのは言うまでもあるまい。それもちゃんとした具象画で。

●大家と呼ばれる人の貧相な絵

一番インパクトがあったのは、おねえちゃん(編集部注:娘さんのこと)が、小学校低学年の時に描いた水彩画の朝顔。本当にさらっと描いてしまっているのだが、奧さんと二人でびっくりした。ものの30分ぐらいで描いたようだが、あれはボクでもちょっと真似できない。

朝顔のふとした瞬間が描かれているのだが、観察して描いたのではなく「何となくこんなん」というのが本人の弁だ。「何となくこんなん」はボクもよく使う手だが(というかこればっかりやな)、あそこまでやられると完全に白旗である。

「何となく」のバックボーンに、普段の何気ない視線の積み重ねがあるのは言うまでもないが、だからといって本当に何気なくさらっと描いて、それなりになってしまうのは簡単なことではない。ましてや、まともな絵の訓練など皆無のおねえちゃんである。アタリすらろくにとっていないし……。

「描く」という行為は、ボクの稼業のせいで我が家では特殊なことではない。おねえちゃんにとっては、日常生活の中にある行為の一つにすぎない。もちろん、相当特殊な環境ではあるが。

ボクはおねえちゃんに絵の手ほどきをしたことは一度もない。「描きたい」と言えば好きに描かせていたが、それでも描き方に口を出したことは皆無である。

もちろん、おねえちゃんの例をもって普遍化するほどボクはアホではない。我が家よりももっと絵を描くために整った環境で生まれ育ったのに、「どうしてこうなる?」というような絵しか描けない人が結構いるのを知っているからだ。

もちろん「大家」と呼ばれる人達の中にも大勢いる。むしろ、何をどうやったらあのような貧相な絵になるのか理解に苦しむほどだ。

本人がどう思っているのかは、もちろん想像すらできない。それでも、ああした貧相な絵を描き続け、世間様に見せられる度胸には感服する。いや、嫌みでもなんでもなく。

ボクも同じようなことをしてるのだが、あのレベルはちょっと無理やなぁ。にっちもさっちもいかず、どうしても出さざるを得なくなったら、その時は送った直後に失踪するか死を選ぶ。

恥の多い(というか、恥しかないんだけど)ボクですら、ここまであっさり自分を葬ることを選ぶようなことを平然とできるというのは、ボクにとっては化け物(もちろんかなり忌まわしい)を見てるようなもんだ。

こうした作家さんを高く評価して、世間に宣伝している人達が当然いるわけだが、もちろんこんな人達の評価をボクが鵜呑みにするはずもなく、いわゆる「名画」に関するあれこれの評価だって、ボクに言わせれば差して変わらないレベルの話にしかならない。もっと露骨な言い方をすれば「信用するに値しない」のだ。

絵を描く環境については、デジタル時代になって(もう少しましな言い方はないものか?)敷居が恐ろしく低くなった。何度も書いているが、ボクもその恩恵を受けている一人だ。

じゃあボクが、デジタル方面の絵なり何なりをまともに見ているかというと、むしろ避けている。ガックリを通り越してしまうからだ。ボクが否定した「名画」の方がよほどまともに見えてくる、という事実はボクに言わせれば「お先真っ暗」であり「末世」ですらある。

さらにこうしたものが世に流布して、こんな絵ばっかりを見ている人が少なくない事実を加えると、もう目を逸らすしか他に手がないではないか。

「そっちはそっちで勝手にしてていいから、こっちに口は出すな」というのがボクの基本姿勢なのだが、これを本業でやるともちろんダメージしかない。

そもそもこんなことをこの場(デジクリですよ!)で書くこと自体、もう正気の沙汰ではないのかもしれない。もちろん、気を悪くする読者の方も執筆者の方もめちゃめちゃいるだろう。

それでも「名画」をあっさり否定しているボクが、デジタルというここ30年足らずの成果品群をあっさり評価するはずはない。くどいようだが、ボクだってこの一員なのだ。その程度の自覚も覚悟もある。

だが、上記した「大家」の貧相な絵よろしく、ボクなら自らを葬るようなもの(イヤそれより酷いかもしれん)と思う絵は、腐るほどたくさん出回っている。

「正義はどこにある?」などということを言う気はさらさらない。世間様が認めるなら、それはそれで一種の正義なのだろう。「名画」「大家」も然り。ボクが一人で嫌がっているだけの話だ。

もっと言えば、妥協なり何なりして、世間様と足並みを揃えるに越したことはないのだが、そもそも協調性のカケラもない上に、どう頑張っても(!)それっぽくならないのが、ボクの厄介なところである。

ちゃんと努力はしたんですよ。それでもこうだから、ショーバイ上これほど困ったことはないのだが、もはやどうしようもない。

「ピンと来る」だけで生きるというのは、こういう負の側面だって露骨にある。もうちょっと理知的ならまた違ったのかもしれないが、実態はそうじゃないし。ここに自己肯定力0という要素が加わるから、更に立場は厄介になる。

こうして考えるとボク自身が一番愚かやな、呵々♪


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com