[4848] 「天気の子」を見た◇2000年のオブスキュア写真◇災害に強い社会

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《あぁ、街をデザインするってこういうことなんだな》

■装飾山イバラ道[251]
 「天気の子」を見た
 武田瑛夢

■Scenes Around Me[56]
 2000年に撮影されたオブスキュア関連の写真
 関根正幸

■crossroads[70]
 災害に強い社会を考える
 若林健一




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■装飾山イバラ道[251]
「天気の子」を見た

武田瑛夢
https://bn.dgcr.com/archives/20190827110300.html

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夏休み明け一本目です。夏休みの映画、「天気の子」を見てきました。

・映画『天気の子』公式サイト
https://tenkinoko.com/


※以下は映画のネタバレを含みます。未見の方は要注意。

とても良かったのに、説明が難しい。私の英会話の講師とフリートークの時、今日本で人気のアニメの映画として紹介した。

お天気に関係する女の子と男の子の話、と簡単に説明したら「それが人気なの? 日本で一番の?」と不思議そうな顔で言われた。確かに、その説明だけでは、何故人気なのかまったく伝わらない。

「んー、登場人物がとても若くて皆どこかしら孤独。孤独の中、関わりあっていく話なので、今の日本の若い世代が共感するんだと思う」と付け加えたら、なるほどという感じに伝わった。

これをどう英語で伝えたかは、聞かないでもらいたい(笑)。

今回は、映画のレビューというより、映画を通して考えたことを書いてみたい。考えてみれば、子供って結構大変だよねという話。天気の子の「子」ってところが、ズシッと効いた題名に思える。

●子であるがゆえに

人間は自分で選んで、何でも出来るようなつもりでいる。しかし、子供であるというだけで、何も自由に選べない時期があるのだ。こんな当たり前のどうしようもないことを、受け入れたり受け入れなかったりして生きている。

子供時代は、そんなことについてよく考えることも、特にないのかもしれない。学校に行くのも、夕ご飯のおかずも、夜は外出できないのも、妹と同じ部屋なのも、自分が決めたことではない。

自分のベッドにシーツが敷いてあるのも、お風呂に入る順番で呼ばれたのも、いつの間にか用意されたものだ。

守って育ててもらうことの中に、どれだけ自分で選ぶことがあったのだろう。「うちはこうだから、こうである」以外に、特に理由はないまま過ごしていくのだ。

映画では、若い主人公の少年と少女が何気なく出会って仲良くなる。

そして今の現状ではどうにもならない、どうにもできない、引き離されるのは必須の状況に追い込まれていく。

本当だったらもっと守られてもいい時期なのに、それを持っていない子もいるのだ。

●いつ生き方を選んだのか

生きる手段を得るというのは、どんな年齢であってもそれなりに過酷だ。子供、と言っていいほどの年齢であっても、置かれた状況を懸命に生きている。

恵まれているように見える子も、多すぎる愛情を過干渉に感じて息苦しいかもしれない。全く気にしてもらえない子も、寂しさや不自由さを感じているかもしれない。

誰しも自分でどう生きるかは選べるはずだけれど、そもそも自分で選ぶ道を周りが許さないこともある。未成年というだけで、選択できないことも多いだろう。社会の保護システムが必要な年齢ならば、なおさらだ。

私が思うには、周りが守ってくれる時期というのは、とにかく大きくなればいいのだ。

え? 色々言った割にそんな大雑把なの? と思うかもしれないけれど、あなたを想う人たちに囲まれているなら、楽しく生活して勉強や部活や遊びに、全力をかければいい。

自分で決められない事は、そう悩まずに楽しむ。部活や塾や友達を、自分で選べるチャンスは大いに生かして決めていく。決めて選ぶ練習の時期は、どんなに小さい事でも一所懸命に考えて決めていく
のだ。

貧困、格差も問題となっている時代。何でもあるとは言い難い状況の人もいるだろう。おやつやお年玉や塾は、誰もが持っているものではない。そういえば子供時代、塾や旅行は、私には関係がなかった。

そんな人は親や先生や地域の大人、子供同士でなんとか繋がって、楽しい事を一つでも見つけて欲しい。楽しいと思う事に全力をかけて、早く大きくなってしまえ。

●新宿の街

私はよく映画を観終わって、映画館から街に出た時のギャップにクラクラすると書いてきたと思う。映画の内容と、国も違えば時代も違ったりするからだ。

しかしこの映画では、それがまったく無かった。何故なら、私が「天気の子」を見たのは、新宿歌舞伎町の「TOHOシネマズ新宿」の夕方の回。外に出たら夜だった。

帰りは夫とオロチョンラーメンで有名な「利しり」のラーメンを食べて帰った。

私が食べたのは、みそチョンの辛さ2倍(極)。すっぽんスープのラーメンは久しぶりで美味しかった。私にはちょうど良い辛さで、丼も大きい。この情報は映画とはまったく関係がありません(笑)。

新宿の周囲のネオン街の景色や雰囲気は、映画の中のものと完全に一致していた。「天気の子」は、この新宿歌舞伎町が舞台でもあるのだ。新宿のビルの景色も、看板のデザインも、ピタリと同じイメージだ。

この映画には新宿の他に、代々木、池袋、田端などが出ているそうだ。上手く混ざっているので、私には見覚えのある街として馴染んで見えた。

ホテル街の雰囲気も、このあたりの街の感じだ。私は映画の中のホテルのシーンも、とても気に入っていて大好きだ。

普通のアニメの映画では、看板の企業の名称を少しモジって変えたりするけれど、変えていないところが多い。かなりしっかり交渉して、できるだけそのままの名称にしているそうだ。

このアニメ映画は、今現在2019年の新宿の記録映画でもある。私たちはいつも利用するのでこの映画館を選んだのに、バッチリだったので嬉しくなった。

TOHOの映画館の前を、主人公の少年帆高が走り回っている。天下一品ラーメン店の前にも、帆高が立っている。雨が降っていなかっただけの違いだ。あと10年、20年してこの映画を見たら、この景色を懐かしく思うのだろうか。

●強い望み

楽しいと思える事を探しながら生きていれば、ポンっと空から降ってくるものがある。これをしたいとか、こうなりたいとか、あそこに行きたいという「望み」が降ってくるのだ。

人は強い望みを持つと、どうしても絶対に何が何でも、それをしたくなる。憧れの歌手やアイドルの努力を見たり、偉人の本を読んだり。スポーツクラブの先輩が大会で優勝するのを目の当たりにしたりすることで、変わっていく。

川の流れにただ乗っていただけだったのに、光り輝く岸が見えて、自分の船の方向を変えたくなるのだ。どうしてもあっちに行きたいと、強く望んで船の舵を取る。そこで自発的な力をググっと使う。

一緒にいたいとか、会いたいとか人との関係でも、多くの光を見るようになる。もちろん、一緒にいたくないというような、反対方向の望みが生まれる人もいるかもしれない。自分がしたいことを自分にさせる。それができる時にやる。そうできるようになる。それが私たちの人生の仕事。

やりたいことが見つかれば、方向を定めることができる。若い世代だけでなく、結構生き抜いてきた私たち世代でも、どっちに向くかは大切だ。

今の方向が望みに向かっているのかを、いつも気にしていたいと思う。


【武田瑛夢/たけだえいむ】

装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/


私は、どちらかと言えば雨女。ただ、雨は街を洗ってくれると考えてからは、清々しい気分。雨の匂いも嫌いじゃない。


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■Scenes Around Me[56]
2000年に撮影されたオブスキュア関連の写真

関根正幸
https://bn.dgcr.com/archives/20190827110200.html

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オブスキュアの人たちは、住んでいた家の賃貸契約期間が終了したため、2000年3月頃に豪徳寺から引っ越すことになりました。

その後、彼らは伊東篤宏さんの所に身を寄せながら、新しい共同生活の場所を探しました。その結果、都立大学(目黒区中根)にある一軒家を見つけ、2000年6月に移り住みました。

オブスキュアは2000年7月1日に移転記念パーティーを開き、その時も写真を撮っているはずですが、今回は用意することが出来ませんでした。

そのため、代わりに 2000年に撮ったオブスキュア関連の写真を3点紹介します。

https://live.staticflickr.com/65535/48599097206_ff2878c7aa_c
△2000年4月23日 東京藝術大学体育館

詳しいことは覚えていませんが、建築家の市川創太さん(doubleNegatives Architecture)が作品を福島県内で展示することになり、お披露目を東京藝術大学体育館で行ったのだったと思います。

作品の音響を藤乃屋舞さんが担当した関係で、鷹野くんに誘われて見に行きました。作品は天井から吊るされたリングに青色のライトが仕込まれていて、おそらくリングを回転させると音響が流れるようになっていました。

実際には会場はもっと薄暗かったのですが、カメラを三脚に据えてバルブで撮れば面白いと思い撮影しました。この写真を舞さんに見せたところ、市川さんにも気に入ってもらえたらしく、後に出版された doubleNegative Architecture の作品集に収録されました。

https://live.staticflickr.com/65535/48599236987_1fcd4c7413_c
△2000年5月19日 渋谷アップリンクファクトリー

豪徳寺時代に、コーキくんはアップリンク主宰の浅井隆さんをオブスキュアのパーティーに招いたことがありました。浅井さんはそのパーティーを気に入ったらしく、同じような雰囲気のパーティーをアップリンクで出来ないかと浅井さんから申し出があり、イベントを行うことになりました。

私もイベントの当日、何か音を出したかも知れませんが記憶にありません。写真は会場のインスタレーションを担当した伊東篤宏さんのライブで、設置した蛍光灯を使ってノイズを流しました。

後に伊東さんは、オプトロンという蛍光灯を使った楽器で演奏を行うようになりますが、そこに至る前の過渡的な演奏で貴重といえばいえるかも知れません。

https://live.staticflickr.com/65535/48599227757_b2fe2474a8_c
△2000年12月 

この日は、CDのジャケット用の写真の撮影を行いました。当初、撮影は安彦幸枝さんが行うことになっていましたが、安彦さんの都合で私が撮影することになりました。

とはいえ、私もそのような写真を撮るのは初めてだったので、とりあえず注文されるまま、メンバーが集まってくつろいでいる写真をパンしながら撮影して、後でつなぐことにしました。

それとは別に集合写真も撮りましたが、この日はあえて低感度のフィルムしか持っていかなかったため、全員が動いていない写真が一枚も撮れませんでした。

https://live.staticflickr.com/65535/48599228087_8a16b690e8_c

結局、写真がCDに使われることはありませんでした。

ちなみにこの日集まったのは、Safariというバンドと、アートブックOBSCUREに参加した、kujunくん、植野隆司くん、藤乃屋舞さんの混成メンバーだったようです。


【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://sekinema.com/photos


1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔


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■crossroads[70]
災害に強い社会を考える

若林健一
https://bn.dgcr.com/archives/20190827110100.html

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こんにちは、若林です。

夏休みを挟んでほぼ一か月ぶりとなりました。梅雨の間の涼しさから一転、本格的な夏に入ってからは暑い日が続いていて大変ですね。

今年もゲリラ豪雨による浸水が起こっていますが、それでも地震、台風、大雨と災害続きだった昨年に比べると、今年はまだマシだなと思います。

まだまだ台風の季節は続きますから気は抜けませんが、このまま大きな被害の出ないまま夏が終わってくれることを願うばかりです。

◎防災機能付き公園

というわけで今回は防災がテーマですが、ちょっとふるさと自慢入ります。

私の出身地である守口市に帰ったところ、災害に備える、災害の被害を少なくするという意味の防災において、とても進んだ取り組みが行われているのに感心しました。

私が通った小学校の近くにある公園がリニューアルされ、防災機能を備えつつ、子どもから大人まで楽しめる公園に変わっていたのです。

この公園は道路を挟んでふたつに分かれていて、リニューアル前は一方に野球場、もう一方に赤土のテニスコートがあり、それ以外の部分には遊具があったり、野球ができるほどの広さの広場がありました。

これだけでもかなり充実している方だと思うのですが、リニューアル後は野球場がサッカーもできる多目的球技場になり、テニスコートは屋内と屋外の2種類になり、今までなかった相撲の土俵までできていました。

小さな子どもたちが遊ぶエリアの遊具は、大人でも滑ってみたくなるような大きな滑り台に、水遊びができるエリアもあるほどにグレードアップしています。

大枝公園
https://www.oeda-park.jp/


これだけなら「子育て世代を取り込むための施策を頑張ってるな〜」で終わるところなのですが、すごいのはこれらの施設が災害時には防災機能を発揮するというところ。

テニスコートは支援物資の保管場所、多目的球場は避難場所やヘリポート、芝生エリアは自衛隊の宿営地機能が設定されています。

ベンチはコンロに変わり、テントをかけるだけで災害時の拠点になる休憩場所などもあります。地下には貯水タンクがあり、もちろん公園内の自動販売機は災害対策用のものが設置されています。

大枝公園の防災機能
https://www.oeda-park.jp/disaster/


ちょっと感動してしまいました。日常で使える公園に、こんなに防災機能を仕込んでいるなんて。しかも、私が行った時には多くの家族づれが公園で遊んでいて、当たり前ですけど公園としてもとても活用されてるのです。

「あぁ、街をデザインするってこういうことなんだな」と、とても腑に落ちた瞬間でした。こういう取り組みはきっと他の自治体でも行われていて、私が知らなかっただけだと思うのですが、ぜひ広まって欲しいなと思います。

すごいぞ、守口市。わが町として誇りに思います。

◎街に食事を届ける仕組み

もうひとつ、防災とは直接関係ないのですが、私の友人が取り組んでいるこんなサービスを知りました。

TLUNCH〈トランチ〉日本最大級のフードトラック・プラットフォーム
https://www.mellow.jp/tlunch


フードトラック(平たく言うと屋台ですね)と都会の空き地をつないで、街の人たちに美味しい食事を届ける仕組みです。

これは日常生活で利用するサービスですが、これが広がっていくと災害時の活用も考えられ、災害に強い社会をつくるためのインフラになるんじゃないかなって一目みて思いました。

災害時用の食事といえばカンパンがすぐに思い浮かびますが、今は非常食のバリエーションも増えそれなりに美味しくなっています。それでもやっぱり、日常の食事からすると、レベルは下がってしまうと思うのです。

そこで、フードトラックみたいな形態のお店が増え、災害発生時の支援ができたらいいと思いませんか?(もちろん、そこにかかるコストをどうやって捻出するかは考えなければいけません)

災害時って、ただでさえ精神的にまいってるし、落ち込んでるし疲れています。そんな時でも、美味しいものが食べられるというのはとても元気づけられる。そんな仕組みになります。

それに災害時だけじゃなく、孤食、フードロスの低減、高齢化に伴って発生する色んな問題にも対応できるかもしれない。そんな可能性を感じました。

◎災害に強い社会とは

私も豪雨災害の復旧支援に参加したことがありますが、支援の現場ってとても混乱しています。

災害が発生するとボランティアセンターが立ち上がり、各地から復旧支援に集まったボランティアの現場への振り分けが行われますが、必ずしも適切な振り分けが行われているわけではありません。

被災地の状況と必要な支援、支援できる人のスキル、これらをすべて完ぺきに把握できているわけではないので、どうしてもミスマッチやロスが発生しています。

私が参加した災害現場以外でも、同じような状況が起こっていると聞いた時に「災害時に使えるITを活用した仕組みができないものか」と考えたのですが、どう考えても「災害時に運用できるか?」というところがネックになります。

いざ災害発生時に使おうとした時に、学習コストが高いと迅速さが求められる災害現場では使えないのです。災害に強い社会を作るには、災害時と平常時を分けて考えるのではなく、平常時と災害時が同じ直線上にあることが重要ということですね。

災害の専門家のみなさんは、そんなことを当たり前と考えておられると思いますが、一般人にはなかなかそこまで考えがびません。

災害時に使う設備や備品があっても、いざという時には使えない。日常の生活の中に見えていて、それらが災害時にも機能することを知っていることで、緊急時にもすぐに活用できるようになる、そんな社会設計を私たちもしていきたいものです。


【若林健一 / kwaka1208】
https://croads.jp/aboutme/


子供のためのプログラミングコミュニティ「CoderDojo」
https://croads.jp/CoderDojo/


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編集後記(08/27)

●偏屈読書案内:若桜木 虔「それ、時代ものにはNGです 2」

わたしが学校で教わった「江戸時代の士農工商という身分制度」という“常識”が、実はなかったとして教科書から消えたのはだいぶ前らしい。有名な史料がデッチ上げの偽物だったという話も聞く。歴史の解釈には「これが、絶対的な正解」というものは存在しない。「こういう考え方をすると、今まで謎とされたことに合理的な説明がつき、納得がいく」が、大抵の場合の限界である。

筆者は「信長は、なぜ京都に入らずに、大津よりさらに遠い安土に本拠となる大々的な城を築いたのか?」について、合理的な仮説を唱える。安土から、日本海交易の拠点・敦賀湾、太平洋交易の拠点・伊勢湾、瀬戸内海交易の拠点・大阪はほぼ等距離にある。信長は物流大名で、物流から上がる利益を念頭においているから、ひたすら物流に便利な場所に移動、最後の拠点が安土だった。

信長は麾下の諸将の領地を移転させるのにも、一切の頓着や逡巡が見られない。なぜなら、武将の全員が尾張や美濃を拠点としていた、土地に縛られない「非農業系大名」だからだ。唯一の「農業系大名」だった家康は、本拠地から移転させていない。家康の主たる収入源が農業にある事実を重視したからだ。徳川軍の9割を占める歩兵が農業専従者では、土地から引き離すことはできない。

天下をとった秀吉は、局地戦とはいえ家康に苦杯を喫しているので、あまり京大阪に近い地域に居座っていられると、「何かのとき」に困る。そこで天正18年の小田原の役で、後北条氏を滅亡に追い込むと、秀吉は早速、家康を関東の地に追いやる。そうすると関東から京までは兵站線が延びるので、京大阪まで攻め上がって来られない。また中国地方の豊富な金山銀山に手を出せない。

家康は喜々として秀吉の転封の命令に従う。家康は、関東は米どころになると見たからだ。関東を安定した稲作地帯に変えるため、家康は利根川の水路を大きく銚子方面に変更した。この大規模工事は実に江戸時代の半分ほどの長期間を要した。さらに新田開発まで勘案すれば、江戸時代の関東地方の米の収穫高は倍増したとみられる。江戸の人口密度は一気に上昇、越後を超えて日本一に。

人口密度=国力=合戦時の戦闘能力だから、最強軍団は越後・上杉軍から徳川軍に移る。家康を僻地に移せば豊臣家は未来永劫安泰、という秀吉の目算が家康の慧眼によりもろくも崩壊した。家康は関東平野を穀倉地帯に変える大規模治水工事と並行し、利根川、荒川、江戸川などの川を堀割で連結して物量網を整備した。堀割を江戸市内にも張り巡らせ運河とし「水の都」を造りあげた。

家康は「米どころを押さえる」という点で謙信を見習い、「物流網を整備して物資運搬をスムーズにし経済を活性化させる」という点で信長を見習った。これら、筆者の信長や家康についての考察はとても新鮮だったが、それもそのはず「納得のいく合理的な説明ができる範囲の中であれば、作家や時代考証家は自由に発想できる」という考え方に基づいているからだ。楽しく読んだ。つくづく中学の社会科教師にならなくて(なれなくて)よかったと思う。(柴田)

若桜木 虔「それ、時代ものにはNGです 2」叢文社 2019
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794707916/dgcrcom-22/



●守口市凄い!

/レジ話続き。会員カードやクーポン、提携ポイントカードには全部バーコードをつけて、商品通してもらっている時に、客側に設置されているリーダーに自分で通すっていうのはダメ?

一覧表を見ながら、ここのポイントカード持ってるわ〜ピッとか、出すの面倒くさいからスルーしよう〜とか。そのぐらい協力するよぅ……。

長々と書いた。レジ係の男性の気持ちはわかるけれど、知らんぷりしようっていうのはアカンわ〜。

大阪のおばちゃんらは、気持ちは理解するし現実的だから、「すみません、袋代を引くのを忘れてました」って言ってくれたら、「ええよ、そのぐらい」「じゃあ袋ちょうだい。これでチャラね」って流すのに。「レジやり直します」なんて言われたら全力で阻止するわ。(hammer.mule)