超芸術探査本部トマソン観測センターの報告発表会が、来たる3月15日より11日間、阿佐ヶ谷の香染美術にて開催される。観測センターは昨年春に突如活動を再開したのだが、今回は私もスタッフとして参加し、煙突男のスタジオで展示の準備を手伝っている。
トマソンに関してはこの連載で何度か触れているが、カメラを片手に街を徘徊し、建築物や路上の不思議な物件の探査を行なう。「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」という定義がある。1982年に赤瀬川原平氏が構築した概念で、当時教鞭をとっていた美学校の生徒を中心にトマソン観測センターが結成された。
翌1983年に私は美学校に入学するのだが、「写真時代」での赤瀬川さんのトマソンの連載が大ヒットし、世は空前のトマソンブームだった。というのはウソで、まあ地味なもんでした。観測センターというのは先輩数名のこと。当時のヒエラルキーは今でも生きていて、我々の代の生徒はいまだに「新人くん」だ。
トマソンに関してはこの連載で何度か触れているが、カメラを片手に街を徘徊し、建築物や路上の不思議な物件の探査を行なう。「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」という定義がある。1982年に赤瀬川原平氏が構築した概念で、当時教鞭をとっていた美学校の生徒を中心にトマソン観測センターが結成された。
翌1983年に私は美学校に入学するのだが、「写真時代」での赤瀬川さんのトマソンの連載が大ヒットし、世は空前のトマソンブームだった。というのはウソで、まあ地味なもんでした。観測センターというのは先輩数名のこと。当時のヒエラルキーは今でも生きていて、我々の代の生徒はいまだに「新人くん」だ。
先日、ある写真展会場でトマソンの話をしていたら、この間パリで面白いものを見つけたという人に携帯で写真を見せて貰った。見れば郵便ポストの投函口のフタに眼が描いてある。確かにポストの中から覗いてるみたいで不思議な感じではあるんだけど、「これはアートだよね」と言ってしまった。
超芸術というのは芸術を超えているからこそ超芸術なのであって、芸術よりも当然エライ。芸術には作者がいて、意図的に作品を創りだしている。一方の超芸術には作者というのは存在せず、誰かに発見されることによって初めて価値が生まれる。だから、「どうだ素晴らしいだろう」的な意図が垣間見えるとちょっと引いてしまうのだ。
最近、超芸術界で問題になっていることのひとつに街の落書きがある。グラフィティーアートなどと言っているが、貴重な超芸術に落書きをする輩がいるのだ。これは珊瑚に落書きしたり、世界遺産に落書きするのと同じ重大な犯罪行為であるということを肝に銘じて貰いたいものだ。
さらに、スプレーで絵を描くだけでなく、やたらとサインをするということも流行っているようだ。しかし、超芸術にサインをした時点で、それは超芸術ではなく、芸術になっちゃうんだよね。レディーメイドの発想でもなく、ただのマーキングでやっているのならアートとも言えない行ないだ。
●それって写真じゃん
トマソン観測センターには「会長さん」がいる。赤瀬川さんを始め、全国津々浦々のトマソニアンから「カイチョーサン」の呼び名で親しまれている。トマソンに対する真摯な取り組み方や切れ味のいい物件の発見など、根強い支持を受け、四半世紀の長きにわたり我が国トマソン界に君臨している偉いお方だ。
先日の展覧会準備のため参集した新人くん三名に、会長さんから発表会で展示する報告書を選別するようにという指示が下った。「エーッ、そんな大変な仕事を」と思ったものの、始めてみるとひじょうに楽しい作業だった。
三人は報告書に寸評を加えながら選別を行なっていったが、その大胆さに周りの者は舌を巻き、やがては三賢人と呼ばれるようになっていた。しかし、別の作業をしていた他の賢人達も加わり、結局は六賢人がそれぞれ推す報告書に自分のイニシャル入りの付箋を貼っていこうという話になり、三賢人時代は10分ぐらいで去ってしまった。
トマソンというのは、ただ定義に当てはまったからといって、それでいいというわけではない。トマソンとして認定されるか否かという判断とは別に、展示に値するのかどうかというプラスαの部分も必要になってくるからだ。「美麗」であったり、「お見事」であったり、「ほほーっ」であったりするのだが、その基準をきちんと言語化することはなかなか難しい。
今回は特に「カワイイー!」という物件もあった。なんだよそれ、という感じだが確かにカワイイ物件だった。四半世紀前にはなかった判断基準だ。
そうかと思うと前述のように「超芸術ではなく芸術だ」という判断で、却下されてしまう場合もある。またちょっとショックだったのは「それって写真じゃん」というものだった。物件自体には派手さや美しさが求められるが、撮影者としての表現の部分が主張しすぎるとうるさいということだろうか。
あくまで物件に語らせなければいけないということだ。しかし、私はトマソンではあるけど写真的にも面白いという線を狙いたいと思っていたので、ちょっと考え方を修正しなければならないかもしれない。ストイックに物件を複写するようなスタンスがいいということか。そもそも「写真を撮ろう」などという表現意識自体が余計なものなのだろうか?
今回私は、20年以上前に発見した物件の報告もした。トマソンが下火になって、撮影はしたものの報告する機会を逸してしまったものだ。そのうちの一つに少女三人が小さな公園で楽しそうにブランコをして遊んでいる写真がある。もちろんトマソン写真なので、少女達の背後の住宅の二階には、誰がどう使うのかも分からない高所ドアが潜んでいる……
この写真に対しては「文学的」という評価が下った。文学的が肯定なのか否定なのかはよく分からない。ただ、現代では高所ドアの価値自体が暴落しているので、トマソン的価値は低いが、まあちょっとは面白いということか。一応付箋が五つ付いて展示されることになったので、ぜひ会場でご確認ください。
写真をセレクトをしている時、絵ハガキにして売ろうという話が持ち上がった。じゃあ、どれにしようかなどと言いながら選んでいたのだが、ある写真に対し「それって絵ハガキじゃん」という意見が出た。絵ハガキとして売ろうとしているのに絵ハガキではダメなのか? これもきちんと咀嚼してみるべき意見だ。
絵葉書のような写真が否定される場面というのは元々ある。たとえば北海道の景色のきれいな所に行って、きれいな光の下、構図も決まって美しい写真が撮れました。でも、それがどうしたの? という言い方だ。これはトマソンではなく、写真表現に対するスタンスの問題だ。
もちろん、アマチュアの場合はそれで全然構わないが、写真家を志すような場合は、どこかで見たようなキレイキレイな写真ではなく、新しいものの見方を提示すべきということだ。これがトマソン写真にも求められるのだろうか?
といったような感じで、写真を見ながらあーだこーだ言う時間は楽しいものだった。賢人だか何だかしらないが、トマソンというのはちょっと知的な遊びだなあと思う。
◇超芸術探査本部トマソン観測センター報告発表会2007
会期:3月15日(水)〜25日(日)11:00〜19:00
21日(水/祭)のみ休廊 日曜日は通常営業
1.未発表〜新規報告書の展示公開
2.特別企画/墨田区集中探査報告「新東京タワーのできるあたり」
・3月24日(土)17時〜19時トマソン物件スライド発表会
報告したい物件のある方は当日スライド、データー、写真をお持ちください。
【うえはらぜんじ】zenstudio@maminka.com
◇キッチュレンズ工房
< http://kitschlens.cocolog-nifty.com/blog/
>
超芸術というのは芸術を超えているからこそ超芸術なのであって、芸術よりも当然エライ。芸術には作者がいて、意図的に作品を創りだしている。一方の超芸術には作者というのは存在せず、誰かに発見されることによって初めて価値が生まれる。だから、「どうだ素晴らしいだろう」的な意図が垣間見えるとちょっと引いてしまうのだ。
最近、超芸術界で問題になっていることのひとつに街の落書きがある。グラフィティーアートなどと言っているが、貴重な超芸術に落書きをする輩がいるのだ。これは珊瑚に落書きしたり、世界遺産に落書きするのと同じ重大な犯罪行為であるということを肝に銘じて貰いたいものだ。
さらに、スプレーで絵を描くだけでなく、やたらとサインをするということも流行っているようだ。しかし、超芸術にサインをした時点で、それは超芸術ではなく、芸術になっちゃうんだよね。レディーメイドの発想でもなく、ただのマーキングでやっているのならアートとも言えない行ないだ。
●それって写真じゃん
トマソン観測センターには「会長さん」がいる。赤瀬川さんを始め、全国津々浦々のトマソニアンから「カイチョーサン」の呼び名で親しまれている。トマソンに対する真摯な取り組み方や切れ味のいい物件の発見など、根強い支持を受け、四半世紀の長きにわたり我が国トマソン界に君臨している偉いお方だ。
先日の展覧会準備のため参集した新人くん三名に、会長さんから発表会で展示する報告書を選別するようにという指示が下った。「エーッ、そんな大変な仕事を」と思ったものの、始めてみるとひじょうに楽しい作業だった。
三人は報告書に寸評を加えながら選別を行なっていったが、その大胆さに周りの者は舌を巻き、やがては三賢人と呼ばれるようになっていた。しかし、別の作業をしていた他の賢人達も加わり、結局は六賢人がそれぞれ推す報告書に自分のイニシャル入りの付箋を貼っていこうという話になり、三賢人時代は10分ぐらいで去ってしまった。
トマソンというのは、ただ定義に当てはまったからといって、それでいいというわけではない。トマソンとして認定されるか否かという判断とは別に、展示に値するのかどうかというプラスαの部分も必要になってくるからだ。「美麗」であったり、「お見事」であったり、「ほほーっ」であったりするのだが、その基準をきちんと言語化することはなかなか難しい。
今回は特に「カワイイー!」という物件もあった。なんだよそれ、という感じだが確かにカワイイ物件だった。四半世紀前にはなかった判断基準だ。
そうかと思うと前述のように「超芸術ではなく芸術だ」という判断で、却下されてしまう場合もある。またちょっとショックだったのは「それって写真じゃん」というものだった。物件自体には派手さや美しさが求められるが、撮影者としての表現の部分が主張しすぎるとうるさいということだろうか。
あくまで物件に語らせなければいけないということだ。しかし、私はトマソンではあるけど写真的にも面白いという線を狙いたいと思っていたので、ちょっと考え方を修正しなければならないかもしれない。ストイックに物件を複写するようなスタンスがいいということか。そもそも「写真を撮ろう」などという表現意識自体が余計なものなのだろうか?
今回私は、20年以上前に発見した物件の報告もした。トマソンが下火になって、撮影はしたものの報告する機会を逸してしまったものだ。そのうちの一つに少女三人が小さな公園で楽しそうにブランコをして遊んでいる写真がある。もちろんトマソン写真なので、少女達の背後の住宅の二階には、誰がどう使うのかも分からない高所ドアが潜んでいる……
この写真に対しては「文学的」という評価が下った。文学的が肯定なのか否定なのかはよく分からない。ただ、現代では高所ドアの価値自体が暴落しているので、トマソン的価値は低いが、まあちょっとは面白いということか。一応付箋が五つ付いて展示されることになったので、ぜひ会場でご確認ください。
写真をセレクトをしている時、絵ハガキにして売ろうという話が持ち上がった。じゃあ、どれにしようかなどと言いながら選んでいたのだが、ある写真に対し「それって絵ハガキじゃん」という意見が出た。絵ハガキとして売ろうとしているのに絵ハガキではダメなのか? これもきちんと咀嚼してみるべき意見だ。
絵葉書のような写真が否定される場面というのは元々ある。たとえば北海道の景色のきれいな所に行って、きれいな光の下、構図も決まって美しい写真が撮れました。でも、それがどうしたの? という言い方だ。これはトマソンではなく、写真表現に対するスタンスの問題だ。
もちろん、アマチュアの場合はそれで全然構わないが、写真家を志すような場合は、どこかで見たようなキレイキレイな写真ではなく、新しいものの見方を提示すべきということだ。これがトマソン写真にも求められるのだろうか?
といったような感じで、写真を見ながらあーだこーだ言う時間は楽しいものだった。賢人だか何だかしらないが、トマソンというのはちょっと知的な遊びだなあと思う。
◇超芸術探査本部トマソン観測センター報告発表会2007
会期:3月15日(水)〜25日(日)11:00〜19:00
21日(水/祭)のみ休廊 日曜日は通常営業
1.未発表〜新規報告書の展示公開
2.特別企画/墨田区集中探査報告「新東京タワーのできるあたり」
・3月24日(土)17時〜19時トマソン物件スライド発表会
報告したい物件のある方は当日スライド、データー、写真をお持ちください。
【うえはらぜんじ】zenstudio@maminka.com
◇キッチュレンズ工房
< http://kitschlens.cocolog-nifty.com/blog/
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