
助っ人のメインの仕事は配本。当時「本の雑誌」は直販体制だったために、書店に納品する人間が必要だった。直接雑誌や本を書店に担ぎ込んで納品をし、時には請求書を立てて精算するところまでが助っ人の仕事だった。本誌や書籍が刊行されれば、レンタカーを借りて配本してまわり、日々の細かい注文にはカバンに本を詰め、電車に乗って書店へと向かった。


130名の応募に対し、合格不合格というのはなく、全員採用となったので、しばらくの間、信濃町の狭い事務所は混乱した。そしてゆっくりと時間をかけ、助っ人君達は淘汰されていった。ただ、今考えてみれば、この時しぶとく残った連中というのは、個性的で面白い人間が多かったかもしれない。現社長の浜本茂もその時の助っ人同期だ。
助っ人の先輩、後輩も合わせれば、本を出している人間も多い。マガジンハウス書籍編集部編集長の沢田康彦は、エッセイ集の他に短歌の本も何冊か出している。あやしい探検隊のドレイ上がりのくせに、女優と結婚したことでも話題になった。翻訳家の那波かおりや、絵本作家の本下いづみもいっぱい本を出しているし、同期の富澤えいち(ジャズ評論)や、吉田伸子(書評)もそれぞれの分野で活躍している。

◇歩き方がただしくない
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●自称アートディレクターの頃
助っ人の基本は配本だが、対談のテープ起こしや、赤字の付け合わせなんかの編集作業も多少あった。そして、学生ながらに責任を持たされてやっていたのが、交換広告の担当。交換広告というのは、マイナー雑誌同士が、無料で互いの広告を掲載しあうというシステムのこと。当時「本の雑誌」は不定期刊だったので、いつ頃発売予定とか、21号が発売中といったアナウンスに使っていた。
当時交換広告をしていた雑誌としては、「話の特集」「広告批評」「写真装置」「FOOL'S MATE」「ガロ」「漫金超」「ぱふ」「夜想」「軍事民論」「遊」「J UNE」、エトセトラ……、といった辺りが思い浮かぶ。当時はサブカル系の雑誌に勢いがあった頃で、編集者の顔が見える面白い雑誌がいっぱいあった。
私は若恵さんの後を引き継いで交換広告の担当になった。せっかく「本の雑誌」に出入りしているのだから、編集っぽい作業がしたいと思い、若恵さんから版下作業の手ほどきを受けた。当時はワープロも一般的ではない頃だから、ロットリングを使って罫線を引き、ペーパーセメントを使って写植の切り貼りをしていた。
交換広告担当者は、自分のところの雑誌に掲載する広告を集め、また他誌に掲載するための広告版下を作って送るのが役割だ。版下は郵送すればいいのだが、よその雑誌編集部が覗いて見たくて、わざわざ届けたりもした。神保町の「ガロ」編集部があった木造モルタルの王国や原宿にあった「話の特集」編集部のセントラルアパートにも偵察に行った。

私もコピーライターとか、アートディレクターになったつもりで、「本の雑誌」の交換広告をクリエイトしていた。当時の私の作品のひとつには、「タタンタタンメン タン ンタタン」というリズミカルなコピーとともにタンメンのイラストが描いてある、というものがあった。そう、「広告批評」で褒めて貰ったことでも話題になったあの広告は、私が作ったものだったのですよ。二十一歳の頃の話だねえ。
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◇キッチュレンズ工房
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- うちの子育て、ちょっと気になる隣の子育て―お気楽コミック&ママの本音がギュッ!
- 福井 若恵
- 講談社 1999-03