山: こんばんはー。
武: ういー、山根が遅いからもうヨッパラッチッタじゃないかっ!
山: え? なにが?
武: チャットしようぜって昨日の晩からスタンバってたんだよ、俺は。
山: あれ? そうやったっけ? 昨日はスワンプメンバーで寿司喰ってました。うまかったー!
武: なにーっ!
山: 武さん何してたん? うまかったで。
武: チャットする予定だったろーっ! 呑んでたけど。
山: なんや。それやったらええやん。
武: まあ、俺呑んでれば幸せだし。ってチャットすっぽかすな! そして、なぜ俺を誘わない!
山: お金ないやろうし(笑)。
武: もうね、実家を引き払うことになっちゃって。住所不定無職。
山: 自称画家。
武: 兼芸術家。
山: 兼目がでかい。
武: 兼黒目がち。
山: 兼顔でかい。
武: 兼ファニーフェイス。
山: 支離滅裂。
武: 芸術家肌。
山: 裸足。芸術家裸足。
武: 意味になってないだろっ!
山: わはっは! さてそんな話しはさておき行ってきました。
武: 今回はですね、なんとWBCフライ級タイトルマッチ、亀田大毅VS内藤大助戦見てきました!
山: いやーすごかったですねー!
武: プロレスだねありゃ。
山: 投げてましたねえ。
武: ある意味「見せ物」としては成立してるよ。
山: ライセンスも一緒に投げ飛ばして「見せ物」をやるとは。すごいな(笑)。
武: 二重三重に意味付けして俯瞰してみると、オモロい。
山: ……ってもう突っ込むのもめんどくさいのでさくさく行くと、今回は【イリヤ・カバコフ 「世界図鑑」絵本と原画】です!
< http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2007/kabakov/
>
武: ういー、山根が遅いからもうヨッパラッチッタじゃないかっ!
山: え? なにが?
武: チャットしようぜって昨日の晩からスタンバってたんだよ、俺は。
山: あれ? そうやったっけ? 昨日はスワンプメンバーで寿司喰ってました。うまかったー!
武: なにーっ!
山: 武さん何してたん? うまかったで。
武: チャットする予定だったろーっ! 呑んでたけど。
山: なんや。それやったらええやん。
武: まあ、俺呑んでれば幸せだし。ってチャットすっぽかすな! そして、なぜ俺を誘わない!
山: お金ないやろうし(笑)。
武: もうね、実家を引き払うことになっちゃって。住所不定無職。
山: 自称画家。
武: 兼芸術家。
山: 兼目がでかい。
武: 兼黒目がち。
山: 兼顔でかい。
武: 兼ファニーフェイス。
山: 支離滅裂。
武: 芸術家肌。
山: 裸足。芸術家裸足。
武: 意味になってないだろっ!
山: わはっは! さてそんな話しはさておき行ってきました。
武: 今回はですね、なんとWBCフライ級タイトルマッチ、亀田大毅VS内藤大助戦見てきました!
山: いやーすごかったですねー!
武: プロレスだねありゃ。
山: 投げてましたねえ。
武: ある意味「見せ物」としては成立してるよ。
山: ライセンスも一緒に投げ飛ばして「見せ物」をやるとは。すごいな(笑)。
武: 二重三重に意味付けして俯瞰してみると、オモロい。
山: ……ってもう突っ込むのもめんどくさいのでさくさく行くと、今回は【イリヤ・カバコフ 「世界図鑑」絵本と原画】です!
< http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2007/kabakov/
>
武: 神奈川県立近代美術館・葉山。逗子ですよ! 逗子。遠かったなー。海外かと思ったよ。
山: 隣の県やないか。
武: 海なし県育ちだと、海が見えるところは異国だから。
山: 美術館の環境よかったな。
武: 道中の海景色でカタルシス得ちゃって、そのまま帰ろうとしちゃった。美術館から海岸まで歩いてすぐだし、美術館の敷地から海へ落ちる夕日が眺められる。
山: 何しに行ったんや。まあでもそれぐらい気持ちええわな。海は。
●イリヤ・カバコフとは
武: で、イリヤ・カバコフですよ。ロシアの現代美術作家ですな。
山: 今回の展示はインスタレーションで知られる作家の、また別の側面に焦点を当てた展示やった。
武: 「トータルインスタレーション」って呼ばれてるんだね。イリヤ・カバコフについてはこのプレスリリースを。
< http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/press/2007r_kabakov.pdf
>
山: 僕はカバコフってあんまりわからんかったんよな。作品見たことはあったけど。
武: 実を言うと俺はイリヤ・カバコフで初めて現代美術に興味を持った。それまでは「現代美術? なにそれ? なに一つ心にも社会にもコミット出来てないじゃん」って思ってたんですよ。実際にアートに触れるには美術館なりに行かないといけないし。「ぬるま湯の閉鎖空間で特権意識を持った連中が屁の役にも立たない知的オナニーしてるだけじゃん」ってホントに思ってたしの。
山: ちょっと待ってくれ、缶切りがなくて困った。どうしよう。
武: 俺の話しを聞けーっ!
山: えーっと。ほうほう。で、最初カバコフのどんな作品を観たん?
武: 最初に見たのはトータルインスタレーションじゃなくて、ナディッフでカバコフの仕事を紹介していた展示だったんですよ。【イリヤ・カバコフ「本、アルバム、ポスターなど」】(1998年12月28日〜1999年2月1日)
< http://www.nadiff.com/archives/1998/kabakov.html
>
山: 僕は観てへんなあ。どんな展示?
武: 紙芝居の絵とか、トータルインスタレーションの写真とかだったけかな。
山: 何がおもろかった?
武: イリヤ・カバコフの作品の物語性なんだと思う。
山: ほう。
武: 空に飛んでった跡のインスタレーションの写真とか、人が空を飛ぶ物語の紙芝居とか、ノアの方舟が本当にみつかった話とかだったっけ、その物語がさ、単なる寓意性だけでもない感じがして。
山: 確かに「物語」というのはカバコフ作品では重要やな。『アルバム』やったっけ。
< http://www.nadiff.com/archives/1999/tori/tori.html
>
武: その当時、カバコフが旧ソ連の作家であることはあんまり関係なくって、感覚的に「ああ、現代美術なのに好きだ」って感じた。でも、むさぼるようにカバコフを注目してった訳でもないけど。
山: なるほど。
武: 軽やかに、小さく、密やかに、案外、素朴に現代美術に対して開眼したんすよ。
山: いまいちよくわからん(笑)。
武: カバコフのトータルインスタレーションを初めて見たのは、森美術館。【イリヤ&エミリア・カバコフ展「私たちの場所はどこ?」】(2004年5月29日〜7月19日)2004年だ! 最近だねー。
< http://www.roppongihills.com/jp/events/i8cj8i0000015dps.html
>
山: これはどうやったん?
武: 体感型、って言ったらいいのかな。オーディエンスは作品の中に居るんですよ。
山: 絵の中に居るような感じってこと?
武: アミューズメントパークに近いかな。。。
山: ほー。いろんな仕掛けがあるんかな。
武: 仕掛けそのものって言ったらいいのかな。例えば、ディズニーランドはいろんな仕掛けがいっぱいで、異界である訳だけど、与えてもらう世界なんだよね。ある意味同じなんだけど、何か違う(笑)。
山: ってわからんがな。
武: うーん、ディズニーランドは何も考えないですむし、想像力を働かせないですむ楽しさがある。スペクタクル社会。カバコフのトータルインスタレーションも、一歩踏み込むと異世界なんだけど、いろいろ想像力を喚起させてしまうっていうのかな。いろいろ考えたがっちゃう。むしろ、恐竜の博物館とか、科学博物館とか、植物園とか、そういう感じに近い。「見せ物小屋」とも通じるのかな?
山: まあ作品は誰かに見せるわけで、そういう意味ではすべて「見せ物」やけどな。
武: 「見せ物」って、どこか自分が脅かされるじゃないですか。常識とか社会通念とか。自分がフツーだと思ってたことが、危機にさらされるわけですよ。カバコフのトータルインスタレーションも、どこか自分の存在が脅かされるんですよ。霧散してしまうっていうか、浮遊してしまうっていうか。
山: ボリス・グロイスという人がカバコフとの対談の中で、ヴェネチアビエンナーレのカバコフの作品について語ってて、まさに「……ビエンナーレはまるでディズニーランドのようですね。」って言ってる。
武: ほう!
山: さらに「芸術はディズニーランドの一部なのか?」という問いを出してます。
武: おっ! で?
山: 「活動としての芸術が娯楽・観光産業に取り込まれてしまったのではないか、との疑いが生じ」ると。で、グロイスがカバコフにその問いをぶつけるねんけど、カバコフはこう答えている。「恥ずかしながら、その問題にはあまり興味を持っていませんでした……。」やと(笑)。
武: わははははは! カバコフ天然!
山: 「それを認めるのはつらいけれど、それが純粋芸術の不幸な位置だったのです…。」だって。引用は「イリヤ・カバコフの芸術」(1999/五柳書院)より。
武: 認めちゃうんだね。すごいね。カバコフ天才。
山: ソ連から出てかなり嬉しかったんやろね。
武: そうなんだろうなあ……。
山: ま、お金が入ってこれば資本主義のシステムほど楽しいもんはないやろからな。
武: じゃあ俺もそうする。【タケヤ・コバカフ「沢尻図鑑」エロ本の原価】展。
山: ……僕のツボとちゃうな。
武: そういう冷たい突っ込みってないんじゃない?
山: で、こんなカバコフですが、今回の展示はトータルインスタレーションではなくて絵本の原画の展示だったわけだ。
武: スルーかよっ!
山: え? よく文字が読めない。
武: 読めるに決まってるだろーっ!
山: さて、今回の展示の内容はどうでしたか?
武: いやあ、逗子まではるばる行った甲斐があったよ。良かった! っていうのはね、展示の方法とかじゃなくてカバコフの手仕事がどんだけあったんだよ! ってなところでね。展示方法的にはジミーにフツー。
山: ま、一番それが見やすいんやけど。絵本の原画の展示やし。
武: 確かにな。カバコフに興味があった俺は楽しかったよ。けどさ「絵本の原画」に興味があった人は果たしてどうだろうか?
山: どういう意味?
武: 絵本が好きで、挿絵・イラストが好きーってだけのモチベーションで見に行った場合、カバコフの冒頭の文章「『挿絵画家という社会的役回り』とは何か?」と、1・生活、2・科学と産業、3・イデオロギー、4・物語、5・詩、6・「オーシャと友達」という区分けとか関係ないじゃん。
山: そりゃまあそうやろうけど。関係ないからいらないってもんでもないんとちゃうか。
武: ってか、このセクション分けはちょっとなんだかなーとか思ったけど。特に3・イデオロギー(笑)。
山: さほど意味を感じなかったのは確かやね。ただ、4から6までは、わかる。
武: そだね、同感。それ以前は、「1・ノリノリのカバコフ挿絵」「2・いろいろ考えたカバコフの挿絵」「3・もう厭になったけど上手なカバコフの挿絵」ってしたら良かったのに。
山: 区分けはカバコフ夫妻が提案したものやね。
武: そうなん?
山: そうみたい。描いてる心境とかいろいろ関係してるんやろな。
●「挿絵画家という社会的役回り」とは何か?
武: これ自体がひとつの現代美術なんですよね。
山: そう言えなくもない。
武: 多分、トータルインスタレーションの発想はあるんですよ。だから、冒頭の文章からトータルインスタレーションが始まってる。
山: 冒頭文おもしろかったな。
「挿絵画家という社会的役回り」とは何か? イリヤ・カバコフ
本の挿絵画家がどんなものであるかは誰にでも分かるとしても、なぜここに「社会的役回り」という表現が出てくるのだろうか。そもそも、「社会的」と「役回り」という言葉が結びつくと、どんな意味になるのか。
“ふつうの”社会では、人は自分の技能や経験をいかして仕事をし、自分の仕事の結果に対する責任を、個人で(自分のやり方で)ひき受けている。しかし、事実上、あらゆるものが国家の統制下にあったソ連では、すべての責任は、仕事を直接行った本人ではなく、その仕事を管理する側にあった。
こうした傾向は、美術、演劇、文学などのいわゆるイデオロギー的な分野で、とりわけ顕著だった。これらの分野では、おおやけに上演、展示、出版されるすべての作品に対して、党による特別な検閲が入念に行われていたのである。こうした検閲者による監視は、児童教育の分野、特に、各児童出版社から出版される書籍に対しても行われていた。出版社の編集者による統制が、文学作品の内容だけでなく、挿絵にも及んでいたことはいうまでもない。しかもこの検閲は、挿絵の質よりも、挿絵で描かれているものすべてが「イデオロギー的」に良質であるかをチェックしていた。たとえば、挿絵に登場する人や動物の表情はいつも楽観的であり、絵の意味は「ポスター」のように明晰で教訓的でなくてはならなかった。それと同時に、挿絵に描かれたすべてのものは、完全に写実的である必要があった。一九五〇年代半ばまでにソ連絵本界で定着したこれらの基準を遵守することが求められたのである。
こうした状況で、出版社から挿絵の仕事をもらいたい新進の作家たちは皆、次のような二者択一を迫られることになった。作家がすでに身につけている個人的な芸術上の好みや技術にこだわるか、あるいは、上に述べたきわめて厳しいルールにもとづく新しいゲームの空間に身を置くかという選択である。別の言葉で言えば、それは、当時あらゆる場面で行われていた検閲を、自分自身の中で行うということだった。児童文学出版社を含むソ連のあらゆる機関で長年にわたって練りあげられてきたイデオロギー的、美学的な要求を自分の作品が満たしているかどうか、作家自身が編集者としてチェックすることが求められたのである。
私も、なんらかの方法で生計を立てなくてはならなかったし、挿絵は、芸術大学で学んだことをいかせる唯一の分野だった。だからこそ、私には、先ほど述べたようなあらゆる要求を満たして「社会的な役回りを演じる」という選択しかなかったのである。編集者が私の絵について言ったこと、より正確には、編集者が訂正したところを、私は実行し、彼らの言わんとするところを「聞きとろう」とした。その結果私は、すぐに「編集者の視点」を身につけ、モスクワの児童出版社で仕事を続けていた一九五七年から一九八七年までの約三〇年間、うまく自分を統制できたのである。
すなわち、ここで言ったことを要約すれば、これらすべての本の挿絵を描いたのは、「私」ではなく「彼」だったのである。たとえ、「彼」が私の手で描いていたとしても。
(訳:鴻野わか菜)
武: トータルインスタレーションとして展覧会を眺めてみると「ソ連」という国家そのものが物語性として浮かび上がってくる。すげー、って思った。
山: ソ連での仕事を見せた訳やから、カバコフがソ連を浮かび上がらせる見せ方を選ぶのは、当然と言えば当然やろな。カバコフってそういう考え方が徹底している。思考方法というか。
武: それ以外考えてないというか……。でも思考法そのものに世界観を感じる。これは、社会主義国民だったからなのか? と思いを巡らしちゃう。日本人はいわゆる「西側」としてものごとを捉えちゃったりしてるわけで。
山: だいたい30年もソ連で挿絵画家やっててそれできっちり喰えてて、それを冒頭文で「『私』ではなく『彼』だったのである」なんて胸張って言えるんは、今やから言える訳でね。
武: これは、グッと来ちゃう言葉なんだけどね。現代美術作家としてひとつの展示をこしらえるためのクリエイトだとも思ったよ。
山: 僕がおもろいなーって思ったのは、こんだけ職人仕事をしていてそれと同時にそういった考え方とはまるで別の芸術としての仕事を行っていた、という事実がすごいな、と。
武: すごいね。
山: よくおかしくならへんかったな。
武: どっかでゲシュタルト崩壊してるよね、自分の国に対して。根本的な疑いをいつからか本気で持ち始めてた。20代はノリノリだけど。
山: 同じようなことを考えていた人たちが周りにもいたんやな。
武: 独りじゃなかったってとこが重要だよね。非公認芸術活動だっけ? 仲間が居た訳じゃん。で、その時に作品を見にくる人はわずか数人だったとか。
山: そうらしいな。おおっぴらにできないからそうならざるを得ないんやろうな。
武: たった数人の共感者と、数少ない共同制作者。
山: ある意味すごく幸せな時間だ。
武: カバコフの生の営みの最大モチベーションを支えたのは共同芸術家数名、共感者数名。
●社会主義の敗北
山: ま、ソ連の中では成功者ですけどね。
武: そこ重要(笑)。なんだかんだでカバコフは超エリート。
山: 実際そうじゃないと、分裂した状況をずっと生きて行くことなんて難しいやろうね。だから「非公認芸術活動」家の中にはまったく違う派もあったらしい。もっと反体制的な、わかりやすくアングラな。
武: アメリカなんかに移住しないでソ連が崩壊してさらに貧乏になってる、みたいな(笑)。
山: 「反エスタブリッシュメントの中でのエスタブリッシュメント」と言われたリアノゾヴォ派だとか、いろいろあったみたいやね。
武: むずい。
山: ようは反権威の中での権威ってことみたい。
武: 革マルと中核と赤軍の殴り合いのけんかみたいなんかね。ソ連っていう社会主義国は結局エリート主義だったわけで、カバコフはそこでエリート社会主義者として生きて、成功主義アメリカに移住して成功者してるっていう絶妙に素晴らしいポジションなんだよね。「社会主義の敗北」をメタファーとする「カバコフの物言い」は非社会主義国にとって非常に都合が良くなるワケだし。
山: ふむ。だから容易に取り込み易いわな。
武: 「社会主義は敗北した」という物語をみんなで共有出来る。「社会主義の敗北」って西側にしたら心地良いんだろうし。
山: そういうことはありそうやね。
武: けどさ、どうにもソ連時代の若い頃の挿絵はノリノリで社会主義なんだよね、カバコフ。
山: 周りもそうやしそうなるんやろね。けどユダヤ人としての迫害もいろいろあったみたいやで。
武: あー、ユダヤ人っていうところが入り組んじゃうね。複雑に。だから、展示の6・「オーシャと友達」はなんか特別な感じがした。
山: だからわざわざ区分けしたんやろうしね。
武: そうそう。ソ連とはまた別の物語、って。でね、なんかさ、この展示を観て社会主義ってむしろ身近に感じた。日本自体が社会主義的ってのかな。
山: ほう。なんで。
武: だってさ、フツーに日本でもイラストやデザインの仕事だと、「国家の検閲」じゃなくて、「クライアントのダメだし」がある訳じゃん。
山: それはどこでもあるやろ(笑)。
武: それはさ、「企業の都合」か「イデオロギー的に良質か」ってだけの違いでしょ。どっちにせよ作り手のこだわりとは無関係だったりするじゃん。
山: そりゃそうやけど社会主義ではないからね。
武: でさ、作り手は「企業の都合」のためでも「イデオロギー的に良質か」でもなくってさ、自分が想像したものを作りたくってさ、それが、誰かの共感を得たら最高に嬉しい。ってだけじゃないですか。
山: まあね。でも誰かの介入をただ否定したってしょうがないんとちゃうか。そこにどれだけ自分の考えを盛り込めるか、とかいろいろ方法はあるやろし。
武: きっとカバコフはソ連時代でそれをたっぷり学んだよ。
山: すべて頭ごなしにやられるとやってられんやろうけど。
●労働とは
武: 懐かしい感じを覚えつつ見始めたんですが、いろいろ思うんですよ。職業にまつわる絵本があるじゃないですか、『チーマはおうちにいます』とか。
山: はい。
武: 大阪のキッズプラザに行ったんですけどね、いろんな職業を体験するコーナーがあるんですよ。たこ焼き屋さんとか声優とかTVキャスターとか配管工とか。それって、社会主義の絵本『チーマはおうちにいます』と同じじゃん。
山: そういうアミューズメントあるな。キッザニア。
< http://www.kidzania.jp/
>
武: キッズプラザには芸術家がないんだよな。
山: 職業やないからちゃうか。
武: おかしくね?
山: おかしくないんとちゃう。
武: 「こういった社会そのものを否定する人たちも居ます」というキャプションで芸術家コーナーつくらないと。
山: だから職業とちゃうねんからしょうがないやん(笑)。だってそうなると「テロリスト」とか作らなあかん(笑)。
武: いーねー! 「詐欺師」とか。
山: あと「宗教家」とか。
武: それから「無職」とか。あ、子供って無職か。ってかさ、子供に「教育的に与える本」なんて、資本主義だろーが社会主義だろーが同じだよって思った。
山: 要は人間働かなくてはならない、という価値観を教えている訳やね。
武: 俺だって働いてる! 絵を描いて本を作ってる!
山: まあそれは子供が「僕だって学校に行って勉強してるからええやんか!」って言ってるようなもんで。
武: 「俺は学校行きたくない! 勉強もしたくない! 好きなことしたい!」
山: すればええやん。全然問題ない。
武: その場合、社会は受け皿になってくれないことがままある。
山: だいたい社会にそういう期待をしてる時点でおかしいと思うんやけどね。僕は。
武: 「このように従いなさい」に従うとメッチャ受け皿がある。展示の子供用絵本もキッズプラザも、要は「この仕組みに従いなさい」ってことなんだ。
山: 教育の基本はそういうことやろね。
武: その先には素晴らしい未来が待っている、と。
山: それはわからんけどね。
武: で、ソ連は崩壊しちゃう(笑)。同じようなことはきっとどこでもある。
山: 各家庭であるんじゃーないでしょうか(笑)。
武: はい、さようでございます。家が崩壊するって国家が崩壊することと同義だよな。
山: 通じるな。
武: 高らかな理想を打ち立ててしまったほど、崩壊はダイナミックだ。
山: ダメージはでかい。
武: 生きてらんないくらいだ。-----------------------------------つづく
●明日あたりに続きを掲載する予定です(柴田)

山: 隣の県やないか。
武: 海なし県育ちだと、海が見えるところは異国だから。
山: 美術館の環境よかったな。
武: 道中の海景色でカタルシス得ちゃって、そのまま帰ろうとしちゃった。美術館から海岸まで歩いてすぐだし、美術館の敷地から海へ落ちる夕日が眺められる。
山: 何しに行ったんや。まあでもそれぐらい気持ちええわな。海は。
●イリヤ・カバコフとは

山: 今回の展示はインスタレーションで知られる作家の、また別の側面に焦点を当てた展示やった。
武: 「トータルインスタレーション」って呼ばれてるんだね。イリヤ・カバコフについてはこのプレスリリースを。
< http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/press/2007r_kabakov.pdf
>
山: 僕はカバコフってあんまりわからんかったんよな。作品見たことはあったけど。
武: 実を言うと俺はイリヤ・カバコフで初めて現代美術に興味を持った。それまでは「現代美術? なにそれ? なに一つ心にも社会にもコミット出来てないじゃん」って思ってたんですよ。実際にアートに触れるには美術館なりに行かないといけないし。「ぬるま湯の閉鎖空間で特権意識を持った連中が屁の役にも立たない知的オナニーしてるだけじゃん」ってホントに思ってたしの。
山: ちょっと待ってくれ、缶切りがなくて困った。どうしよう。
武: 俺の話しを聞けーっ!
山: えーっと。ほうほう。で、最初カバコフのどんな作品を観たん?
武: 最初に見たのはトータルインスタレーションじゃなくて、ナディッフでカバコフの仕事を紹介していた展示だったんですよ。【イリヤ・カバコフ「本、アルバム、ポスターなど」】(1998年12月28日〜1999年2月1日)
< http://www.nadiff.com/archives/1998/kabakov.html
>
山: 僕は観てへんなあ。どんな展示?
武: 紙芝居の絵とか、トータルインスタレーションの写真とかだったけかな。
山: 何がおもろかった?
武: イリヤ・カバコフの作品の物語性なんだと思う。
山: ほう。
武: 空に飛んでった跡のインスタレーションの写真とか、人が空を飛ぶ物語の紙芝居とか、ノアの方舟が本当にみつかった話とかだったっけ、その物語がさ、単なる寓意性だけでもない感じがして。
山: 確かに「物語」というのはカバコフ作品では重要やな。『アルバム』やったっけ。
< http://www.nadiff.com/archives/1999/tori/tori.html
>
武: その当時、カバコフが旧ソ連の作家であることはあんまり関係なくって、感覚的に「ああ、現代美術なのに好きだ」って感じた。でも、むさぼるようにカバコフを注目してった訳でもないけど。
山: なるほど。
武: 軽やかに、小さく、密やかに、案外、素朴に現代美術に対して開眼したんすよ。
山: いまいちよくわからん(笑)。

< http://www.roppongihills.com/jp/events/i8cj8i0000015dps.html
>
山: これはどうやったん?
武: 体感型、って言ったらいいのかな。オーディエンスは作品の中に居るんですよ。
山: 絵の中に居るような感じってこと?
武: アミューズメントパークに近いかな。。。
山: ほー。いろんな仕掛けがあるんかな。

山: ってわからんがな。
武: うーん、ディズニーランドは何も考えないですむし、想像力を働かせないですむ楽しさがある。スペクタクル社会。カバコフのトータルインスタレーションも、一歩踏み込むと異世界なんだけど、いろいろ想像力を喚起させてしまうっていうのかな。いろいろ考えたがっちゃう。むしろ、恐竜の博物館とか、科学博物館とか、植物園とか、そういう感じに近い。「見せ物小屋」とも通じるのかな?
山: まあ作品は誰かに見せるわけで、そういう意味ではすべて「見せ物」やけどな。

山: ボリス・グロイスという人がカバコフとの対談の中で、ヴェネチアビエンナーレのカバコフの作品について語ってて、まさに「……ビエンナーレはまるでディズニーランドのようですね。」って言ってる。
武: ほう!
山: さらに「芸術はディズニーランドの一部なのか?」という問いを出してます。
武: おっ! で?
山: 「活動としての芸術が娯楽・観光産業に取り込まれてしまったのではないか、との疑いが生じ」ると。で、グロイスがカバコフにその問いをぶつけるねんけど、カバコフはこう答えている。「恥ずかしながら、その問題にはあまり興味を持っていませんでした……。」やと(笑)。
武: わははははは! カバコフ天然!
山: 「それを認めるのはつらいけれど、それが純粋芸術の不幸な位置だったのです…。」だって。引用は「イリヤ・カバコフの芸術」(1999/五柳書院)より。
武: 認めちゃうんだね。すごいね。カバコフ天才。
山: ソ連から出てかなり嬉しかったんやろね。
武: そうなんだろうなあ……。
山: ま、お金が入ってこれば資本主義のシステムほど楽しいもんはないやろからな。
武: じゃあ俺もそうする。【タケヤ・コバカフ「沢尻図鑑」エロ本の原価】展。
山: ……僕のツボとちゃうな。
武: そういう冷たい突っ込みってないんじゃない?
山: で、こんなカバコフですが、今回の展示はトータルインスタレーションではなくて絵本の原画の展示だったわけだ。
武: スルーかよっ!
山: え? よく文字が読めない。
武: 読めるに決まってるだろーっ!
山: さて、今回の展示の内容はどうでしたか?
武: いやあ、逗子まではるばる行った甲斐があったよ。良かった! っていうのはね、展示の方法とかじゃなくてカバコフの手仕事がどんだけあったんだよ! ってなところでね。展示方法的にはジミーにフツー。
山: ま、一番それが見やすいんやけど。絵本の原画の展示やし。
武: 確かにな。カバコフに興味があった俺は楽しかったよ。けどさ「絵本の原画」に興味があった人は果たしてどうだろうか?
山: どういう意味?
武: 絵本が好きで、挿絵・イラストが好きーってだけのモチベーションで見に行った場合、カバコフの冒頭の文章「『挿絵画家という社会的役回り』とは何か?」と、1・生活、2・科学と産業、3・イデオロギー、4・物語、5・詩、6・「オーシャと友達」という区分けとか関係ないじゃん。
山: そりゃまあそうやろうけど。関係ないからいらないってもんでもないんとちゃうか。
武: ってか、このセクション分けはちょっとなんだかなーとか思ったけど。特に3・イデオロギー(笑)。
山: さほど意味を感じなかったのは確かやね。ただ、4から6までは、わかる。
武: そだね、同感。それ以前は、「1・ノリノリのカバコフ挿絵」「2・いろいろ考えたカバコフの挿絵」「3・もう厭になったけど上手なカバコフの挿絵」ってしたら良かったのに。
山: 区分けはカバコフ夫妻が提案したものやね。
武: そうなん?
山: そうみたい。描いてる心境とかいろいろ関係してるんやろな。
●「挿絵画家という社会的役回り」とは何か?
武: これ自体がひとつの現代美術なんですよね。
山: そう言えなくもない。
武: 多分、トータルインスタレーションの発想はあるんですよ。だから、冒頭の文章からトータルインスタレーションが始まってる。
山: 冒頭文おもしろかったな。
「挿絵画家という社会的役回り」とは何か? イリヤ・カバコフ
本の挿絵画家がどんなものであるかは誰にでも分かるとしても、なぜここに「社会的役回り」という表現が出てくるのだろうか。そもそも、「社会的」と「役回り」という言葉が結びつくと、どんな意味になるのか。
“ふつうの”社会では、人は自分の技能や経験をいかして仕事をし、自分の仕事の結果に対する責任を、個人で(自分のやり方で)ひき受けている。しかし、事実上、あらゆるものが国家の統制下にあったソ連では、すべての責任は、仕事を直接行った本人ではなく、その仕事を管理する側にあった。
こうした傾向は、美術、演劇、文学などのいわゆるイデオロギー的な分野で、とりわけ顕著だった。これらの分野では、おおやけに上演、展示、出版されるすべての作品に対して、党による特別な検閲が入念に行われていたのである。こうした検閲者による監視は、児童教育の分野、特に、各児童出版社から出版される書籍に対しても行われていた。出版社の編集者による統制が、文学作品の内容だけでなく、挿絵にも及んでいたことはいうまでもない。しかもこの検閲は、挿絵の質よりも、挿絵で描かれているものすべてが「イデオロギー的」に良質であるかをチェックしていた。たとえば、挿絵に登場する人や動物の表情はいつも楽観的であり、絵の意味は「ポスター」のように明晰で教訓的でなくてはならなかった。それと同時に、挿絵に描かれたすべてのものは、完全に写実的である必要があった。一九五〇年代半ばまでにソ連絵本界で定着したこれらの基準を遵守することが求められたのである。
こうした状況で、出版社から挿絵の仕事をもらいたい新進の作家たちは皆、次のような二者択一を迫られることになった。作家がすでに身につけている個人的な芸術上の好みや技術にこだわるか、あるいは、上に述べたきわめて厳しいルールにもとづく新しいゲームの空間に身を置くかという選択である。別の言葉で言えば、それは、当時あらゆる場面で行われていた検閲を、自分自身の中で行うということだった。児童文学出版社を含むソ連のあらゆる機関で長年にわたって練りあげられてきたイデオロギー的、美学的な要求を自分の作品が満たしているかどうか、作家自身が編集者としてチェックすることが求められたのである。
私も、なんらかの方法で生計を立てなくてはならなかったし、挿絵は、芸術大学で学んだことをいかせる唯一の分野だった。だからこそ、私には、先ほど述べたようなあらゆる要求を満たして「社会的な役回りを演じる」という選択しかなかったのである。編集者が私の絵について言ったこと、より正確には、編集者が訂正したところを、私は実行し、彼らの言わんとするところを「聞きとろう」とした。その結果私は、すぐに「編集者の視点」を身につけ、モスクワの児童出版社で仕事を続けていた一九五七年から一九八七年までの約三〇年間、うまく自分を統制できたのである。
すなわち、ここで言ったことを要約すれば、これらすべての本の挿絵を描いたのは、「私」ではなく「彼」だったのである。たとえ、「彼」が私の手で描いていたとしても。
(訳:鴻野わか菜)
武: トータルインスタレーションとして展覧会を眺めてみると「ソ連」という国家そのものが物語性として浮かび上がってくる。すげー、って思った。
山: ソ連での仕事を見せた訳やから、カバコフがソ連を浮かび上がらせる見せ方を選ぶのは、当然と言えば当然やろな。カバコフってそういう考え方が徹底している。思考方法というか。
武: それ以外考えてないというか……。でも思考法そのものに世界観を感じる。これは、社会主義国民だったからなのか? と思いを巡らしちゃう。日本人はいわゆる「西側」としてものごとを捉えちゃったりしてるわけで。
山: だいたい30年もソ連で挿絵画家やっててそれできっちり喰えてて、それを冒頭文で「『私』ではなく『彼』だったのである」なんて胸張って言えるんは、今やから言える訳でね。
武: これは、グッと来ちゃう言葉なんだけどね。現代美術作家としてひとつの展示をこしらえるためのクリエイトだとも思ったよ。
山: 僕がおもろいなーって思ったのは、こんだけ職人仕事をしていてそれと同時にそういった考え方とはまるで別の芸術としての仕事を行っていた、という事実がすごいな、と。
武: すごいね。
山: よくおかしくならへんかったな。
武: どっかでゲシュタルト崩壊してるよね、自分の国に対して。根本的な疑いをいつからか本気で持ち始めてた。20代はノリノリだけど。
山: 同じようなことを考えていた人たちが周りにもいたんやな。
武: 独りじゃなかったってとこが重要だよね。非公認芸術活動だっけ? 仲間が居た訳じゃん。で、その時に作品を見にくる人はわずか数人だったとか。
山: そうらしいな。おおっぴらにできないからそうならざるを得ないんやろうな。
武: たった数人の共感者と、数少ない共同制作者。
山: ある意味すごく幸せな時間だ。
武: カバコフの生の営みの最大モチベーションを支えたのは共同芸術家数名、共感者数名。
●社会主義の敗北
山: ま、ソ連の中では成功者ですけどね。
武: そこ重要(笑)。なんだかんだでカバコフは超エリート。
山: 実際そうじゃないと、分裂した状況をずっと生きて行くことなんて難しいやろうね。だから「非公認芸術活動」家の中にはまったく違う派もあったらしい。もっと反体制的な、わかりやすくアングラな。
武: アメリカなんかに移住しないでソ連が崩壊してさらに貧乏になってる、みたいな(笑)。
山: 「反エスタブリッシュメントの中でのエスタブリッシュメント」と言われたリアノゾヴォ派だとか、いろいろあったみたいやね。
武: むずい。
山: ようは反権威の中での権威ってことみたい。
武: 革マルと中核と赤軍の殴り合いのけんかみたいなんかね。ソ連っていう社会主義国は結局エリート主義だったわけで、カバコフはそこでエリート社会主義者として生きて、成功主義アメリカに移住して成功者してるっていう絶妙に素晴らしいポジションなんだよね。「社会主義の敗北」をメタファーとする「カバコフの物言い」は非社会主義国にとって非常に都合が良くなるワケだし。
山: ふむ。だから容易に取り込み易いわな。
武: 「社会主義は敗北した」という物語をみんなで共有出来る。「社会主義の敗北」って西側にしたら心地良いんだろうし。
山: そういうことはありそうやね。
武: けどさ、どうにもソ連時代の若い頃の挿絵はノリノリで社会主義なんだよね、カバコフ。
山: 周りもそうやしそうなるんやろね。けどユダヤ人としての迫害もいろいろあったみたいやで。
武: あー、ユダヤ人っていうところが入り組んじゃうね。複雑に。だから、展示の6・「オーシャと友達」はなんか特別な感じがした。
山: だからわざわざ区分けしたんやろうしね。
武: そうそう。ソ連とはまた別の物語、って。でね、なんかさ、この展示を観て社会主義ってむしろ身近に感じた。日本自体が社会主義的ってのかな。
山: ほう。なんで。
武: だってさ、フツーに日本でもイラストやデザインの仕事だと、「国家の検閲」じゃなくて、「クライアントのダメだし」がある訳じゃん。
山: それはどこでもあるやろ(笑)。
武: それはさ、「企業の都合」か「イデオロギー的に良質か」ってだけの違いでしょ。どっちにせよ作り手のこだわりとは無関係だったりするじゃん。
山: そりゃそうやけど社会主義ではないからね。
武: でさ、作り手は「企業の都合」のためでも「イデオロギー的に良質か」でもなくってさ、自分が想像したものを作りたくってさ、それが、誰かの共感を得たら最高に嬉しい。ってだけじゃないですか。
山: まあね。でも誰かの介入をただ否定したってしょうがないんとちゃうか。そこにどれだけ自分の考えを盛り込めるか、とかいろいろ方法はあるやろし。
武: きっとカバコフはソ連時代でそれをたっぷり学んだよ。
山: すべて頭ごなしにやられるとやってられんやろうけど。
●労働とは
武: 懐かしい感じを覚えつつ見始めたんですが、いろいろ思うんですよ。職業にまつわる絵本があるじゃないですか、『チーマはおうちにいます』とか。
山: はい。
武: 大阪のキッズプラザに行ったんですけどね、いろんな職業を体験するコーナーがあるんですよ。たこ焼き屋さんとか声優とかTVキャスターとか配管工とか。それって、社会主義の絵本『チーマはおうちにいます』と同じじゃん。
山: そういうアミューズメントあるな。キッザニア。
< http://www.kidzania.jp/
>
武: キッズプラザには芸術家がないんだよな。
山: 職業やないからちゃうか。
武: おかしくね?
山: おかしくないんとちゃう。
武: 「こういった社会そのものを否定する人たちも居ます」というキャプションで芸術家コーナーつくらないと。
山: だから職業とちゃうねんからしょうがないやん(笑)。だってそうなると「テロリスト」とか作らなあかん(笑)。
武: いーねー! 「詐欺師」とか。
山: あと「宗教家」とか。
武: それから「無職」とか。あ、子供って無職か。ってかさ、子供に「教育的に与える本」なんて、資本主義だろーが社会主義だろーが同じだよって思った。
山: 要は人間働かなくてはならない、という価値観を教えている訳やね。
武: 俺だって働いてる! 絵を描いて本を作ってる!
山: まあそれは子供が「僕だって学校に行って勉強してるからええやんか!」って言ってるようなもんで。
武: 「俺は学校行きたくない! 勉強もしたくない! 好きなことしたい!」
山: すればええやん。全然問題ない。
武: その場合、社会は受け皿になってくれないことがままある。
山: だいたい社会にそういう期待をしてる時点でおかしいと思うんやけどね。僕は。
武: 「このように従いなさい」に従うとメッチャ受け皿がある。展示の子供用絵本もキッズプラザも、要は「この仕組みに従いなさい」ってことなんだ。
山: 教育の基本はそういうことやろね。
武: その先には素晴らしい未来が待っている、と。
山: それはわからんけどね。
武: で、ソ連は崩壊しちゃう(笑)。同じようなことはきっとどこでもある。
山: 各家庭であるんじゃーないでしょうか(笑)。
武: はい、さようでございます。家が崩壊するって国家が崩壊することと同義だよな。
山: 通じるな。
武: 高らかな理想を打ち立ててしまったほど、崩壊はダイナミックだ。
山: ダメージはでかい。
武: 生きてらんないくらいだ。-----------------------------------つづく
●明日あたりに続きを掲載する予定です(柴田)

- Ilya Kabakov, 1969-1998
- Amei Wallach Amada Cruz
- Edith C Blum Art Inst 2001-07-15
by G-Tools , 2007/10/17