羽化の作法[114]現在編 「オプティミストはなぜ成功するのか」をまとめてみた
── 武 盾一郎 ──

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こんにちは。今回のデジクリは、最近読んだ本の中から「メモしよう」と思った『オプティミストはなぜ成功するのか/マーティン・セリグマン』を紹介します。
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どうせレビュー書くなら、「時間は存在しない/カルロ・ロヴェッリ」とかの方が頭良さそうなのですが、自分にとって意外でもあったり、また、ここのところ、「真面目で才能があって良い人だと評判の有名人」がたて続けに自死される痛ましいニュースが飛び込んできたりと、絶望に引っ張られそうになることもあるのですが、そんな気持ちを助けてくれる思考法なので、シェアしたいと思った次第です。

まあ、20年前は「ポジティブシンキング? くっだらねえ!」って言ってた私なんですけどね(笑)

この本の答えはシンプルです。「楽観主義になりなさい」です。そして楽観主義になるにはどうしたらよいかというと、悪いこと(良いこと)が起こった時に発する「言葉」(他者に対しても自己対話でも)を変える、ということなんです。この言葉を「説明スタイル」と、この本では名付けています。

この「説明スタイル」が「楽観的」なのか「悲観的」なのかを判定することによって、「楽観主義者(オプティミスト)」か「悲観主義者(ペシミスト)」なのかが分かります。

「説明スタイル」には三つのパラメータがあって、それは「永続性」「普遍性」「個人度」です。これらの要素を「楽観的説明スタイル」に変える。やることはこれだけです! では具体的に説明して行きましょう。





●永続性

〈悪いことが起こった時〉

“悪いことを〝いつも〟とか〝決して〟という言葉で考えて、いつまでも続くと思っている人は永続的、悲観的な説明スタイルの人だ。〝ときどき〟とか、〝最近〟という言葉で考えて、状況を限定し、悪いことは一過性の状態であると思っている人は楽観的説明スタイルの人だ。”(本文より)

まず、悪いことがあなたに起こったとしましょう。その時になんと言うか(思うか)想像してみてください。そこに永続性があるかないかで、楽観的か悲観的かが分かります。永続的だと悲観的で、一時的だと楽観的なのです。

例1)
「私はもう立ち直れない」→ 永続的なので悲観的
「私は疲れている」→ 一時的なので楽観的

例2)
「ダイエットは決してうまくいかない」→ 永続的なので悲観的
「ダイエットは外食するとうまくいかない」→ 一時的なので楽観的

例3)
「君はいつもがみがみ言う」→ 永続的なので悲観的
「君は私が部屋を片付けないとがみがみ言う」→ 一時的なので楽観的

例4)
「上司は嫌なやつだ」→ 永続的なので悲観的
「上司は虫の居所が悪い」→ 一時的なので楽観的

例5)
「君は口をきいてくれない」→ 永続的なので悲観的
「君は最近口をきいてくれない」→ 一時的なので楽観的
(例は本文から)

どうですか? 悪いことが起こった時、「そんなの当たり前」と永続的に捉えることによって、悪い事へのショックを減らそうとしてきたので、かなりビックリしました。自分は楽観主義者だと思い込んでいたけど、それだと悲観的説明スタイルなんです。

〈良いことが起こった時〉

“楽観的な人々は良い出来事を特性、能力、〝いつも〟、というような永続的な理由で説明する。ペシミストは状況、努力、ときどき、のような一時的な理由を挙げる。(本文より)”

次に、逆に良いことが起こった時を想像してみましょう。今度は説明スタイルが一時的だと悲観的で、永続的だと楽観的になってひっくり返ります。

例1)
「今日はついている」→ 一時的なので悲観的
「私はいつもついている」→ 永続的なので楽観的

例2)
「私は努力する」→ 一時的なので悲観的
「私は才能がある」→ 永続的なので楽観的

例3)
「競争相手は疲れたんだ」→ 一時的なので悲観的
「競争相手は能力がない」→ 永続的なので楽観的

どうです? ええーっ!?って思いませんでしたか? 良いことが起きたら、より一層有り難いと感じるように「たまたま」だと思ってきませんでしたか?

「私はたまたま運が良かったんだ、ありがたいありがたい」と。そう思うことは「謙虚さ」であり「道徳的」でもあるとさえ思ってきましたので、これも結構ビックリしました。

「私はずっと運が良い! そして当然これからもずっと運が良い!」なんて思ったとしたら、ホント馬鹿っぽいし図々しいヤツだって思ってしまいます。

どうもこれはけっこう根深い問題だと感じます。

●普遍性

〈悪いことが起こった時〉

“自分の失敗に対して普遍的な説明をつける人は、ある一つの分野で挫折すると、すべてをあきらめてしまう。特定の説明をする人は、人生のその分野では無力になるかもしれないが、ほかの分野ではしっかりと歩み続ける。(本文より)”

今度は自分の出来事に対して「普遍性」をどう扱っているかって話です。
悪いことが起こった時、それが普遍的説明スタイルだと悲観的で、特定されていると楽観的な説明スタイルとなります。例文を見てみましょう。

例1)
「先生は皆不公平だ」→ 普遍的なので悲観的
「セリグマン教授は不公平だ」→ 特定されているので楽観的

例2)
「不愉快だ」→ 普遍的なので悲観的
「彼は不愉快なやつだ」→ 特定されているので楽観的

例3)
「本は役に立たない」→ 普遍的なので悲観的
「この本は役に立たない」→ 特定されているので楽観的

どうですか? これ、思い当たりますよね。イタタタ。
普遍性における悲観的説明スタイルとは「過度の一般化」と言い換えても良いでしょうね。

悪いことに対して「雑な思考」をするとこうなりますよね。でもこれは、気を付けることによって簡単に直せそうです。
それに悪いことが起こった場合、特定できれば改善できるので、合理性があって納得感もあります。

〈良いことが起こった時〉

“オプティミストは悪い出来事には特定の原因があると考え、一方で良い出来事は自分のやることすべてに有利な影響を与えると信じる。ペシミストは悪い出来事には普遍的な原因があり、良い出来事は特定の原因で起きると考える。(本文より)”

さて次は、良いことが起こった時の説明スタイルの普遍性を想像しましょう。前と同じように逆になるのです。良いことが起こった時、説明スタイルが特定されていると悲観的で、普遍的だと楽観的になります。

例1)
「私は数学がよくできる」→ 特定されているので悲観的
「私はよくできる」→ 普遍的なので楽観的

例2)
「私の仲買人は石油株を知っている」→ 特定されているので悲観的
「私の仲買人はウォール街を知っている」→ 普遍的なので楽観的

例3)
「私は彼女に受けが良かった」→ 特定されているので悲観的
「私は受けが良かった」→ 普遍的なので楽観的

どうでしょう? 分からなくはないけど、なんとなく馬鹿っぽい感じしません?(笑)

良いことが起きたら「それは普遍的なんだ!」とざっくりまるっとアバウトに捉える方が良いというのは意外でした。例えば、人を褒める時って良いところを具体的にピックアップした方が良かったりしそうな気がしません? 「今日のその帽子軽やかで良いね」とか。

だけど、よく考えてみるとその人の存在を丸ごと肯定した方が、もっと良い感じはします。小松政夫の「あんたはエライっ!」と雑に褒めるギャグこそ、「楽観主義」なのかも知れませんね。

●個人度

〈悪いことが起こった時〉

“悪いことが起こったとき、私たちは自分を責める(内向的)か、ほかの人や状況を責める(外向的)。
失敗したときに自分を責める人は結果的に自分を低く評価することになる。
自分は価値も才能もなく、誰にも愛されない人間だと思う。
外的な要因を責める人は悪いことが起こっても自尊心を失わない。
一般的にこのような人々は、自分を責める人々よりも自分のことが好きである。
低い自己評価は普通悪いことが起きたときに内向的説明をすることによって起きる。(本文より)”

最後の要素「個人度」についてです。
悪いことが起こった時、あなたは自分を責めますか? いやあ、普通自分を責めちゃいますよねえ。
道徳的かどうかはさて置いて、楽観主義か悲観主義かをジャッジするならそれは悲観主義的なのです。

例1)
「私はばかだ」→ 内向的なので低い自尊心
「お前はばかだ」→ 外向的なので高い自尊心

例2)
「私にはポーカーの才能がない」→ 内向的なので低い自尊心
「私はポーカーでついていない」→ 外向的なので高い自尊心

例3)
「私は安定性に欠ける人間だ」→ 内向的なので低い自尊心
「私は貧乏な境遇で育った」→ 外向的なので高い自尊心

これ、言葉の選び方によっては「人としてどうよ?」って思ってしまいそうなところあります。

ただ、自分の状況が思うように行かず「生きづらさ」に苦しんでいる時、その原因が社会や政治の構造の問題であることを聞いて、パーッと自尊心が回復することは誰でも思い当たったことだと思います。

パンクのように社会や政治に対して中指を突き立てるのは、「自尊心を守る楽観的」な行為だと言えそうです。

自己責任で自助を強いる政府のベクトルは、国民を悲観主義に向かわせてしまう。それは政府の狙いなのかは分かりませんが、今、「生きづらい」と苦しんでいるのなら、それは自分のせいだと思わないことです。

しかし「なんでも人のせいにする」のは、とても嫌われる言動です。ここが難しいところですよね。

「良い人」「優しい人」は往々にして悪いことが起こったら自分のせいにします。「責任感が強い」という良い言葉もあります。

しかし、そういった優しくて良い人が自殺してしまうことは、この本の内容とピッタリ合致できてしまいます。また、「なんでも他人のせいにできちゃう元気はつらつな人」って思い当たりませんか? そういうこともこの本の内容と合致します。

これはなんだか理不尽に感じるのですが、どうも人間はそうできてるのです。コロナ禍の現代、この「悪い出来事への内向性(外向性)」って重要課題だと思います。

〈良いことが起こった時〉

さて次に、良いことが起こった時です。これも今までのパターンと同じで逆になります。良いことが起きた時に外向的に説明するのは悲観的で、内向的に説明するのが楽観的となります。

例1)
「偶然幸運にめぐまれた」→ 外向的なので悲観的
「私は幸運を逃さない」→ 内向的なので楽観的

例2)
「チームメートの技がさえていた……」→ 外向的なので悲観的
「私の技がさえていた……」→ 内向的なので楽観的

どうです? これもやっぱり納得行かないモノを感じますよね。

良いことが起きたら「何もかも皆様のおかげです」と言った(思った)方が良いと、少なくともその方が美しいと私は信じ切っていました。これは謙虚さを美徳とする我々(日本)の道徳観とは正反対ですよね。

おそらくこの極東の群島の人々は悲観主義によって社会秩序を保ってきたんだと思います。悲観的な風土、そしてそれを美しいとする文化が継承されてきたんだと思います。

ただ、私は知っています。例えば、特にスポーツで昔からずっと感じてたこと。

オリンピックなんかで世界と競う時、日本人もとっても素晴らしい選手なのに、最後のところで負けてしまう印象ってすごく強くありませんでしたか?

その時によく聞くことに「外国人はスポーツを楽しんで強くなるが、日本人は苦しんで強くなる」と。この悲観主義的風土文化がグローバルの舞台ではネガティブな結果を生んでしまうってことを。

勝ちゃあ良いのか? とか、そもそもオリンピックって必要? とか、グローバルってどうよ? とか、いろいろ含めて考えてしまうところはあるので難しいのですが、ここは「楽観主義」を軸に考えることにします。

しかし、この楽観主義を軸に考えることだけでも現代の問題って少し浮き彫りになってきますよね。
少なくとも自分が悲観主義者であったと思い知ったわけです。
いやあ、伸びしろ満載です!

●希望と絶望

“不幸な出来事に一時的で特定の原因を見つけるのは希望のなせる業だ。原因が一時的であると考えることによって、無力状態を時間的に制限できるし、特定の原因によるものと思えば、無力さをその状況のときだけに限定できる。反対に、永続的な原因だとみなせばずっと将来にまで無力状態は続き、普遍的な原因だと思えば何をやってもだめだということになる。不運な出来事に永続的で普遍的な原因を見つけるのは絶望のもとだ。(本文より)”

さて最後に、これを「希望」と「絶望」という言葉に置き換えて例文を見てみましょう。

例1)
「私はばかだ」→ 希望がない
「私は二日酔いだ」→ 大いに希望がある

例2)
「男は暴君だ」→ 希望がない
「夫は虫の居所が悪かった」→ 大いに希望がある

例3)
「このしこりがガンである確率は五割だ」→ 希望がない
「このしこりがなんでもない確率は五割だ」→ 大いに希望がある

悪いことが起きても「説明スタイル」が楽観的であれば、大いに希望があるということです。別に過去をほじくり返さなくても良いんです。

これを読んで、自分は楽観主義者だと確認できたら、それは喜ばしいことだし、悲観主義者だと分かったら、これから良くなっていくしかないわけだからそれも喜ばしい。私には伸びしろがたっぷりあるので楽しみです!

以上、『オプティミストはなぜ成功するのか』まとめでした。最後までお読みいただき有り難うございました。

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