武&山根の展覧会レビュー 見えないものをどう捉えるか?──【生誕100年記念瑛九展】を観て
── 武盾一郎&山根康弘 ──

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山:こんばんは〜。いやーすみません、つい寝てしまってまして。

武:「秋の夜 待ちくたびれて 俺ねもい」

山:僕は眠くない。なぜなら寝てたから。

武:酒呑んでごまかすか。。


山:あ、家に酒が何もない! 買ってこよかな。

武:じゃあ酒呑まないでチャットしよう! 今回デジクリチャット史上初のシラフでチャットというのはどうだろう?

山:史上初じゃないんとちゃうの。いや、僕は絶対呑んでたか...。

武:すげえ早く終わるかもよw


山:それは有り得る! でもなあ。なんかつまらんな。武さんは呑まなくてもいいけどさあ。

武:わかったよw 酒買ってきなさいw

山:わはは。ではちょいと行ってきます。

武:ほいな。


山:お待たせしました! さー、やっぱり呑まんと始まらんな〜。

武:すげえねみぃ。

山:じゃあさっさとやって早く寝ましょう!

武:今回はですね、俺たちゆかりの地「浦和」に行って参りました!

山:仕事などではちょくちょく行ってますが、武さんと浦和で呑むのは何年ぶりでしょうねえ。


武:そういえば何年ぶりだろう?「力< http://www.ri-ki.co.jp/
>」で呑んで以来か。あれはいつだ?

山:いつ力で呑んだっけ? ほんまに呑んだんかいな。

武:呑んだよ! カウンターで。千枚刺しを喰った事だけ覚えてる。

山:あー、なんかあったような気がするな。相当前やな。


武:『検索は思考を欠いてるのか? ──【これは本ではない ─ブック・アートの広がり】を観て』
< https://bn.dgcr.com/archives/20110119140200.html
>

山:なんやねん、今年の頭かいな。ぜんぜん久しぶりとちゃうやんww

武:随分と昔に感じるなあ!

山:思い出した! この日はたらふく呑んで、京浜東北線に乗って、起きたら磯子だった日や!

武:わはは! ひどすぎwww


山:大変やったがな。金はないし、終電で磯子に着いてしまったし。結局タクシーで帰った。

武:しょもないのう。。

山:それで済んでるからいいんです。

武:命を落としてないのが奇蹟だなw


山:いやー最近ほんまね、色んなことがありすぎてね、変わったおっさんやなーと感心しますよw

武:そうだな。

山:そんな話はええねん!

武:瑛九ですね。わかります。


●【生誕100年記念瑛九展/埼玉県近代美術館、うらわ美術館】




山:そうなんです。で、今回は美術館をふたつまわりました。
【生誕100年記念 瑛九展】です!
埼玉県近代美術館 < http://www.momas.jp/3.htm
>
うらわ美術館 < http://www.uam.urawa.saitama.jp/tenran.htm
>


武:そうですね。北浦和の埼玉近代美術館行ってから、歩いて浦和駅近くのうらわ美術館に行きました。川越画廊でも瑛九やってたのか
『瑛九と仲間たち』展< http://www.kawag.net/
> 埼玉総動員w

山:すごいねー。

武:とはいうものの、瑛九をきちんと観たのは初めてなんですわ。

山:あれ、そうなんや。僕もまとめてこんなに観たのは初めてやけど。


武:うん。イマイチつかみ所の分らない人ってイメージあったな。今回観て「あー、そうなのかあ。」て妙に納得いった。

山:確かにいろんなことやってるからねえ。

武:いろいろ分っちゃったよ、もう。

山:なにが。


武:俺、瑛九の生まれ変わりだった。思い出したよ。前世を。今回は「武盾一郎、前世への旅。瑛九篇」だなw

山:わはは! どんな方向やねん。瑛九のwikipediaね。
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9B%E4%B9%9D
>


武:瑛九が亡くなるのが1960年、俺に産まれ変わるのが1968年。その8年に何があったかかが今回のポイントだな。

山:なんのポイントやねん! 瑛九の出身は宮崎県なんですね。(wikipediaでは)日本美術学校卒業とありますね。僕が勤めさせてもらっていた児童絵画教室です。日本美術学校は学校はなくなってその後、幼稚園になった。で、そこの絵画教室に勤務してたんです。3年ぐらい。


武:へえ! そう言えば子どもに教えてたよね、瑛九。

山:宮崎時代みたいやけどね。

武:子どもっぽさの追求があるんだよな、瑛九。素朴で活き活きとしたつたなさってのかな。分る、俺もそう。生まれ変わりだ。


山:1951年から没するまでの9年間、浦和に住んで制作した、と。早死ですね。48歳。

武:瑛九は晩年、特に1957年以降の絵画作品が好き。浦和で描いてる。

山:最晩年か。戦中、戦後と、浦和は画家が多く住んでいた。そんなのとも関係があるんやろうね。

武:それ以前は晩年3年の為の練習のようなものだなあって思う。


山:なるほど。ではどんな感じで話して行きましょか。

武:そうですねえ。今回初めて瑛九をじっくり観たんですけど、ざっくりと瑛九をおさえるポイントは、
 1)エスペラント語、デモクラート、共産党に観る思想背景。
 2)フォト・デッサン、東洋思想、そして点描への制作出力遷移。
 3)痩せ過ぎで徴兵されないくらいのド近眼で呑んだくれというダメな身体。

  もうなんだか、凄く俺っぽいww エスペラント語も共産党も俺は知らないけど、要するに「自由と平等のユートピア」を大真面目に夢見た理想主義者なんだろうな。こっ恥ずかしいけどすんごいよく分かるw やっぱり生まれ変わりだ。


山:ちょっとトイレ。

武:おい! 聞いてんのか!?

山:え、何? 呑んだくれやったって?

武:『ほろよい(よいどれ心理)』1937、というガラスに描いた油彩の解説で、夜な夜な酒を求めて街に出てた、的なことが書いてあった。


山:ああ、うらわ美術館の方にあったな。こんなの見つけた。「こんなに素晴らしい絵をなぜ分からない? 秀夫(瑛九の本名)は悩み、酒を飲むことが多くなります。昭和8年の冬、22歳でした。」やとw


武:わはは、その気持ちは分るよw フォト・デッサンが割と多く展示されてたけど、あれって要するにイメージ遊びなんだろうな。素材との対話ではないんすよね、物質にこだわってるわけではない、フェティッシュではない。そういうところも俺だよw フォトショップがあればさくさく遊べる。そういう感じ。

山:イメージの創造なんやろうけど、版画に近い感覚なんかな。
< http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/hisho/jaja/11_senjin.html
>


武:潜在意識的な心象風景というかね。シュールレアリスムの影響は当然あると思う。

山:版画作品も多く展示されてたけど、僕は版画が一番好きですね。正直、色
  彩の画家ではない気がするので。


武:線面白いすねえ。けど、最晩年は点描に集中するんだよね。制作時間がかかるところに何か納得を求めたような気がしてね。割とはやくエッチングが仕上がりそうな線数じゃないですか。

山:まあね。あまり大きなものもないしね。点を筆で打つ、というのは作業として考えれば「繰り返し」やね。同じ作業の。


武:そうですね、ミニマル・ミュージック的なね。そして瑛九は大きい作品を描きたかった。絵に包まれる感覚を味わわせたかったんだろうね。

山:大きい作品を壁の3方なり4方なりに飾って、真ん中に座ってぼーっとしてると、絵の中に包まれた感じになるよな。トリップ感。


武:そうそう。それ俺もずっと求めてた「感じ」なんだよね。

山:それがまた、同じようなリズムの絵であればなおさらやろうね。

武:東洋的トリップ感。「物質」より「作業」にこだわるんだよな。もう、瑛九って俺じゃん!

山:さっきから俺、俺、ってうるさいねんw


武:横顔似てるしw
< http://www2.dokidoki.ne.jp/bellrose/museum/part9/part9.html
>

山:まあ確かにね、ほんまに似てたりするけど。顔は似てる、意外と病弱、思想的にも似てる、そして、そっくりな絵もあったなあ。武さんが昔描いた絵かと思ったよw

武:俺も思ったw


山:武さんの昔の作品あそこに混ぜてても誰もわからんのとちゃうか。

武:わはは。あり得る。

山:ほんまに生まれ変わりなんかなw

武:だから俺は瑛九の点描のそのまた向こうを描いてるんさよ。

山:なんすか「そのまた向こう」って。


武:瑛九は48歳で死ぬつもりはなかっただろう。まだまだやり残したことがあったに違いない。それを俺がやってるんさよ。いったん瑛九の道程を踏まえながら。

山:すごい背負い方しますねw


武:晩年の1957年ようやく瑛九は経済的精神的に安定する、と書いてあった。瑛九の「絵」になるのはちょうどその頃からなんだよね。

山:点描絵画に集約されていくんやな。

武:いろいろあっちゃこっちゃ運動もしてたけどやらなくなる。そういう変遷もなんだか分るなあ、というか俺と同じじゃん!


山:引用......
「画商やコレクターなどではなく、普通の人たちが画家の制作活動を支えた『福井瑛九会』。その会員たちを最初に引きつけたもの。それは、瑛九の絵の魅力ではありませんでした。」
  絵の魅力じゃなかったんか!

「その人柄に惚れていたということだと思いますけどね、ええ、絵は正直なところ、あの、来る絵、来る絵、みんなね、まぁ、こう内心、あれあれっとこう思うようなこと、多かったですよ、正直なこと言いますと(笑)」

「瑛九さんていう人物のね、そういう持ってる魅力っていうのか、そういうものの方に、先にひかれたんですね、で、だんだんだんだん、その絵を見てるうちにね、それが、ああそうか、ああそうか、と」

武:ああ、俺じゃんwww そうか「上尾武会」というのを作る必要があるのか。


山:
「僕は啓蒙家で、絵画の周囲をぐるぐるまわっていて画家だと思っていたのです。懐疑と躊躇に充ちた啓蒙家だったのです。こういう自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています」


武:啓蒙家ではないけど分るなあその気持ち。ずっと絵にダイブするイメージで描いてるからね。

山:なんなんやろねえ、武さんとの親和性はw

武:生まれ変わりなんだよ、やっぱww


山:さっきからの引用元はこのサイト。
< http://www3.ocn.ne.jp/%7Eizumatsu//eiq.htm
>
  でも武さんは、人ににここまで言わせるぐらいの人間性を作って下さいwww 今のままやと「めんどくさい人だったね〜」で終わるぞww


●瑛九の色彩


武:瑛九は色彩の画家か? という問いはあるよね。

山:僕は違うと思うけど。

武:うん。俺もそうだな。音楽に例えるなら、ミニマル・ミュージックってメロディラインで聴かせるものではないじゃないですか。

山:はい。


武:パウル・クレーはメロディが聴こえてくるよね。色彩はメロディ。

山:そうやねえ。

武:反復音楽をずっと聴いてるうちにふわーっと意識が消えてくその時の色彩ってのは確かにあるんだけどね。

山:ん? どういう意味だ。


武:瑛九の晩年の絵は反復音楽のトリップに近いものだとして、そういう音楽を聴いてトリップして行く時って色彩がフワッ〜て沸き上がってイメージされるじゃん、ということ。

山:それはあるかも知れないけど、そういう時の色って、何色、とかでもないよね。特定し切れない色、というか。


武:うん。あの捉えようのない色彩感覚を描こうとすると、瑛九の色彩になるのかなあ、と考えてみる事は可能かも。

山:そうなんかな。

武:点が大きい時の色はいい感じだなあと思うんですよ。いわゆる素敵な色。例えば
『水溜り』1957
< http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk0305g/tk0305.html#105
>
『花』1956
< http://www.momas.jp/003kikaku/k1999/k1999-08/k199908.htm
>


山:いやあ、僕は嫌やなww 響きが悪い、という印象。

武:点がちっちゃくなってくと色彩は綺麗とは言えなくなるよね。
『ブーケ(花束)』1959
< http://art-random.main.jp/samescale/048-2.html#eikyu
>
『つばさ』1959
< http://www.gallerysugie.com/mtdocs/artlog/archives/000148.html
>


山:いやいや、だんぜんこっちの方が美しい。

武:配置された色彩ではなくて手数を重ねた色じゃないですか。

山:うーん、手数とかそう言う問題ではないような気がするけど。

武:色彩をコントロールはできてないよね。


山:1957年の作品の方がコントロール出来てないと思うけど。頭で描いてる感じ。青を、「青です!」って描いてる。

武:ずっと頭で作品作ってきた人だと思うよ。で、最晩年1957年あたりからそうではなくなるというか。

山:そんな印象やね。だから、最晩年の点描の方が、まだわかる。


武:膨大なルーチンワークが頭・意識を凌駕したんだよ、きっと。

山:そうやな。でもそもそも色彩センスはないと思うねんけど。

武:点々を重ね過ぎた事に依る色彩であって、色彩をスパンとはめ込んで行くいわゆるデザインされた色彩ではないよね。


●瑛九のデザイン


山:ただ、デザインセンスは感じるけど。フォト・デッサンや版画に、特に。構図センスというか。

武:けどデザインの仕事じゃ満足しなかったんだよ。なんかこうコントロールするんじゃなくて、絵の中に入りたかったんだよ。わかるなあ。。。


山:フォト・デッサンにしても版画にしても、自分の手を一旦離れるんですね。自らの手作業を重視しながらも、機械を通すことによって。自分を超えた偶然性を手に入れることが出来る。それを平面に定着出来るんやな。しかもフラットに。これは気持ちがいい。

武:まあシュールの手法っちゃあそうだけど。


山:エッチングなんかはドローイングに近いねんけど、出来上がりは手作業の痕跡がすべてフラットに出てくる、という点で、自分を超えることが出来る。版画ってそういうもんやけど。

武:反転するしね。

山:これはパソコンで行なう画像処理とちょっと違う。パソコンの場合、もう画面上で、出力されたものと同じなんよな。


武:版画は出力そのものが作品だけど、パソコン画の場合はプリント出力って「ついで」だもんね。モニタでいいわけだから。

山:用途にもよるんやろうけどw 物質化するかしないか。

武:瑛九のフォト・デッサンってパソコンワークな感じするんだよな。

山:確かにフォト・デッサンはそう言えるとこあるな。イメージの創造が主軸なんだろうし。

武:そうそう。


山:瑛九が今生きてたら、大喜びやろうなあ。まあそんな人いっぱいいるやろうけど。当たり前か。

武:そんな感じするw ネット大好き人間になるよ瑛九はw けど、シコシコと時間のかかる絵をやっぱり描きたくなる、と。ボールペンとかで。

山:武さんやん。

武:でしょw


●これからのビジュアルアーツ:見えないもの


山:じゃあ、これからのビジュアルアーツ。答え出るかは知らんがw

武:「瑛九の絵はむづかしい
   それは
   湯川秀樹の中間子理論が
   むづかしいようにむづかしい

   瑛九の絵はたのしい
   それは
   五才の子供の絵が
   たのしいようにたのしい」
< http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?catid=408&blogid=16&page=2
>

  瑛九の絵もそうだったように量子力学とどう向き合うかってテーマのひとつだよね。五感で察知できないものをどう扱うか。

山:いきなり飛び過ぎのような気もするけど。まあええか。


武:量子力学は宇宙の謎を解明する可能性を秘めた分野でもあるけど、実生活では放射能を今なお漏らし続けてる原発とも関係してる。このことを考えずにはいられない。

山:ふむ。放射能は見えない、感じないからねえ。


武:ニュートン力学までは感性の世界なんですよ。感受性では拾えない量子力学的問題を俺(たち)は普段の生活で浴びている。

山:ふむ。

武:そうすると必要なのは何か? 想像力か? 論理的思考か? 超能力か?第六感か?


山:そうねえ、、、何を信じるか、ということなんかなあ。信じられないことが今年はやたらと起こるからね。おかしなるよ。

武:量子力学的に言ってみたら壁に体当たりしてたらいつかはすり抜ける可能性があるわけで。または平行世界がフツーに存在しちゃうわけで。


山:でもそれらを3次元で生きている自分たちが、平凡な頭の論理的思考で辿り着くことは難しいよな。

武:もし5次元とか11次元がすぐ隣に存在しててもこの身体では行けないから残念だよな。

山:出来るらしいで...

武:あれ、そうだっけ?w

〈直感〉


山:いや、知らんけどw 見えないものをどう扱うかは、何を信じるかってことだと思うんだよね。

武:「大切なものは、目に見えない」星の王子さま/サン=テグジュペリ。人間は目に見えないものに対して特別な想いがあるんだよな。量子力学以前の時代にしても。


山:見えないものが存在してる、って直感があるわけやん。

武:そうね。

山:そっから考える。今はそれがもう現実として降り掛かってきているわけやし。だって見えないものがあるねんからw


武:それは自分よりも遥かに強大である現実。

山:そうね。自分は与り知らないもの。

武:そういう直感って自然への畏怖だったりするよね。

山:まさしく。そっから入れると思うねんけどな。


武:けど、自然てのは基本的には五感で受け止める事は出来る。原発の放射能は五感では分らない。

山:直感を徹底的に信じること、とか。そっから考える。

武:直感を徹底的に信じてみたら放射線被害から身を守れるか?


山:守れない。守れなくても良いんちゃうか、きっと。それを受け入れちゃう。で、どうするか、ってことだと思う。結局の所、生きるということはそういうことの繰り返しだと思う。どうしようもないことをどう受け入れるか。そこから、、少なくとも個人の幸福は生まれると思うんねんけどね。

武:降り注ぐ放射性物質を受け入れて幸福になるんかなあ?


山:なると思うよ。なれる、と言った方がいいのか。なれない人はなれない。なる必要があるのかどうかもわからないけど。

武:どうでもいいことじゃないし、防衛手段があんまりないし。。

山:槍が降ってこようが放射能であろうが富士山の噴火であろうが宇宙人であろうが霊であろうが、もうたいしてかわらないww でも今生きてるから、感謝。


武:宇宙人と霊には期待したいがねw「目に見えないものが素敵なもの」だと思い込み過ぎてるんだよな。

山:なるほど。

武:「目に見えないものは人智を超えた恐いもの」でもあるわけで。

〈恐怖〉


山:生きて行くことで最も重要なことの一つは、恐怖をどう扱うか、ってことやとも思うねんけどな。

武:そうねえ。あるねえ。

山:そことの戦いは、どんな生き方をしていても必ずあるし。金もってるから恐怖がなくなるか、ってそんなわけないしw


武:恐怖は感じた方がいいよ、生存本能だし。

山:恐怖を味わい尽くして、そこでしっかりしていられるか、とか。まあ絶対死ぬやん、ってとこから始まってるけどね。僕は。メメントモリ。

武:恐怖と快楽ってなんか若干繋がってない? どっちもなんか似たような物質が分泌されてるんじゃね? ジェットコースターか。


山:どのような恐怖でどう感じるか、っていうのは人によってもちろんちがうだろうけど、不確定要素っていうのを人は欲しいんやろうね。自分を飛び越えたもの、というのをみんな実はほしがってたりしないかな。


武:自分が飛び越えたいんだな。超越したいんだな。それのひとつの身体的獲得方法として「見えないものを描く」てのはあるかも知れないな。瑛九の生まれ変わりだけに永久を求めて。

山:「えいきゅう」に届かないんやけどね。

【生誕100年記念瑛九展/埼玉県近代美術館、うらわ美術館】
1会場目の観覧券を購入すると2会場目の観覧料が半額になります。

◎埼玉県近代美術館 企画展示室(2階)
< http://www.momas.jp/3.htm
>
開催期間:2011年9月10日(土)〜11月6日(日)10:00〜17:30
休館日:月曜日(10月10日は開館)
観覧料:一般800円、大高生640円
◎うらわ美術館
< http://www.uam.urawa.saitama.jp/tenran.htm
>
開館時間:2011年9月10日(土)〜11月6日(日)10:00〜17:00
休館日:月曜日(10月10日は開館)
観覧料:一般800円、大高生500円

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/週一休肝日】
take.junichiro@gmail.com
twitter < http://twitter.com/Take_J
>
武盾一郎の報告書 Take Junichiro report.
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/
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Take Junichiro Art works
< http://take-junichiro.tumblr.com/
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【山根康弘(やまね やすひろ)/明日は見えない】
yamane@swamp-publication.com
SWAMP-PUBLICATION
< http://swamp-publication.com/
>