武&山根の展覧会レビュー 絵とは祈りだった──武盾一郎の絵画考
── 武 盾一郎 ──

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久しぶりにピン原稿なので自分の本心を確かめてみる。

●自分にとって絵とは何か?

それは「描く行為」である。「描いている作業」が重要なのである。僕は最初、音楽として絵画を捉えようとしいてたと思う。演奏している時間が表現であり、演奏が終わったら表現が終わる「ライブ」のように。

「描かれた絵」は描いてきた時間の集積結果なのだが、「完成」すると何かが消えた感じがして自分から離れてしまう。何らかの興味や執着を失うのだ。胸に溜まっていた重いものが昇華して楽になると同時につまらなくなるのだ

「完成した絵」は「屍骸」だった。屍骸は火葬した煙のように実体が消失して拡散すれば良いと思っていた。ただ、屍骸といっても愛着が全くないわけでもない。それらは「時が封じ込められた標本」として、ホルマリン漬けの死体や、止まったゼンマイ時計を眺めてうっとりする、耽美趣味のような気分でたまに眺めたりできる。

ところが、一応仕上がったものの「完成してない絵」がある。案外と多い。それらは死に切らずに自分の身体と繋がったままになる。身体から伸びた半死半生の内臓のようなものを、ズルズルと引きずりながら歩いてる姿こそ、目には見えない画家の真の姿だ(笑)。

ただ「描いている最中にのみ意味がある」。

僕の絵画観の出発はこのようなものだった。



「描かれた絵(結果)」より「描く行為(過程)」が重要だということは、作品の内側に自分の身体が入っていることを意味する。「若さ故のナルシシズム」の強い時期は「生き様パフォーマンスアート」となる。自分は物語の主人公なのだ。

それから先、長く続けて行くとなると、表現方法が絞り込まれて行き職人性が必要になって来る。僕の場合、物語の中に自分が棲む方向ではなく、物語をしっかり構築して、自分なりの宇宙観を表現したいと強く思うようになっていった。「描く行為そのもの」の原点を保とうとしながらも、「描くことは世界観を築くための仕事」になっていき、結果である「描かれた絵」に重点が置かれていく。

そうすると、「完成した絵」は「屍骸」ではなく「産まれたての赤ん坊」になる。このダイナミックな転換を、2004年から2009年にかけてゆっくりと描きながら、身体で実感を掴んでいったのだろう。

●どんな世界を描きたかったのか?

「絵とはファンタジーそのものである」これは彩光舎時代の講師の言葉であるが、自分としては今でもこの教えを守っているつもりだ。「絵とは描く行為のことであるが、描かれた絵はファンタジーそのものでなければならない」と、自分なりの解釈を与えている。

僕が描きたい世界は「不思議で哀しくて恐いファンタジー」だった。

井上直久のイバラードのような浮遊感、ヒエロニムス・ボッスのようなおどろおどろしさ、曼荼羅のような東洋的神秘性。宇宙写真、顕微鏡写真、物理現象といった視覚化画像。植物や菌類など人間以外の生物を単純化した線。元素記号や楽譜や数式のような線。そして家。法則性の強い手書き線の図に絵画性を持たせて、ファンタジーに辿り着きたかったのだ。

そしてファンタジーにレジスタンスをねじ込もうともしていた。

世界の設定としては、
「捨てられる側の世界である事」(判官びいき)
「小さく弱く儚くてもしたたかな世界である事」(マルチチュード)

描き方としては、
「権威がない世界なので天地を決めないこと」(反権威)
「多神的な世界なので重力の中心を一カ所に集めない事」(反中央集権)
「構図やフレーミングは権力構造なのでそれらを決めないで増殖的に描く事」(反権力)
「つたない線である事」(反エリート主義)

これらをルールとしてボールペンで意識して描いていた。なぜボールペンなのかというと、日本人だから「線」を意識したというのもあるけど、安くて面倒臭くないというのが大きな理由だ。

●時を経て僕は変わったのだろうか?

3.11の後、僕は祈るように小さい絵を描いていた。展示の予定も消えたので、家に引き蘢って名刺サイズと葉書サイズの、小さなところに絵を描くしかなかった。

「祈り」とはその行為を好むと好まざるに関わらず、もう、そうするしかない行為である。祈るより他になす術がない時に、人は祈りを捧げるのだ。なので祈りは解決手段にはならず、時として無力ですらある。それはまるで描く行為だ。尊く無力な行為。絵とは祈りだったのだ。

描かれる絵に求めるものも、最近になって変わってきた。あれこれと描き方のルールがあったのだけれど、「描かれた絵が心地良いかどうか」という、意外にもシンプルな基準が明確になってきたのだ。

それが心地良いかどうかは理屈ではない。絵の音感やリズム感を身体感覚で見ることが必要だ。それに心地良さには嘘がない。不快なものを心地良いと感じることは不可能だ。

「心地良さ」には個体の本性が出る。

補助ありから補助なしの自転車に乗れたら意識することがなくなるように、心地良さの表現も最初は意識するけど、コツを掴めば楽に描けるのかも知れない。そして、今までこだわってきたことが、心地良さに結びついてないなら要らないのだろう。

●これからのアートとはどんなものか

これからの問題として、五感では察知不可能な強大な存在をどう捉えるのかというのがある。今この瞬間も原発からは放射能が漏れている。日常でそれを浴びている。匂いも色もなく食べ物が不味くなるわけでもない。見えない、感じない、それでいて命を落とすかも知れない存在と暮らす生活にあるアートとはどんなものだろう?

そして、光速よりも速い物質があるかも知れないとか、暗黒エネルギーと暗黒物質だとか、11次元だとか、生身の人間では認識が不可能なことが科学の世界からやってきている。どんなに目を皿のようにして世界を見たとしても、ほんのちっぽけなところしか見られないのだ。どんなに宇宙の謎が解き明かされても、謎だらけであることが分るだけなのだ。そんな途方もないことだけが分っていく、科学の時代のアートとはどんなものだろうか?

あんがい素朴なものだったりするのかもしれない。

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/アロマに初めて関心を持ちました】
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