武&山根の展覧会レビュー 顕現アートについて考える
── 武 盾一郎 ──

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こんにちは。今回、武と山根のデジクリチャットは山根氏が多忙のため、武盾一郎のピン原稿となります。ここのところもやもやと感じてたことを、言葉にしてみようと思います。

●再現と顕現

まず、2014年4月16日のデジクリチャット、【イメージの力─国立民族学博物館コレクションにさぐる】で登場した「顕現」という言葉がずーっと頭の中に残っているんです。
< https://bn.dgcr.com/archives/20140416140200.html
>

ちなみにこの回、編集長からは「ホントに観に行ったんかいな」と言われたほどの不評でして(苦笑)、個人的にはすごく重要な内容を孕んでいたのですが、うまく言葉にできないもどかしさを抱えたチャットだったわけです。

僕がずっと引っかかっているのはここのくだり


武:意味が分かっちゃうからかもな。あとさ、神像とか精霊とかって人体をデフォルメさせてるじゃないですか。抽象化とか。そういう造形や絵だったりするじゃないですか。

で、美術としてはさ、具象があってから、具象を経てから、造形がデフォルメされたり、抽象化されてく、的な流れってあるじゃないですか。「抽象化は進化」みたいな。けどさ、イメージてのは、もともと抽象やデフォルメからスタートしてるんだよね。

山:なんやろ、再現に重きを置いてなくて、顕現が重要ってことなんとちゃうか。具象というのは、つまり再現性のことやろ。

武:神や精霊は見えないじゃん。再現しようがないw

山:だから顕現する。再現じゃなくて。

さらっと山根氏から「顕現」という言葉が出てくる。しかしこの「顕現」がずっと僕に付き纏うのだ。



●「再現」とは

さて、僕たちは絵を描くにしても、音楽を奏でるにしても、最初にやることは「再現」である。

大好きなマンガを、頼まれもしないのにせっせと書き写してた子ども時代ってきっと誰にもあると思うんだ。また、ギターを手にして大好きな曲のコードを頑張って弾こうとした人も。「F」が押さえられるかどうかで道は別れるw

これらは「再現」だ。

絵(マンガ)も音楽(ロックとかJPOPとか)も、誰にも頼まれてもいないのに自主的に「再現」したい衝動にかられ、喜んで「再現」訓練をする。

同じ「再現」でもちょっと違うのもある。

僕は幼稚園の頃、オルガンを習わされた時期がある。バイエルの前に、だ。

音楽はこの頃から好きだったのだが、オルガンを習わされるのはちょっと嫌だった。その意思表示として「消しゴムを食べた」記憶がある。

なんでそんなことをしたのか?

音楽そのものに快感は覚えていたが、それを「再現」する身体訓練の苦痛や、先生や母の強制に対する恐怖感など、快感と不快感が混ざった複雑な気持ちになる。「音楽は好きだけど練習が苦痛」というジレンマを表現する際に、音楽にもオルガンにも無関係な、「消しゴム」と「食べる」というところに接続してしまい、無関係にも関わらずそれを実行してみせたわけだ。

その結果、その日のオルガン練習がどうなったのかは記憶にはない。

ここで言いたいのは「消しゴムを食べる」ことではなくて、同じ「再現」でもうんと苦痛な「再現」があるということだ。苦痛な再現なら他にもまだある。

例えば、美術系の人間ならやらされた石膏や静物などのデッサン。また、能や狂言など世襲伝統芸能のように、幼少から有無を言わさず叩き込まされる「形」、クラッシック音楽ではヴァイオリンなど、幼い頃からスパルタ教育で再現を習う。鬼のような再現習得訓練だ。

「再現」にはプロセスとして「自主的再現」と「強制的再現」がありそうだ。自主的再現をベースとした場合は大衆文化、強制的で苦痛な再現をベースとした場合はアカデミズム・藝術・伝統と親和性がある感じだ。

で、「再現」の繰り返しを経た人たちが「オリジナル作品」を作るようになっていく、と。

●再現ベースのオリジナル

この再現ベースの文化では、「再現」→「オリジナル」という進化論的な構造がわりかし前提として敷かれている。

じゃあいったい「オリジナル」ってなんなのか。

まだ使われてないコード進行とか旋律とか、絵で言えばまだ使われてない構図とかタッチとかモチーフとか、漫画で言えば舞台やキャラクターの設定とか、だろうか。今はもう、様々なバリエーションが出尽くしている観もある。

現在、「オリジナル作品」を作ることは可能なのか? これからも「再現」をしこたま訓練したら「オリジナル」が作れるのだろうか?

ちょっとこの曲を聴きながら考えてみることにする。Plasticsの『Copy』。1979年、すでにオリジナルな作品は「ない」、コピーだらけだ、と、プラスチックスは皮肉を籠めて歌ってる。
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結論を言おう。「オリジナルはない」。

「再現」をベースにした構造の場合、つまり僕たちが生きている文化土壌をベースにするならば、オリジナルは(もう)ない。もうみんな誰もが無意識的せよ意識的にせよ気が付いているはずだ。

「二次創作」がこれだけ流行ったり、「DJ」がこんなにもてはやされたり、「キュレーション」が作家性を帯びたりするのは、どこかに「オリジナル」の終焉があるからではないだろうか。

僕らができることは、今までにあるものをサンプリングしてリミックスすることだけなのだ。

元ネタがバレないくらい砕いて組み合わせた場合、それを「オリジナル」と呼びそうだけど、そういう場合、大抵はパッとしなくて「オリジナル」というより、「どこにでもありそうな何か」にしかならないしね。ごっそりと持ってきて、引用元を記号として扱って組み合わせた方が面白かったりするのだ。

まだ作品化されていない「オリジナル」があることを夢見るか、もう「オリジナル」は存在しないと居直るかの選択肢ではなくて、コピペの組み合わせをオリジナル作品と言ってみせてるのか、またはサンプリングしてるよとカミングアウトした「二次創作」「パロディ」「DJ」として表現してるのか、その自己申告性からくるジャンルの違いでしかないのかも知れない。

オリジナル作品もオリジナルではない作品も「コピペのペ」のあり方の違いでしかない。

と言ったけど、一つ方法がある。「フレーミング」だ。「批評作品」と言ったらいいのだろうか。

今ある既存の何かに批評性(フレーミング)を与えるやり方だ。価値をずらしたり、逆転させたり、ちょっと新鮮な気持ちなる現代アート的なアレだ。

例はデュシャンの便器『泉』でもいい、赤瀬川原平の『トマソン』でもいい、ウォーホルの『キャンベルスープ』でもいい。

これらはオリジナルを追求するどころか、「再現そのもの」を作品化する。この場合の「再現」は「コピペ」とか「サンプリング」とか呼ばれずに、「引用」とか「文脈」とかいう言葉を使うが、「再現」ベースである点は同じだ。

二次創作だってオリジナルの世界の価値を変えたりずらしたりしてるので同じじゃないか、と思われるかもしれないが、そうではないんです。

二次創作は二次創作された「作品そのもの」で勝負してるので、「フレーミング」とはちょっと構造が違うのです。フレーミングは基本的に作品そのものを創作しません。フレーミングするだけなんです。

この「フレーミング」の構造をうんと分かりやすく例えると、「バイラルメディア」です。

素材を他から持ってきて集めてそこに価値を与える。バイラルメディアの場合、さらにそれをものすごい勢いで拡散させるので、僕から言わせると、現代美術の遺伝子はバイラルメディアに受け継がれて爆発的に広まっている、ということになるんです。

ところで、現代美術ってどういう仕事なのかというと、岡田斗司夫さんがyoutubeで語っている『村上隆と東浩紀について』がひとつの正解だと思います。
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「現代美術」とは時代の先陣を切って何かを創作することではなく、「既にあるものを引用して作品とし、文脈を形成するお仕事」なのである。その背景に「大学」があることを岡田斗司夫さんは述べています。流れは変わっていくとは思いますが、「再現ベース」は変わらないでしょう。

以上が「再現」ベースの文化・藝術のあり方を、僕の興味のある部分だけを切り取ってざっくりと言葉にしてみたものです。

で、やっぱりなんか「表現ってこれだじゃない感」が残ります。それはなんだろう、と言うと「再現」を軸にしない表現のあり方です。「顕現」です。

ようやく今回のテーマにたどり着きました(笑)

●顕現とは何か?

さて、もう一度「顕現」という言葉が登場した、デジクリチャットに戻りましょう。国立民族学博物館のコレクションを観に行った回なんですね。

The Power of Image イメージの力
< http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/power_of_images/index.html
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「人類の歴史は、イメージの歴史でした。イメージは文字に先行し、さらには言葉の源になったと考えられます。世界の本質や構造にかたちや色を与えて視覚化することは、人間に与えられた根源的な資質のひとつなのです。」

と、あります。そして展示物はアジアとかアフリカとかのプリミティブな造形物たちです。主に、精霊や神たちを象ったとされている造形物ですが、パプアニューギニア『カワ・トゥギト』は椅子だったりします。

これらを観て僕たちは「再現」ベースではないことをなんとなく感じます。僕たちの知っている「再現を習得していった先にオリジナルの創作物がある」という制作プロセスを経ずに、造形に直接アクセスしている感じがするのです。

まずデジクリチャットで我々はこれら「顕現ベース」の造形物と、「アウトサイダーアート」が似てる、と感想を述べるのです。その部分のチャットを引用します。



山:今回の展示をみると、やっぱりアウトサイダーアートとかも思い出す。似てるよね。

武:ああね。そこに面白さを感じるんだよな。

山:古代の人と話した訳でもなし、時代も違うのに似たものを作り出すってのは、同一のイメージを共有してる、ってことにはなるわけでしょ。そこに言葉は介在しないんじゃないか?

武:アウトサイダーアートとの共通性って「造形のつたなさ」だったりするのかな?

山:技術うんぬんの話ではない気はする。実際、つたなくないと思うよ。だっていきなりあの椅子作れないやろ。

これら「顕現ベース」の作品を、面白いと感じる感受性はきっと誰でも持っている。つたないから微笑ましい好感を抱くだけではない「何か(イメージ)」があるはずだ、と。

「顕現ベース」の造形があるのはアジア、アフリカ、南アメリカ、そして先住民と、侵略されてしまう地域の民族の文化だったりします。

なんとなく「弱さ」と「ピュアさ」がそこにある。

「弱さ」と書いたが、現代の主流の価値観を基準にしたら、という話で「劣っている」というわけではない。どこの地域にも美しい哲学と神々の物語がある。

アウトサイダーアートは「障がい者」という括りがどうしてもありますが、それは「障がい者だから」ということよりも、「社会的な弱さ」と「変化できずに保存されている純粋な何か」を感じるからでしょう。

●顕現アート

侵略を受けた民族や障がいを持った人にみられる「顕現ベース」作品はちょっと特別めいてしまう。作品よりも社会から疎外された特殊性が目立ってしまう。

ということは、「顕現アート」は普通に「良いもの」としてまだ認識されていないってことなのかも知れない。

顕現性で制作してる画家たちが、わりといることに最近気が付いてきた。侵略された民族ではなく、障がい者でもなく、アーティストとして制作しているのだが、どこの文脈にも属さないでいたりする。

「顕現アート」はオルタナティブな可能性があるのかも知れないのだ。

まずは僕なのだが(笑)。僕のような画家は、ひとりぼっちだと思っていたけど、そうではないんだ、と。

顕現アートが発生する背景を、まずはちょっと自分を例えにしてみます。

そもそもなぜボールペンで線を取り留めもなく描いてくことになったのかというと、精神的に相当落ち込んでしまってしまったからなんです。筆に絵の具を付ける動作すら億劫になり、持てる筆記用具がボールペンくらいになるほど鬱な状態になってしまったからなんです。

金銭的にも精神的にも落ち込んでしまった時、必要なことは自分自身が救われることです。

自分で自分にアクセスして自分を引き出してあげることだったりします。もちろん他者の助けを必要としますが、依存してしまうとかえって立ち直れなくなったりします。

他者に乗っかっては自立できない、借り物や受け売りやコピーなどの「再現性」では自律できない。僕はそう直感したのでしょう。

たとえ、弱く儚く小さくとも、自分の中から<なにか>が立ち上がってくるのを待ってそれを大事に育むことが必要になるのです。

そこにひとつの「顕現性」があるのではないのかなあと思うんです。

アジアやアフリカや先住民たちのプリミティブな造形物には、「自然に対する畏怖の念」が必ずこめられています。自分たちの圧倒的な小ささを実感していたんだと思うのです。

肥大した自我(意識)が中心となった現代で「べらぼうに凹む」ことは、いにしえの「畏怖の念」と近しい感覚を味合うことになるような気がするのです。

なので、なんかしら凹んだ精神状態から「顕現ベース」の創作が生まれる可能性がある、と思うんです。

多分、今って「20世紀型資本主義」が老朽化してる真っ只中だ。新たな芽生えも当然あるのだが、その恩恵よりも「20世紀性老害」の腐敗臭が強く、その悪影響で知らずに鬱に陥ってしまってる人って結構いると思う。

そこに顕現ベースのアーティストが生まれるポテンシャルがある。悲劇といえば悲劇だが、「時代」とはそういうものだ。

また、ネットの影響で美大芸大・アカデミズムの権威性が昔より薄れてる気もして、これも顕現アートの増加に影響するかもと思ったりする。

ネットだと、どこの誰ともよく分からない人だとしてもコンテンツに共感したり感心したりできる。権威的な場所にいる人がこしらえた文脈を権威だからといってもてはやす人たちは若干減る気がするのだ。

そういったことが後押しとなって、アートをやりたいなら美大芸大を目指さなくても、直接「アート」をやってしまえばいい、という再現を経ずにアートに直結する人たちが増えて行くのかもしれない。そうすると顕現アートも増えることになる。多分。

「顕現アート」は圧倒的多数の再現ベースの文化・藝術を脅かすことにはならないだろう。だけど、ひょっとしてひとつのマーケットが成立するくらいにはなるかも知れないのだ。

ところで、「顕現アート」には共通の画風があるのだろうか?

さて、僕たちは絵を描くにしても、音楽を奏でるにしても、最初にやることは「再現」である。─と僕は冒頭に書いているが、実は嘘でした。ごめんなさい。

幼少の頃、誰もが描いたあのぐちゃぐちゃとして「形(意味)」が定まってない絵は「再現」ではない。クレヨンをどこかに押し付けて動かすと手の動きの跡が残る、「ラクガキ」は描くことそのものにコミットしてるのだ。

描かれた絵は「抽象画」のように見えるけど、具象を踏まえて抽象化してるのではなく、ダイレクトに抽象性アプローチしてる。

そういうパッと見「抽象画」だけど、再現を経てない原初の抽象性をキープしてるような描き方には顕現性がありそうなのだ。

僕はボールペンを無意識的に動かして描くやり方をしてきたけど、それは文脈を引いたり意味を持たせたりする再現性の捨象であると言える。

意識を外して内宇宙から沸き上がってくる線を象りたかった僕は「顕現」という言葉に興味を抱き続けていたのだ。

ただ、それは「オリジナル」なのかというとあんまりそうは思わないのだ。自分の内部から沸き上がってくる<なにか>ってのはいわゆる「自分らしさ」や「個性」ではないような気がするのです。

「普遍的なエネルギー」のようなものか、または「錯覚」か、そういうものだと思うんです。

「顕現アート」とは、未分化状態の普遍的エネルギーの露出である。

「顕現アート」とは、自分の内宇宙が存在するという「錯覚」を象ったものである。

●ひらめきと直感

ここでちょっと視点を変えてみましょう。

「再現と顕現」を「ひらめきと直感」で例えられる可能性があります。池谷裕二さんの言葉を引用します。


「ひらめき」は思いついた後に、その答えの理由が言える。「先ほどまでは気づかなかったが、今はこの答えの理由がよく分かる。なぜならば...かくかくしかじか...」といった具合に、その理由が本人に明示的に分かる。これがひらめきだ。

一方、「直感」は本人にも理由が分からない確信を指す。思い至ったまではよいが、「ただ何となく」としか言いようがない曖昧な感覚である。根拠は明確ではないが、その答えの正しさが漠然と確信できるのが直感である。そして重要なことは、直感は意外と正しいという点だ。
< http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090506/150521/
>

再現をベースに置く創作は「ひらめき」を生むと思います。言葉で説明できる現代美術は明らかに「ひらめき」側だ。

自分の作品を自分で説明できない人がいる。今、そういうことやってると馬鹿にされて相手にされなくなってしまうけど、直感で制作しちゃったらきっと言葉は見つからないのだ。僕はそういう人たちの肩を持ちたい。

で、直感というものは無垢から生まれるだけかというとそうではない。再現性の鍛錬を半端なくやった人が「直感」を使えるようになるのだ。


将棋で言えば、プロ棋士は論理的思考力を活用して何十手も先まで読み、次の手を瞬時に「ひらめく」ことができます。しかも、それが最適手であることを論理的に説明できます。

しかし、局面が複雑になって選択肢がたくさんある場合、さすがのプロでも先を読むことが難しくなることがある。そんな時でも、なんだかわからないけれど

「この手を打てばいい」と瞬時にわかるのだそうです。これが「直感」です。
< http://www.insightnow.jp/article/900
>


ただ、その直感にたどり着く人は、将棋の羽生善治氏や、メジャーリーガーのイチローといった人たちだろうから、多くの人は「ひらめき」レベルで右往左往してるのだろう。

それは、現在の文化がほとんど再現ベースだということと関連しているのではないだろうか。

人は最初、顕現アートから出発する。「原初顕現アート」である。そして再現性を身に付け「ひらめき」で作る「再現アート」に移行する。文化・藝術の大半はここに存在している。半端なく訓練をしていくと、そこからうまく説明できない「直感顕現アート」に辿り着く人が希にでる。

こういうことなのかも知れない。

なので顕現アートと言った場合、直感にたどり着いた顕現アートよりも、多くは原初性の顕現アートとなるだろう。そのままだと再現性をしっかり学んだ人たちよりもやっぱり「弱い」。

ひらめきを駆使し、できれば直感を発動できるようになりたい。

これを読んで「自分は顕現アートかも!」って思う人が3人くらいはいるだろう。多分、僕も含め、いろいろまだ弱い人たちだ。そんなあなたに捧げます。

●顕現アートなあなたに贈る言葉

顕現アートの根は「祈り」のような根源性である。

信じて祈り続けなさい。制作を続けなさい。

ただし意固地になってはいけません。

原初顕現に立脚しつつも上手に再現性を取り込んで表現の幅を広げなさい。

売れなくても焦らないで。うまくいかなくてもあきらめないで。

コツコツと自分の作る世界を豊かにしていってください。

やっぱり最後は直感だよね。


【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/牛乳配達しながら制作してます】

2014年「トンドの夢想家達」展 vol.2
会期:2014年11月28日(金)までの金・土曜 13:00〜19:30
会場:ギャラリー オル・テール
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20141010/1413503603
>

きゃらまふにインタビュー記事載ってます

【セーラー服おじさんがアートな精密画に!?】
線譜アーティスト武盾一郎さんにインタビュー!
< http://charamaf.com/2935.html
>

地元上尾にあるアウトドアカフェ「山小屋」にポストカード置かせてもらってます!
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