山:こんにちはー。
武:こんにちは! 暑いね。
山:そうやねー、まだこれからが本番と思うと気が重いな。
武:歳取ると夏が怖くなりますからね。あ、でも2012年の夏が一番怖かったかな。そこから徐々に大丈夫になってきて、今年は乗り切る自信は、ある。
山:ほう、どうやって乗り切んの。
武:「気」です。
山:なんやねんそれは。
武:今年は「具合悪くなるかも……」という恐怖心がわかなくなった。何年か前は同じような天候、温度、状況下だと「怖くてダメだあ」って思ってしまったんですよ。そう思うと自己暗示にかかるのか、本当に具合が悪くなった。
今は「お、大丈夫だ。うん、大丈夫」って思うんですよ。で、具合も悪くならない。具体的な対処法としては「ヤバイ」ってちょっとでも思ったら、「避難して水を飲む」かな。
山:おー、めっちゃ普通やな。もっとなんかすごいかと思った。
武:「身体に対する自信」って復活してくると、ただ単に「普通」に戻るだけなんですよ。けど、具合が悪かった記憶があるから「良くなったんだなあ」って実感できるんです。
山:現代人は回復としてしか健康を感じられない……ってどなたかがおっしゃってましたね。
武:うん。それマジでそう思う。具合が悪くなった記憶が鮮明に蘇りすぎると、これまた具合悪い時に戻っちゃうんだよねw 悪い記憶はほのかに残る程度がいい。
山:今まで枕は酒の話ばっかりやったのに健康の話になるとは……歳ってわかりやすいもんですねー。
武:健康が生命の土台ですからね。若い時はその上に乗っかってるトピックに関心が行くんですよ。
山:そういうもんですかね。さて、今回はどうしましょうか。
武:健康の話で引っ張る。
山:レビューちゃうやないか!
武:「健康でいながら健康に感謝する」ってすごいことだよね。
山:やる気ないな? さては。
武:ありますよ! ただ、展示に行ってないのだ。
山:やる気ないやん。
武:いえ。あります! あるということにしておかないと自分が保てないし。前回は俺のレポートだったので、今回は山根のレポートだね。
山:順番にレポートするレビューやったっけ。
武:「仕方ない。状況が状況なだけに。」
山:どんな状況やねん。まあ僕は久しぶりに原美術館に行きましたが。サイ・トゥオンブリー。
武:それ行こう! うん! スバラシイ!
山:なんか腹立つぞw
武:実は知らない。
山:え! そうなん?
武:あー、「くるくる」描いてる人か! けどあんまり知らないな。これか。なんと、あの「くるくる」が83億円ジャマイカ!
< http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/01/2014-most-expensive-artwrok_n_6404886.html
>
山:それはすごいな。
武:もうさ、1億円でいいから線譜に値がつかないかねえ。
山:83億円と言われてもそれはよくわからんが、好きなんですよ、トゥオンブリー。何でやろ、紙の作品が多いからかな。今回の展示は紙の作品のみでした。
< http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
>
■サイ トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡/原美術館
武:iPhoneだとちゃんと観れないw PCだと観れるけど文字がちっちゃくてね。。
山:昔からやけど見辛い。
武:クールなんだけどね。ツイッターとブログがあるのか。
ブログでの情報はこれ
< http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/SxJiaNegEBMFqyCL2vVd/
>
ツイッターアカウントはこれ
< https://twitter.com/haramuseum
>
山:サイ・トゥオンブリー
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC
>
武:2011年83歳没。故人なんですね。
山:そうやな。あんまりトゥオンブリーその人がどんな人だったか、ってのは聞かないな。
武:ですねえ。どうやって売れるようになったかが知りたい。
山:時代は抽象表現主義全盛、ポップアートが出てきてるころか。そんな時に抽象表現主義を土台にして出てきた、ということかな。
武:どひゃーって描く感じは、なんだか親近感は湧くよね。懐かしいというか。
山:でも、絵の具ぶちまけてたりいろんなもん貼っつけたりしてる作品ばっかりのなかで、鉛筆とかチョークとか、そんなんで描いてたんですね。
武:儚い素材か。ちゃんと保存してくれる確証があったからそういう素材にしたんじゃね?
山:売れる前はそんな確証ないやろ。あと、壁に紙をぶら下げて描いたり、真っ暗闇のなかで描いたりしてたそうです。
武:何歳ころから売れてきたんだろうか。長生きしてるってことは若くして急激に売れてバランスを失うってことがなかったってことなんかね。紙をぶら下げたり、暗闇で描くってのもなんか分かる気はする。やるよね。ただ、どうやってその行為に価値を付けたのか。それが気になるんすよ。
ジャクソン・ポロックもそうだけど、ドリッピングみたくワーッて描いた人ってそれまででもいたよね、きっと。となると、ポロックは何が初めてなのか。それに「価値を付けたこと」になるわけだよね。どうやって価値付けたのか、個人的な関心はそこに尽きるんですよ。
・ジャクソン・ポロック
< https://bn.dgcr.com/archives/20120307140300.html
>
山:たぶん画廊デビューしてすぐ、著名な方の評論が出たんでしょう。
武:じゃあ、儚い素材使っても大丈夫だよね。作品作る時に売約はなくとも、「きっと売れて繊細に保管してくれるだろう」と思えば、薄い紙に鉛筆でもチョークでも大丈夫だもんな。それとも、なんとなく名は知られてきたけどすんごい貧乏で、そういう素材しか入手できず、そこから作品が生まれたのかな?
山:そこら辺はよくわからんけど、そんなに貧乏じゃなかったんちゃう? そういう状況やったらそこは語られるような気がする。
武:そっか。ポロックの方が16年先に生まれてるから、抽象表現主義的な「わーっ」て描くのがアート・スクールで流行ってたのかも知れないし。文脈的に言えば、いわゆる「ドローイング」のはしりってことになるのかね。
山:そんな感じするな。
武:ポロックの方が重たい感じするけど、そこから解き放たれようとする感覚はあるのかも。文脈的に考えるとすごくスムーズな印象を受ける。
山:むしろそこを考えたから、バチッとはまったんかもな。
武:そうかもね。なんとなくそこに「アメリカの逆襲」みたいなのも感じるな、文脈として。で、ポップアートだもんね。アメリカが芸術をヨーロッパから奪取した、的な。
山:でも、そうすると不思議やな。その後がポップアート全盛でしょ。でも、トゥオンブリーはポップアートではない。抽象表現主義、ポップアートの作家は当時のアメリカの消費万歳! みたいなのとすごい繋がってるんやろうけど、トゥオンブリーはそんな感じしない。
武:ワーッて感じの抽象表現主義と、情緒を感じないポップアートの結節点みたいな。
山:そうかな、めちゃめちゃ情緒的やないですか、トゥオンブリー。
武:ふむー、どうなんだろ。「くるくる」描いてるのとか後の「ミニマル系」って感じで、感情抑制な印象を受けるんだけど。ドローイングはまた違うのかな。そこは現物観ないと分からない。まあ、ミニマルが情緒的ではないかというと決してそうではないかもだけど……。
山:確かにそこにも繋がってそうやけど、くるくる描いてる以外にも展示にはいろいろありました。
●自分以外の力
武:「鑑賞法」っていうのがあるなあと思うんですよ。
山:と言うと?
武:トゥオンブリーを「感性」とか「情緒」で観てもしようがない感じを(ネット画像からは)受けてしまう。マーク・ロスコを「みずみずしい色彩が…」とか言ってもあんまり意味ないじゃん。そういう文脈のメルマークとしてマッピングして楽しむ理屈のお遊び、みたいな。なんかそういう類い。
山:ああ、なんかわかる。でもやたらに感じてしまう自分もまたおるんよね。
武:なるほど。それは興味深い。トゥオンブリーは「感じる」ってところも意識してたのかな? 「くるくる」からはあんまし感じないけど……。
山:単純に、何でこの絵がこんなに価値があるとされるのだろう?? という疑問は持つよね。それを納得させることができるのは文脈しかないよな。でも、近所のおっさんがこの絵を描いてたとしても、いい絵だなあ、って思うやろうな、と。僕は。
武:なるほど。理屈と感覚と両方から攻めるの大丈夫なんだ。
山:大丈夫って意味はわかんないけどw、少なくとも何かを感じてしまうんでしょうね、トゥオンブリーの絵から。もちろん「はぁ?」って思う人も沢山いるやろうな。
武:だとすると、俺も好きかもなあw 紙に適当に絵の具垂らしてあれば、だいたい好きになっちゃうんですよ。
山:そうね、その感覚に近いものあるよな。
武:作為が消えてるように見せる技、って好みなんだよなあ。意図を隠す技って日本人の好みなんかね?
山:どうなんやろ、偶然を装ってすべてが実は作為的、と言ってしまえばそうなんだが、逆にすべて自分で決めてると思い込んでるだけ、ということもあるかも。
武:吊ったり、暗いところで描いたり、そこで描かれる「ひとつの線」は制御はされてない。けど全体としてなんか調和がとれてる技ってことか。
山:でもその気持ちわかるやん。
武:分かるよね。そこ(描かれたもの)に「自分」が居ない感じがして清々しく感じるw 自分で描いてるのにw
山:「自分以外」という担保が必要な訳だ。文脈もそうだけど。
武:ほんとにそうですねえ。てことは、作品の内部にやってくる「偶然」という他力と、作品自体を外側から位置付けする「批評」と二つの他力がいつでも自分のところにやって来てくれないとならないってことだな。
山:くれないとならない、ってこともないやろけど。
●古典的鑑賞法と現代的鑑賞法
武:「古典的な鑑賞法の世界」と「現代的な鑑賞法の世界」がある。この「鑑賞法世界」ってのが難しいなあって思ってるんですよ。今の自分は「現代的鑑賞法を経た後に古典的鑑賞法世界に居る」んでちょっとややこしいんだが……。
山:具体的にどういうことなんや、それは。
武:物理学で例えていい? 物理学者でもないのにww
山:どうぞw
武:20世紀初頭までがいわゆる古典物理学と呼ばれてるよね。で、20世紀頭に量子力学、つまり現代物理学が生まれる。それと現代美術が生まれる時期はなぜかすごく近い。
山:なぜかも何も、密接なんとちゃうの。
武:うん。物理学が先か、芸術が先か? ずっと芸術のほうが先だとばかり思ってきた。芸術はすべてに先行する、と。けど、ちょっと違うかもしれないと最近は考えるようになった。でだ、古典物理と現代物理の決定的な違いって何かというと、言われたら「確かにそうだよなあ」って直感的に頷けるのが古典物理学なんですよ。「そりゃあリンゴは落ちるわなあ」とか。
山:ああ。素粒子見えんし。
武:そうなんすよ。つまりね、身体が直感的に分かる事柄は総じて古典物理学と言っていい。量子力学って身体的な直感では「?」なことが多いんですよ。それはまさに現代美術の身体的直感では「?」になるのと同じじゃないですか。量子力学が発展していく段階で、アインシュタインは古臭い人になっていってしまう。同様に身体直感的に鑑賞する作法は古臭くなってしまった。
山:ああ、なるほど。
武:で、ですね。量子力学と現代美術が発生して100年、量子力学の社会化が進むと、今度は身体的な場所に戻ってくるんです。
山:ほう。言ってる意味はわかる。
武:20世紀の「機械」ってすごく身体を阻害するベクトルを持っていた。そこがカッコよさにも繋がったかもしれないが。「新しさ」や「現代性」は身体から離れることだったんだよね。そこを経て、更に科学技術が進むと今度は個人の身体内に戻ってくる。不可視化されて。身体は身体なんだけど、人間の感受性の受容を超えた場所に今の科学はある。きっとアートも同じ例えが成立する。
山:ほう。
武:アートを「感覚」や「好み」から外して鑑賞する方法を「現代アート」は編み出した。それは「文脈(コンテクスト)」と呼ばれている「現代的鑑賞法」だ。それから100年経つんで、また変わるんじゃないのかな。
山:でも昔から批評はあるんじゃないの。昔ってどれぐらい前かわからんが。少なくとも現代美術が現れるより前からはある。
武:批評の原点は「神殺し」だと思うよ。キリスト教以外で世界を理解しようした「近代」なんじゃないのかな? 古代ギリシャからあったという言い方も出来るかもしれないけど……まあギリシャは置いておいて、、w で、「近代」って「古典」になっちゃうんですよ。そこがちょっとややこしい。
山:いやいや、そう言うことじゃなくて。感覚や好みから外して鑑賞する方法は、昔からおこなわれてたんとちゃうのかね。
武:じゃあ「感動」とか「カタルシス」とか言った方がいいのかな。昔も批評はあっただろうけど、それは「感動に値するかどうか」みたいな身体性の強い基準だったのではないだろうか。心とか。あ、そうか、心か。古典的鑑賞法の基準は「心」になるのか。心って身体的ですよね、頭というより。現代的鑑賞法の基準はそうすると「情報」になるかな。文脈って「情報の配置」だからね。そうするとそれは心より、頭脳に比重がちょっと傾く。
山:わかるようなわからんような……まあつまり、トゥオンブリーの作品を鑑賞して、なんかいいなあと「感じる」のと美術の文脈として「解釈する」のとの違いってことかね。
武:「感じる」→「解釈する」→そしてもう一度身体に戻って「感じる」になるんじゃないのかな。これまでの感覚の受容体とは違う場所での「感じる」。物理学で例えるとw りんごが落ちるのは感覚的にわかる《古典》→「シュレーディンガーの猫(生きてる猫と死んでる猫が重ねあう?
< >」
のように感覚では分からないことなので理屈として受け止める《現代》→量子現象を感覚で捉える、例えば、「量子テレポーテーション < https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
> 」
を感覚で受け止める……
山:それはムズいなw
武:まあでも結局、最も重要な謎がまるで解き明かされてないんだよね。「私って何?」とか、「命ってなに?」とか「宇宙ってどうやって出来たの?」とか。あ、でも、ににじり寄ってるのか。どうやら、最新の宇宙物理学の説だと、〈「無のゆらぎ」で宇宙は産まれた〉らしい。これ、仏教だよねw
< http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/fluctuation.html
>
山:宗教バカにしたらあかんってことやな。
武:「え? ひるがえってめっさレガシー??」ていう。
山:でもそれって普通に持ってる感覚とちゃうんかな。ひるがえらない。
武:そっか、ひるがえらないか。大昔と最先端が「輪っか」になる感じかな。ちょっとまとめていい? 20世紀までは古典的鑑賞法だったとしよう。「心で感じて理解する鑑賞法」てことだよね。で、現代的鑑賞法が登場した。それは「感じることは置いておいて思考する鑑賞法」。で、その次にあるのは踏まえて再び古典的鑑賞法に戻る「ハイブリッド包括的古典鑑賞法」になるんじゃないのかなあ、と。
山:トゥオンブリーの話どこいってん。
武:サイは投げられた!
【サイ トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡/原美術館】
< http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
>
会期:2015年5月23日(土)〜8月30日(日)
開館時間:11:00〜17:00(祝日を除く水曜は20:00まで)
休館日:月曜日(祝日にあたる7月20日は開館)
入館料:一般1,100円、大高生700円、小中生500円
【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/アーティスト20周年】
そう言えば、1995年8月に段ボールハウスに絵を描いてから、今年の8月で20年。
【Gallery Or-Terre】諧調「日本の幻想画家達」展II
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20150723/1437654320
>
日時:8月7(金)8(土)14(金)15(土)21(金)22(土)28(金)29(土)
全8日間 13:00〜19:00
場所:ギャラリー Or-Terre(京橋:東京駅より徒歩5分)
モノクロ作品の展覧会に出展します
【One Wall One Art】第3弾 指扇 CocoHouse
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20150629/1437654320
>
8月31日まで指扇のカフェ「CocoHouse」にて、線譜とタムちゃんグッズを展示させて頂いております
PEACE CARD 関西展
< https://www.facebook.com/PeaceCardKansai
>
期間:9月8日(火)〜9月21日(月)※9/14(月)は休み
場所:ちいさいおうち Gallery Little house
参加者代表「5*SEASON」さん
< http://www5a.biglobe.ne.jp/%7Eseason5/
>
・facebookページ< http://www.facebook.com/junichiro.take
>
・Twitter< http://twitter.com/Take_J
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・take.junichiro@gmail.com
13月世の物語 ガブリエルガブリエラ
< https://twitter.com/G_G_jp
>
< https://www.facebook.com/GabrielGabriela.jp
>
< http://gabrielgabriela-jp.blogspot.jp/
>
【山根康弘(やまね やすひろ)/ワイン漬け】
yamane.yasuhiro@gmail.com
2006年から執筆させて頂きました[日刊デジタルクリエイターズ]本日で私、山根康弘は卒業させて頂くことになりました。9年間、本当にありがとうございました!
柴田編集長、どうもありがとうございました! 呑みはいつでもwデスクの濱村さん、お世話になりました! いつか呑みましょう!