電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[185]こうして夕があり、朝があった
── 三井英樹 ──

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あれから一年が経とうとしている。短いような長いような時間が経過しつつある。沢山の辛いことがあり、沢山の救われる想いを感じた時間。でも、どこか頭の一部が何かを避けるように機能していないような感覚を感じる。地面が揺れるたびに、その何かが頭の中を刺激する。思考停止となっている闇の部分を刺激する。

   神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。
   こうして夕があり、朝があった。第一日。
    旧約聖書 創世記1章5節
    < http://www.creationism.org/japanese/genesis1.htm
>

7日間の宇宙創造記において、ほぼ同じ文言が6回繰り返される、「夕があり、朝があった」、第一日から第六日までの6回。必ず、闇に覆われる時間があり、その闇がかき消される時がくる。

ポイントは「朝があり、夕があった」のではなく、「夕があり、朝があった」ことだ。逆ではない。日は暮れる方向ではなく、明ける方向に進む。



多分、思考停止になっていた部分は、ITの定義の部分だったのではないか、と最近思うようになって来た。ITが単なる「情報」を扱うものから、実は「"命"に関わる情報」だったことに、今更ながら気がついたのだ、しかも体の奥の方から。

もちろん法律や規則など、命に関わる情報を扱っては来た。しかも、かなり普通に扱って来た。それが迅速に回覧や伝達されなければ困るという状況のものにも関わって来た。

でも、震災のそれとはレベルが違った。そして、どれも震災レベルに向き合わねばならないのではないかと自省し始めた。すべては発信するコンテンツ自体に関わることなのだ。

けれど、コンテンツ自体は大抵は、自分たちWeb屋の管轄とは言えない領域だ(=お客様がつくるもの)。でもその質も問われた。

正直いって、整理された情報は、スピードも質も、まっとうなものが殆ど流れなかった現実を目の当たりにした。スピードだけでなく、おそらくはコンテンツの作り方まで見なければ、根本的におかしいだろうと、突き付けられたのだ。そこが引っかかっている。






Webは黎明期を過ぎ、効率化の時代に入っている。ツールが賢くなり、HTML仕様の本質的な理解を省いても、サイトは作れるようになった。AI(情報構造)を整理しようとしたら、その実装方法の仕様とも向かい合わなければ先へは進めない。そこを議論する時間を惜しんでサクッと作る、そして作れるようになった。

そのこと自体は喜ばしいことなのだろうけれど、何か引っかかる。Webは、作り方を極める方向に進んだが故に、コンテンツの生まれる場所を蔑(ないがし)ろにして来たのかもしれない。

上流設計が、実装開発/製造に先んじて重きを置かれるように、コンテンツの生まれる場所は、その(サイト内の)置き場所よりも大切なのかもしれない。だから、それらは双子のように、車の両輪のように、共に成長し続ける必要があるべきではないか。でもそうは進んでこなかった。歪(いびつ)にアンバランスに過渡期を進んでいる。

幾つもの闇を残したまま、それらを大きく育てながら、ここまで来ている気がする。それが開発要件は複雑に高度になるけれど、開発予算が下がって行くという現状に現れている。アイスクリームにトッピングを増やすと価格は上がる。でも、サポート対象デバイスを増やしてもサイト開発費はそれほど増えない。

HTML5という魔法でチチンプイプイとやれば、何でもイー感じにしてくれると本気で語られることもある。HTML5の実体は未だ制作途中であるにも関わらず、である。

そもそも「ワンソースマルチユース」はVisionであって、通常は手の届かないものである。それは実は誰でも考えれば分かるはずだ。個別最適すること以上の「もてなし」は、あり得ないし、それは一朝一夕には成し得ない。

更に、過去の幼稚なブラウザ戦争は終わったけれど、今はまさに複雑で深遠な低価格デバイスを絡めた新ブラウザ戦時下だ。

何も闇雲に開発予算を上げろと思っている訳ではない。必要とされる情報が必要とする人に届くように作る方法は、それほどバリエーションがある訳ではない。ただ愚直に考えれば良いだけである。

変に端折る所にバグは宿り、ユーザを迷わせる迷路は作られる。個別最適を考えない道には、どこか必ず抜け落ちがあり、美しくない道をユーザに通させ、不満をつぶやかせてブランドを傷つける。

それらへの答えは、HTML制作現場にはなく、コンテンツ生産場所にあるのではないだろうか。どう見えるかレベルではなく、どう伝わって欲しいかを考慮する。言い方を変えれば、そこまで巻き込んだ本気の覚悟でユーザと対峙しない限り、大切なことは伝わらない時代になって来ているのではないか。



聖書を読み返すと、不思議なことに気がつく。昼と夜を定義しながら、その直前の朝と夕に重きを置いて記されている。「夜があり、昼があった」ではなく、「夕があり、朝があった」。予兆的な部分に気をつけろと言うことか。

だとしたら、今は既に夜(真の闇)なのか、それとも未だ夕なのか、それとも朝なのか。閉塞感が拭えない以上、昼でないことだけは確かだ。光はその明るさを存分には出し切っていない。そんな弱々しい光が「光」であっては困る。

Webは複雑化しているけれど、見る側はシンプルなデバイスにシフトして来ている。複雑で長大なシステムも必要だけれど、単機能のシンプルアプリも大人気だ。複雑で巨大で美しいものだけを求められているとしたら、かなり絶望的だ。根本を調査し考えて来た時間が余りに短い。でも、シンプルの混在も求められているのなら光がある。

   光はやみの中に輝いている。
   やみはこれに打ち勝たなかった。
    新約聖書 ヨハネの福音書1章5節

まさに闇の中に輝く光が見える。そして、その光の希望は後ろで輝いているのではない、希望は行く先に輝き、近くに来いと招いている。そう信じないでは進めない。闇ばかり見ていては進めない。そして、闇に打ち勝つ光を信じる心もまた光となって同志を招く。Twitterを中心としたSNSのポジティブな一面だ。心新たに一年の重みを考えたい。

【みつい・ひでき】@mit | mit_dgcr(a)yahoo.co.jp
< http://www.mitmix.net/2012/03/185.html
>
・本家?MITnewsからフォローされて、速攻で解除された。なんか気まずい。
・既に2012年も六分の一が経過。速い。