電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[195]納涼祭:爺さんに怒鳴られるという久々の体験
── 三井英樹 ──

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不思議に秋が巡ってくる。ずーっと異常気象の暑すぎる夏が続くのかと思っていたけれど、やはり8月の終わりには風が涼む。そして夏の終わりということで、我家の隣の公園で恒例の納涼祭(盆踊り大会)が開催された。今年は妻が自治会の役職に就いたので、その準備を手伝う。

  「ばかやろー、そうじゃねぇー、こうだよ!、貸してみろッ、おらッ!」
  近所の爺さん@2012夏

150坪ほどの公園に(多分)50代を中心に約30人。盆踊り用のヤグラを組み、提灯をぶら下げる。そこで上述の怒号が響く。声の主は80代の爺さん(敬意を込めてこう呼びます)。叱られているのは、主に50代の「お父さん」達。

昭和30年代から連綿と続く地域行事。とは言っても、本番の参加者は200名程だったか。その準備に、なれない手つきの「お父さん」ボランティアが30名も手を挙げた(当然ほぼ同数の奥さん方も参加)。

爺さん達曰く、「例年になく盛り上がった」。でも準備への参加者の思うところは、宗教的なものでもなければ、地域文化の浸透でもない、実は「震災」だ。






3.11以降、「ゆれくる」あるいは「防災速報」が通知してくる度に、何かしらの無言のプレッシャーが地域を襲っている。幸いにも3.11では、我が町の被害は、多少の物が落ちた程度だったと思う。けが人もなく、計画停電すら実施されない場所だった(何かの施設があるとかが理由らしい)。
  ゆれくる:< http://goo.gl/YpMuK
>
  防災速報:< http://goo.gl/pY1pT
>

しかし何かあった時に、自分達だけでは生き延びられないことは、皆が自覚した。だから、地域の人たちと繋がっておこうという雰囲気は強くなっている。個人情報保護法ウンチャラのおかげで、ご近所さんの連絡網すら作り難くなっているのだけれど、助けて欲しいし、助けたいという気持ちも消えていない。

だからこの納涼祭も、形としては「盆踊り」が中心に据えられているけれど、一緒にヤグラを組んだり片付けたりする、共に汗する「接点」自体が実際のメインテーマになっていると言って良い。つまり、盆踊り本番よりも、一緒に準備すること自体に意味がある。

ヤグラを一緒に組んだところで、突然親友になれる訳ではない。実際、私は数人の名前しか憶えられなかった。それでも、翌日から、道ですれ違う瞬間に流れる何かは変わった。あ、あれを組立てた人だ。お、柱を支えていた人だ。へー、この辺りに住んでいるのか...。この積み重ねが、緊急時に効いてくると、体の奥底で皆も感じている。

更に一体感を生んでいた意識があるようにも感じた。それは、今回のような行事を仕切っている爺さん達が非常時にどうなるか、という意識。誰も表立っては口にはしない、でも非常時の生存率は高齢になるほど厳しくなるのは無視できない事実だ。

自分たちの家族を守るだけでも大変なのに、他人のことまで考えられるのか。そんな疑問も当然抱えている。でも、それはその場で考えれば良い。「あの爺さん、大丈夫か」と気付くための仕掛けを準備しておくことは、悪いことではない。

もちろん、助ける側に立つとも限らない訳で、超人的な勘のはたらく爺さんに助けられる可能性だってある。爺さんを憶えておく仕掛けは、自分を憶えておいてもらう仕掛けでもある。



しかし、しかし、形なしである。こんなにダメ出しを喰らうのも、怒鳴られるのも何10年ぶりだろう。ヤグラをはじめ、基本的に一年に一回しか組立てないモノばかり、爺さん達の指示は不可欠。怒鳴られながら、金槌を振り上げる爺さんを見つめて、苦笑する。いや、爺さんにではなく、怒鳴られてる自分が何だか可笑しい。50の丁稚小僧だ。

基本的に反論はしない。かといって、爺さんたちの設計が全て正しい訳ではない。もっと巧く作っておけよとか諸々想う。でも、反論しない。返事はすべて「はい」。その一つの理由は、私よりも上の世代(60代)が最敬礼して指示に従っているから。

封建主義というか、体育会系というか、そういった匂いが漂ってくる。でも、上の世代は、80代の爺さんの代に直接小さな時から見守られて来たのである。頭が上がるはずもない。父親の友人たち。様々なことが伝えられて来た道を垣間みたような気さえする。ここは見習っておこう、と決める。



横浜市は、数年前に撤回したが「ゆとり教育」にかぶれていた。我が子をそこに入れられて感じたのは、子供に媚びるは百害あって一理無し、だった。何がゆとりだ、大人が考える子供のゆとりって何だよ、と本気で腹が立った。子供なんだから、必死で学べよ、人生は短いんだぞ、と。

そうした「ゆとり」とは真逆の教育方針がこの伝統的な爺さん怒号方式にはある。古くさいやり方なんだろう。でも味がある。「なってねーな、貸せ!」と金槌を取り上げても、基礎体力では爺さんは爺さんである。数本釘打ちをすれば息は切れる、「あとはやっとけ」と負け惜しみのような台詞が、暫くすれば、ほぼ確実に返ってくる。

爺さん達だって、来年も仕切れる保証がないのを自覚している。一人二人と確実に上の世代は減っている。早く引き継いでおきたいという気持ちも強いのだ。それでも、未だ若いもんには負けられん的な意地がある。意地と世代交代の波、色んな窮屈な踏ん張りの中で多くの事柄が伝えられて行く。

そういえば、長年盆踊りは見ていたけれど、今年ほど浴衣姿の婆さんたちの踊る姿、手つきがきれいだなぁと思ったのは初めてだった。曲は「アンパンマン音頭」、「演歌・血液ガッタガタ」と「炭坑節」の三曲しかないんだけど(それはそれでどーなの?)、踊る仕草が何だかサマになってて美しい。日本文化も良いなぁと。

ただただ同じ「型」で円を描く。回りで見ているだけの人もいれば、踊りを練習してから輪に入る人も、ずーっと踊り続ける人も。そうしながら、皆それぞれが暑い夏を想い、実りの秋を想う。少子化の波は実は如実に現れていて、元気に走り回る子供達の影もまばらだ。それが一層秋風を感じさせる。



もうすぐ防災の日。今年は訓練をすることになっている。被災後を想定して、無事であれば玄関先にリボンを掲げる。リボンが出ていなければ、大丈夫かと声をかける。これを町中で行う。独り住まいの爺さんも婆さんも、アパート暮らしの若夫婦もシングルも。ただリボンを出すだけでも、かなり大変だ。

欧米のプライバシー重視の生活に慣れてしまった我々が、伝統と安全とをどう継承して行くかを探る。でも、何もしないでいきなり本番は迎えたくない。できることをやろう。また元気な怒号が響くことをちょっと期待しつつ。

【みつい・ひでき】@mit | mit_dgcr(a)yahoo.co.jp
 < http://www.mitmix.net
>
・正確には49ですが...。

・雪豹から山獅子(Mountain Lion)へ。結果、我が愛機MacBook Proは集中し難いマシンになったいうのが正直な感想。通知とかは別デバイスでやるから、メインマシンは作業に集中できれば良いんじゃないのか、とも思う。多分、家マシンだから、そう思うのだろうけれど。

あと、Chromeが重くなった、JSゴリゴリのサイトだと顕著にそう感じる。全体的に、Swapが最適化されていないという印象。まだ様子見ですが。でも諸々試せる幅が増えたので、価格満足度高し。その上に載るMac Appの方がOSより高いってのはどーよ、とか想う日々w。

・一か月、Youtubeラジヲ体操達成! ほぼ7時前に実施。続いたのは生まれて初めて。6:30でないと駄目、ってのは無理だった。