ゆずみそ単語帳[20]田舎の形容詞/TOMOZO

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形容詞や副詞には、いろいろな荷物が乗っている。

「白い」「高い」「速い」など、程度を数値であらわせるような内容なら、英語から日本語にでも、その逆にでも、わりあい簡単に置き換えられる。

でも多くの形容詞には、褒める、讃える、貶める、否定するなどの感情的な方向性がくっついている。多くの場合は、単にその方向性を強調するための言葉であったりもする。

なので、翻訳者の仕事のひとつは、原文を書いた人がどういうつもりでその形容詞や副詞を使ったのか、どういう気分を出したかったのかを理解することだ。

(もちろん、形容詞だけでなく名詞にも動詞にも、ほかの要素にもそういう気分は乗っているけど、形容詞は特にその気分の権化だ)

英日翻訳だったら、その英語の形容詞の気分や強調したい程度を見きわめて、できるだけそれに近い日本語を探す。考えてみると、これは翻訳の仕事の中でけっこう大きな部分を占めている。

英語で表現された気分の濃度が、ちょうど良くつり合っている言葉が日本語になかなか見つからないことは多い。たとえばカラフルな悪口や褒め言葉は、現代のビジネス日本語にはとても種類が少ない。

でも逆に、そんなに目立った気分の荷物を乗せられているわけじゃない言葉なのに、日本語の方に余計な気分が乗っていない言葉が見つからないこともある。

ちょっと前に訳した、とある文章の中で困った形容詞は「RURAL」だった。






空軍の飛行訓練についての記事で、こういう訓練は主に「RURALな地域」で行われることが多い、という主旨の文だった。このRURALに対応するようなニュートラルに「田舎」をあらわす言葉って、日本語にあったっけ? と探すのだけど見つからない。

『ランダムハウス英和大辞典』によると「RURAL」は、「(よい意味で)田舎[田園]の[に住んでいる]、田舎風の、地方の生活の、田舎者らしい」とあり、「都市に対する地方、田園地帯、田舎を意味する一般的かつ公式の語」と説明されている。

都会ではなく人工物も人口も少ない地域に対する、いちばん中立的で色味の少ない言葉だといえる。

でも日本語の「田舎の」という形容は、あまりニュートラルじゃない。

「田舎」という言葉は、都会にたいして立ち遅れている、洗練や情報やその他もろもろが欠けている、というニュアンスでコテコテに固まっている、ような気がする。

「こういう飛行訓練はたいてい田舎で行われるので」

……というと、バカにしたとまではいわなくても、配慮が足りない感じに聞こえないだろうか?

ヨーロッパにもアメリカにも、もちろん都会と田舎の落差や対立はあるけれど、欧米の田舎は、日本の田舎ほど都会に対して引け目を感じていないように思うのだ。

たとえばヨーロッパの貴族は都会になんか住まず、郊外の田園地帯の領地に邸宅を構えていた。今でも余裕のある階層の人たちは田舎に豪邸や夏の家を構えて、都会は用事のある時に行くところと思っているのだそうだ。

アメリカのRURALな地域に住んでいる人々の間には、この国のスピリットの正当な継承者は都会人なんかではなくて自分たちだという、開拓時代以来の強烈な自負が渦巻いている。この人たちはきっと、都会に対してたとえ敵意を持つことはあっても、絶対に卑屈になることはない。

もちろん、日本にも田舎である地元を誇りに思い、東京なんてなにほどのものかと思っている人たちはたくさんいるのじゃないかと思うけど、全体的に「田舎」という言葉にはまだまだ、都会に対する圧倒的な立場の低さを感じる。

日本では、田舎が当たり前のようにバカにされる場面を、テレビでもその他のメディアでも繰り返し繰り返し見てきたけれど、そのことに対して地元の人が本気で怒る場面は見たことがない。


それでまたまた風呂敷を広げてしまうけど、田舎を徹底的に軽んじる風潮って、もしかして明治の文明開化以来の伝統なのかしらと思うのだ。

もちろん万葉集の時代から僻地はみやこびとにバカにされてはいたけれど、当時の都はきわめて特殊な特権階級の小世界だったから、その世界の外にいる下々の「山賎」たちをバカにするのは当然だった。

200以上の大小のお殿様が小国をつくっていた江戸時代にも、「田舎」というのは今とはぜんぜん違う概念だったことだろう。地方のそれぞれの小国の庶民にとって、江戸や京都は自分たちとはあんまり関係ない世界だったはず。

江戸の庶民は、地方の国々から出張してきてる武士たちを田舎ものと笑っていただろうけど、オシャレにしても何にしても江戸のスタンダードはあくまで江戸でしか通用しないもので、「田舎」には田舎のがっちり独立した誇り高い文化とスタンダードが、階級別にあった。

明治に「帝都」を頂点とするヒエラルキーの中で、日本という国をつくりなおして、外来の文明を超高速で取り入れていく過程で、全国に、都会は正しくて田舎は宿命的に遅れているものだという意識が強く一面的に上書きされていったんじゃないかなあ、なんて思うのだ。

外来のものを急いで取り入れた文明開化では、ミカンとりんごのどっちがいいという話じゃなくて、絶対正しい百点満点があった。都会はいつもお手本だった。という話ではないだろうか。


RURALの訳語で「地方」という言葉はどうかというと、これは行政区画の説明であって、ある状況を描写する形容詞としては曖昧すぎる。とくに外国の情景には使えない。

では「田園」はどうか。これはたしかに、田舎の自然と麗しさを褒め称える言葉ではある。

しかしこの田園っていう言葉は、ツーリストやお殿様や悩む時間を持て余したインテリが使う美辞麗句であって、そこに住んでるふつうの人が自分の土地を呼ぶ言葉じゃないと思う。

そして「田園地帯」は、ヨーロッパの田舎には使えても、アメリカのRURALな地域にはちょっと使えない。

「田園地帯」というとベートーヴェンの田園交響曲や、バルビゾン派の絵画とかピーターラビットの絵本とかに描かれているような、のどかな風景が思い浮かぶ。ゆるやかな丘陵、何代にもわたって手入れされてきた畑や古い森が続く景色だ。

それは日本でいうなら「里山」的な、何百年も人がすぐそばで生活してきた、穏やかに飼いならされた自然の光景だ。

でもアメリカのRURALな地域は、砂漠だったり荒野だったり大平原だったり大湿地帯だったり沼地だったり、どこもその規模が人間の生活のスケールを軽く超えていて、とりとめがない。

その凄まじい広さの中にぽつんぽつんとある小さな町では、それこそ小さな囲いの中の人間の空間を大自然やその他の侵入者から守るため、人は銃を構えて目を光らせている。


記事にあった「RURALな地域」は、砂漠と荒野のところどころに小さな町があるような感じの地域だったのでとても「田園」とは呼べず、悩んだあげくに「辺鄙な地域」「人口の少ない地域」とした。

「辺鄙」が「田舎」より良い言葉だという意味ではないけど、少なくとも「田舎」という言葉が、長年のあいだに負わされていたネガティブな荷物は少ないと思うし、人の気配が濃厚な「田舎」という言葉では、アメリカの荒々しく誇り高い田舎の風景の感覚とはズレてしまうことが多いと思う。

日本語で「地方」を形容する言葉が、ネガティブに使われやすい「田舎」と、おもに部外者視点の美辞麗句である「田園」しかないっていうのは、ちょっと象徴的な気がする。

友人の中にもIターンして温泉の町に住んでいる人や、アルプスの麓で畑仕事をしながら翻訳している人、春になると山菜がざくざく採れる田園地帯で在宅の仕事をしている人もいる。かなり羨ましい。

でも実際に日本の地方がどんな状況なのか、変わりつつあるのかそうでもないのか、住んでみたことのない私にはわからない。

人口はますます都市に集中しているそうだけど、今世紀の後半に生きる日本の人にとって「田舎」はどんな場所なんだろうか。

「田舎」という言葉に新しいニュアンスが加わるのか、日本語のボキャブラリーに田舎をさす新しい言葉は増えるのだろうか。


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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