◇日本の「無宗教」
日本では、あなたの宗教は、と聞かれると、多くの人が「無宗教です」と答える。
わたしも以前はそうだった。
でもこの「無宗教」って、なんなんだろうか。
よく言われることだけど、日本は信仰という面で、とても特殊な場所だ。
たいていの人が葬式にはお坊さんを呼んでお経をあげてもらい、戒名をもらうし、正月には神社仏閣にゾロゾロと初詣に行くし、七五三や受験のときには神社でお守りをもらったりする。結婚式にはそれまで行ったこともない神社で祝詞をあげてもらったり、聖書なんか読んだことなくてもキリスト教の牧師さんに祝福してもらう。
大多数の日本人にとって、行事や人生の節目で挨拶に行く神社や教会やお寺は、いってみれば、役所や空港や劇場なんかとそんなに変わらないのではないだろうか。
中のしくみがどうなっているのかはあんまりよくわからないけれど、しきたりにのっとって作法どおりに敬意を示すことで、何かしらの保証を得たような気がする、というような人が多いのではないか。
初詣に行って柏手を打ったり、お寺で手を合わせることには躊躇がなくても、神は存在するのか、なんて真面目に考えたり、神様との間に個人的関係を築く機会をもつ人は少ないのではないかと思う。みんな人生で充分忙しいし。
もちろん深い信仰を持って生活をしている人もいるけれど、日本では一般に「宗教」という言葉はネガティブな意味合いで使われることのほうが多いのではないかと感じる。
自分の知らない「信仰」に対して、警戒がはたらくのは当然のことだ。とくにオウム事件以降、「信じること」に対して、日本人はさらに警戒するようになったのかもしれない。
◇信心の薄気味悪さ
宗教は、包括的な物語を提供する。個人が神や宇宙とつながるしくみの物語だ。ひとつの物語のなかに存在のすべてを預けることで、個人の実存的不安が解消する。
このしくみは、その外側から見るとたいへん薄気味悪く見える。
自分の住んでいる「物語」、つまり自分が正常だと思っている世界の常識と、まったくかけ離れた前提に立つ話が(その人の)「真実」だと聞かされたら、誰だって居心地が悪くなるのではないだろうか。
わたし自身、30歳頃まで東京近辺で生活していたときには、敬虔な信仰を持っている人を「ちょっと気の毒な人」くらいに思っていた。
実家のすぐ近くにプロテスタントの教会があったので、当然のようにそこの幼稚園に通い、小学校のときには日曜学校にもときどき通って、キリスト教には親しみと憧れを持っていた。仏教にもとても興味があったけれど、葬式以外に接点はなかった。神社は逆にまったく馴染みがなくすこし不気味に感じ、どうつきあったらいいのかわからない対象だったのであまり近寄らなかった。
とくに学問として宗教を学ぶこともなく、のんべんだらりと20代を送って30代になって米国に来てみてまず驚いたことは、「しっかりした信仰を持つこと」が、この国では「ちゃんとした人間」の資質のひとつとみなされていることだった。
もちろんそう考えない人の集団もあるけれど、そっちの方がむしろ特殊といってよく、国のトップに立つ大統領も、キリスト教の神を信仰していることをアピールしなければ絶対に支持を得られない。この国の中心では、まだまだ神はぜんぜん死んでいない。
米国で「無神論者(atheist)である」と宣言するのには、日本人が「わたしは無宗教です」というのとはまったく違う、おそろしく意思的な姿勢を必要とする。それは、語りかける相手によっては、ほとんど「自分は反社会的存在である」と宣言するのに等しい。
わたしは30代前半で離婚という、自分にとってそれまでの人生で最大の「実存的危機」に直面したときに、キリスト教に入信した。そこで出会った信仰は、思ってもみなかったほどリアルな体験だった。
でもその後、福音派キリスト教会が自らの物語と矛盾する進化論をひどく攻撃する姿勢にがっかりして、教会から遠のいた。今は、キリスト教徒である自覚を持ち続けつつも、シアトルにある高野山寺院にご縁を得てときどき寄せていただいているほか、スピリチュアル系の人びとを広く浅くウォッチしている。
米国でアンケートに答えると、「あなたはどのくらい宗教的(religious)ですか?」という質問がある(特にマッチングアプリなんかではものすごく重要な項目なので、必ず出てくる)。「とても宗教的」「まあまあ宗教的」「まったく宗教に興味がない」といった選択のほかに「宗教的ではないけれどスピリチュアル」という選択肢がある。
わたしも、やや不本意ながら、自分をここに入れている。
「宗教的ではないけれどスピリチュアル」というのは、要するに組織的な教会に属して活動してはいないけれど、スピリチュアリティ(精神世界と訳されることもあるけれど、あまり良い訳語はないと思う)に積極的な興味があるという意味だ。ものすごく曖昧なカテゴリーだけれど、今のご時世にはそういうふうに名乗るしかない人が多くなっているということなのだろう。
◇信仰がもたらすものと物語の解体
先に「宗教は包括的な物語を提供する」と書いたけど、信仰がもたらすのは、物語ではない。
信仰は、神や仏やその他名前はなんであれ、人間的存在を越えた存在にすべてを投げ出して向き合うという「体験」だし、そういった姿勢を持って生きることへのコミットメントだ。
そしておそらくそこで得られる最善のものは、その人の中に確実にあらわれる、完全無欠の恵みと愛への確信だ。「救い」と呼んでもいいし「ゆるし」と呼んでも「恩寵」と呼んでもいいけれど、きっと同じものだとわたしは思う。とにかく「自分は全面的につながっている」「愛の中にいる」という確信。
わたしは、これは人間が持つユニバーサルな機能だと思う。そんなことを言うと、正統な宗教者の人に怒られるかもしれないが。少なくともわたしにとってはそのつながり感が、信仰の本質だ。
これはほんとうに内的で身体的な感覚も含む体験なので説明することはできないけれど、家族とかパートナーとか、あるいは犬でも猫でも、ある場所や情景でも、自分にとって本当に大切な誰かや何かと精神的につながる体験、身近で純粋な愛に、とても近い。そして、人の考え方や生き方、現実そのものや身体のあり方までも変える力がある。
わたしは、信仰は必ずしも物語を、つまり宗教を、必要としないのではないかと思う。19世紀にはおそらくほとんど選択肢はなかったけれど、もはや21世紀の現在、自分自身を超えた存在への信頼と帰依を実現するのに、必ずしも一定のストーリーもドグマも決まった導師も必要ではないと思うのだ。むしろ既存の物語の解体を通して、それを実現することができるのではないかと思う。
実際に、いま「スピリチュアル系」と呼ばれている人たちや、いわゆるニューエイジの流れを汲む人たちが共有しているのは、新しい宗教体系ではなくて、ゆるい共通認識のようなもの。
それぞれが神話体系を持っているようにさえ見えるけれど、神学論争みたいなことにはほとんどならず、「あなたがそう思うならあなたにとってはそうなんでしょ」というように、他人の神話を自分の問題としない態度を見ることがある。いい加減だともいえるし、オープンだともいえる。わたしはスピ系のそういういい加減な態度が好きだ。
◇スピリチュアルな国の三島由紀夫
すこし前に三島由紀夫の割腹自殺にいたるドキュメンタリーを見て、あらためて、明治維新から昭和の敗戦を経た日本という国の歴史を思った。
日本は敗戦とともに、国家宗教をなくした。
仏教は日本に伝来して以来たちまち土着の神々となかよく習合されるようになり、飛鳥時代から明治にいたるまで、日本の津津浦浦に神々と仏様たちが見守る独自の精神世界が築かれてきた。しっとりした水蒸気に包まれた小さな土地に生きる人間たちの世界に、千年以上も寄り添ってきた神様ネットワークのエコシステム。
明治になって神道を国家宗教化するためにそれが撹乱され、合祀によって神社7万社が廃止された。この合祀は日本の精神風土を破壊するものだとして、南方熊楠が猛反対したのは有名だ。
20世紀初頭、宿命的に帝国として膨らんでいくしかなかった軍国日本では、現人神をいただくナショナリズムの国家宗教が徐々に社会のすべてを塗りつぶしたあげくに敗戦を迎えて、とほうもない空白を経験した。
三島由紀夫は、敗戦の年、20歳だった。
それがどれほどひどい喪失だったのかは、ちょっと想像も及ばない。国家だけではなくて、国民が文字通り命と生活のすべてをあずけていた価値体系と信仰体系そのものが、一夜にして否定されるなんて、歴史上そうそう何度もあることではない。
その中から、日本社会があっという間に民主主義に切り替えて復興できてしまったことのほうが、むしろ大変な不思議だと思う。
あとの時代のわたしたちは、文学作品などからその喪失の大きさを追体験するしかない。たとえば折口信夫や斎藤茂吉といった歌人たちが、どれほど精神的に追い詰められたかは、敗戦直後に詠まれた痛切な歌にあらわれていて、神国日本という彼らが生きた物語のリアリティとその消失という、事実の重さがひしひしと読み取れる。
強烈な美意識を持つ青年であった三島由紀夫は、戦後、よって立つべき「歴史」という物語、自分がつながることのできる確かな物語を激しく求め、あくまでも「国」と天皇にそれを見出そうとした。
教科書が黒く塗りつぶされたあと、民主主義と「理性」がテレビや冷蔵庫とともに昭和の家庭にやってきた。
わたしの親は終戦時に幼稚園の年代だった。サラリーマン家庭の主婦だったうちの母は、自分の両親たちよりも自分たちのほうがよくものを知っているというスタンスで、新しい戦後という常識の世界を肩で風きるように生きていた。
うちには仏壇も神棚もなくて白黒テレビがあった。もちろん日本中の家がそうだったわけではないけれど、都市部の多くのサラリーマン家庭の文化からは、戦争中の国家宗教はもちろん、それ以前にあった神様ネットワークとのつながりも、すっかり一掃されてしまっていた。
民主主義の青空の下で、戦中に弾圧されていたいろいろな宗教団体も活発に活動したけれど、日本の大多数の人々にとっては、盲信を強要された戦争を脱した今こそは科学と理性こそを精神の置き場所としよう、という輝かしい思いがあったのではないかと思う。
終戦まもなくから1960年代くらいまでの文学作品や評論なんかには、知力だけを頼りに新しい世界を作っていこうとする時代のさかんな矜持を感じる。70年代の安保闘争までは。
一方で、隣組的な同調圧力をかけてくる社会のしくみは変わらずにあって、モーレツサラリーマン社会が高度経済成長をつくりだした。その波に乘れなかった人や乘るのをよしとしなかった人々は、さまざまな精神的な探索に旅立ったけれど、欧米とはちがってそこには対抗すべき対象としてそびえ立つ信仰のかたちがなかった。
西洋ではニーチェさんが「神は死んだ」と宣言したものの、神殺しを自覚して自分自身にとっての神の代役を引き受けようとしたのは一部のタフなインテリさんたちだけで、一般大衆のなかには神は依然として生き続けている。でも戦後の日本人は上から下までみんながみんな、神話をはぎとられてほっぽり出され、残ったのはほとんど形骸化したしきたりと礼節だけだった。
三島由紀夫が夢見たのは、かつて国家宗教が持とうとした「民族」の熱い情熱と美意識、そこへの帰属意識だったのだと思うけれど、もちろんその物語がリバイバルすることなどなかった。
◇神社ガールと物語のない信仰
わたしが幼いときに神道や神社をなんだかちょっと怖いものだと感じたのは、その背景に馴染みがなかっただけでなく、おそらく社会のなかにわだかまり残っていた国家宗教と、敗戦のつらい記憶も働いていたのだと思う。
神をいただく権威に同化を求められること、巨大な物語にからめとられてしまう恐怖と無念さの記憶が、切実さをもって語られていたのが戦後の日本で、精算されるはずもない戦争責任の物語は、消化しきれないままに、神社という存在そのものに影を落としていたんじゃないかと思う。靖国とかだけでなく、一律におおざっぱに。
神道が帝国主義の道具に使われたのはほんの数十年のことだけれど、そのために戦後の日本人と神社のあいだにはずいぶん冷たい距離があいてしまった。
ここ10年ばかりのあいだに日本で起きている神社仏閣&スピリチュアルブームは、戦後70年以上たって機が熟した「リバイバル」といえるのではないかと思う。もちろんキリスト教のリバイバルとはずいぶん性格が違うが、ある意味、信仰のありかたの再生といっていい気がする。
それはもちろん三島由紀夫が目指したような、天皇を中心とする物語のリバイバルではない。もっとゆるやかな、個人的な神様とのつきあいが始まっている。
20代のワカモノたちから50代のおばさんたちまでが、神社という場所を、日本古来の新鮮な聖域として再発見している。それも、神社庁とはぜんぜん関係ない文脈で。御朱印ガールやスピリチュアルガールたちが、神社仏閣にややメルヘンなキラキラした期待を持って押し寄せ、神社仏閣もそれを受け止めて少しずつ変化している、ように見える。
そして、神社にドグマは要らないのだ。なにしろ神社にはもともと教義など存在していなかった。津津浦浦の大小の神社は、その土地の神、精霊、息吹といったものと人間が交歓する場所だったのだから。あとから入ってきた仏様たちも一緒に。
今、「この神社の神様にこういうメッセージをもらった」というような発信をしている人たちの中には、一昔まえまでの霊能者や新興宗教教祖たちとはまったく違う、軽やかさが感じられる人もいる。
もちろん、書籍やブログや動画など、いわゆるスピリチュアル関係の情報には気分が悪くなるようなものも多い。とにかくセンスが悪い人、社会常識を欠いた人、陰謀論に喜んで飛びつく人も多いし、誹謗中傷も目にする。
有象無象の「スピリチュアルリーダー」がいる中で、わたしが好きなのは、エゴが低く、人を攻撃せず、恐怖を煽らない姿勢を貫いている少数の人たちだ。精神世界に恐怖が入りこむと、そこは途端に地獄になる。
彼らの言うことが「真実」かどうかは、わりとどうでも良い。信仰は個人の体験なのだから。むしろその動機がどうであるかを知りたい。
「動機善なりや、私心なかりしか」というのは稲盛和夫さんの経営哲学のひとつだけれど、スピリチュアル界で何ごとか言う人の動機が完全に善でないなら、近寄らないに越したことはない。
宗教の物語には、たぶん、宿命的に恐怖が含まれるのだろう。トランプ支持者が強烈な潜在的恐怖に動かされているように、そして福音派教会が進化論を脅威だと感じるように、物語が確立すると、それを守る力がはたらく。
その恐怖を解体できるといいと思うけれど、それは宗教に対する攻撃では決して実現するわけがない。
一人ひとりが自分の生きている「物語」をすこし離れたところから客観視できれば、そして、自分の世界を規定するものではなく、むしろ「どう使うか」という実用性重視の視点から、数々の物語を見ることができれば、ヒトの社会はものすごく風通しが良くなるだろうし、ほとんどの問題がするすると解決するに違いないと思うのだけど。
他人の信仰のあり方を、批判することも恐れることもなしに、自分のものと同じように敬い、信仰の核にあるもっとも重要なものだけを純粋に共有できるような態度を持つことができたら、それほど平和なことはない。
物語に依存しない信仰のヒントが、お気楽に見える神社ガールたちのスピリチュアリティにあるように、わたしはうっすらと思っている。
【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/