ゆずみそ単語帳[41]デザインとマンガのランゲージ
── TOMOZO ──

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◎デザインランゲージって何だ

靴のデザインを仕事にしているうちの息子と話をしていると、頻繁に「デザインランゲージが…」という言葉がでてくる。

靴のデザインの世界でいえば、たとえば、つま先の形とか、カラーや素材の組み合わせ、ステッチの幅、といったディテールを指し、それらが合わさって醸し出される独自のスタイルが、ブランドや特定のラインの製品の個性になる、ということらしい。

テスラ、Apple、MUJIなど、デザイン性を重視する企業には、それぞれしっかりしたデザインランゲージが確立している。最近では、日産自動車が車種をつらぬく会社としてのデザインランゲージを、全面に押し出してキャンペーンを張っている。

参考:日産デザインランゲージ
https://www.nissan-global.com/JP/DESIGN/NISSAN/LANGUAGE/


で、この「デザインランゲージ」で伝わるものって、何なんだろう。





その「ランゲージ」によってあらわされる独自のスタイルは、特定の「感覚」「感情」「印象」を呼び起こす。それは、日本語で「らしさ」「心地」といった言葉で呼ばれるものだと思う。

その「心地」は、特定の「デザインランゲージ」をもつモノやサービスを、見たり使ったりする人たちのあいだで共有される感覚だからこそ、伝達可能なのだ。

わたしにはスニーカーのランゲージはよくわからないけれど、全世界の「スニーカーヘッズ」たちの間には、どのブランドのどのラインがどういう「心地」をもたらすものであるのかが、言葉によらないデザインランゲージをもって了解されているのだろう。そのどこかに、イケてるかイケてないかの、か細いラインが引かれている。

広い意味では、ファッションや建築のトレンドも、アートのムーブメントも、映画やマンガやアニメも、視覚で表現や伝達するものはすべて、そういったランゲージをもっている。

コンテクスト(つまり先人が何をしてきたか、そこにどのような世界が築かれているか)を理解した上で、そのプラットフォームに自分がどんな新しいものをつけ加えられるか、または新しいプラットフォームをひらくことができるか。視覚のランゲージというのはつまり、そういう一定の世界の理解と経験を共有するもの。

目に見える部分では技法や決まりごとが伝達されるが、もっとも重要なのはそれらが表す「心地」「感覚」という「経験」、つまり何がかっこいいのか、優れているのか、価値があるのか、という美意識をふくむ経験だと思う。

「ランゲージ」というのは、共有する経験を持っている者同士がその経験を交換するツールであり、その集合知だ。数式の理解から、何かがカワイイ、イケてる、素敵だと思う「心地」まで、人間はあらゆる経験を伝達しようとする。視覚だけでなく、数学も音楽もランゲージの機能を果たしている。

言葉が伝えられるものはかなり限定される。言葉に比べて、視覚のランゲージのほうが情報量はとてつもなく多い。

◎言葉の「智」と「情」

一方で「言葉」が伝えるのは論理だけ、かというと全然そうでもないですね。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」と、夏目漱石先生は『草枕』で書いていたが、言葉は「智」も「情」もどちらも伝える。

(感覚と感情とはまったく別ものだけど、ここでは論理の「智」に対する「情」の作用として、いっしょくたに考えてみる)

19世紀末から20世紀の間じゅう、賢い人たちはややもすれば「智」だけが人間の知性を構成しているかのように論を張っていたけれど、じっさいに人間を支配しているのは「情」のほうだ。

コピーライティングは「情」を動かして好感度を上げたり、購買意欲を刺激するためのものだし、政治家の言葉も多くが「情」に訴えるように選ばれている。詩や小説のメタファーは、論理にはついていけない飛躍をもって新しい感覚や認識をひらく。

以前に「サピア・ウォーフの仮説」について書いたことがあったけど、「その人の使う言葉は、その人の考え方を変える(ことがある)」という説は、言葉が、論理を伝えるだけでなくて「情」を喚起するツールでもある以上、当然のことだと思える。人の行動は多くの場合、本人が気づいていなくても、感情に強く支配されているのだから。

翻訳、とくにマーケティング関連資料の翻訳をしていると、言葉のもつ「情」の部分にとても神経を使う。

たいていの形容詞には、ネガティブかポジティブな感情の色がついている。特に日本語は関係性や役割がとても重要視されるので、原文にはない忖度が必要とされる。

企業が消費者向けに出すお知らせなど、原文はいたってニュートラルで率直なものも、日本語にするときには企業側を少し低い位置において、話しかける相手に敬語をつかわないと、すごーく偉そうに聞こえてしまったりする。

単語にも気を使う。たとえば、以前にも書いたが、「田舎」という言葉。

英語で「rural」というのは単に「都会」の反対語で、住んでいる人の少ない地域をさす、きわめてニュートラルな言葉なのだけど、それを「イナカ」という日本語にしてしまうと、原文にはない何かが加わってしまう。その「何か」が「情」の部分だ。

日本の「田舎」と「都会」の関係性と、米国の「rural」/「country」と「city」の関係性はだいぶ違う。

日本ではなぜか、「都会」が偉くて「田舎」は一段下の存在というヒエラルキーが、当然のこととして受け入れられている。そんなことを大声でいう人はいないけれど、それは心情として日本のカルチャーのなかに厳然とあり、絶えずギャグのネタになっている。だから、日本語の「田舎」という言葉には、どうしてもうっすらとネガティブな影がついてきてしまう。

でも、アメリカのruralな地域の人たちは強烈なプライドを持っていて、自分たちの地域が都会より一段下などとは絶対に認めない。

だから、ruralにネガティブな影はないし(田舎を貶めるための表現は他にいくらでもあるが)、countryという語は、垢抜けてはいないけれど温かい真の価値を知る人びと、というくらいのモリモリにポジティブな言葉として受け止められることが多い。

当たり前のことだけど、価値観も歴史背景も生活感覚も違うところでは「智」も「情」も、まったく違う体験を個人にもたらす。だから言語間の翻訳には、そういう体験のギャップを埋める作業が必要になる。

これだけグローバル化がすすんだ現在でさえかなりのギャップがあるのだから、明治維新後の「文明開化」の時代に西欧文化を日本語の文脈に紹介した先人たちの苦労はいかほどのものであったろうか、と思うと気が遠くなる。

◎日本文化の智と情

日々、翻訳の作業をしていて思うのは、やはり日本語には「情」のウエイトが大きいということ。複雑な敬語しかり、相手との関係で「役割」を重視することも「情」の範疇だ。

日本語や日本文化の特殊性というのは、これまでも数限りない人が語ってきたことだけれど、英語と日本語の間を毎日行き来していると、ふたつの言語空間とその土台である文化の違いをイヤでも感じる。

英国という「親」に刃向かって独立した移民の国アメリカは、内部につねに他者をかかえてきた。アメリカは、ネイテイブ部族と黒人奴隷の子孫という抑圧されつづけてきたグループを含む、さまざまな文化をもつグループが文字通り一触即発の状態で同居してきたという、これまた特殊な国だから、言語の「情」の面をすべての話者が共有する(「空気を読む」)ことなどまったく期待できない。

だから、共通の言語空間は理詰めでニュートラルな志向になるし、話しても通じないなら法律の言語でカタをつけましょう、ということで、社会のなかで訴訟が大きなウエイトを占めている。「智」をフルに働かせて理詰めで話し合わないと絶対に理解しあえない他者に囲まれた、絶えず緊張感がある社会なのだ。

それに対して、大陸文化の恩恵を受けつつも海をはさんで距離をおける島国であり、その上長い間鎖国をしてきた日本は、小さな器のなかで繊細に空気を読む社会を築いてきた。「智に働けば角が立つ」と、理詰めで話すと「角が立つ」ことを気にしなくてはならないのは、それが社会で通常期待されている作法ではないからだ。

終戦直後、志賀直哉が日本語を「不完全で不便なもの」として廃止し、フランス語を公用語にしようと言い出したのは有名な話。日本の軍国主義化と無理な全面戦争、そして敗戦という絶望的な状況が、文学のなかで生きてきた作家をして、母語を否定するほどの焦燥感に追い立てたのだろう。

志賀はこの提言のなかで、明治時代に起きた英語を公用語にすべしという議論について、「森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。…恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた」と書いている。

しかしもちろん、言語とはどれもそれぞれに「不完全で不便なもの」なので、何を公用語とするかではなくて、文化のなかに「智に働く」ことが奨励されるシステムが、強く機能しているかどうかのほうが影響力は大きいはずだ。

それはともかく、志賀直哉だけでなく多くの人が日本語が「不完全で不便」と考えたのは、やはり「情」のウエイトが大きく、「智」の部分が埋没しがちなためではないかと思う。

封建主義の江戸から帝国主義の明治大正を経て敗戦まで、「智」を推し進めるよりも「情」に働きかけるほうが国策にかなっていたという理由もあって、智に働かせるインセンティブはそんなに働かなかったのだと思う。

◎日本の視覚ランゲージ

でもたぶんその反面、日本文化は「情」の独擅場である言語の感覚的な面と視覚ランゲージを大きく発達させた。岡本太郎いわく「チマチマした重箱文化」であった日本では、鎖国中に俳諧などの詩歌の言語が庶民階級にもいきわたり、草紙や浮世絵が視覚ランゲージの洗練を深めた。

戦後、マンガやアニメが日本の文化を担うようになっていったのは(なってますよね)、当然の流れなのだと思う。日本ほど全国津津浦浦に器用で才能ある「絵師」が、こんなにたくさんいる国はない。マンガは日々洗練をきわめて、そのランゲージを更新している。

そして、日本文化お得意のモノやコトの擬人化とその視覚化は、「情」の部分の突出の最たるものかもしれない。ものごとをキャラクター化してしまう感性は、分析するのではなくてまるっと包括する「情」の管轄の発現だ。

税関から警察署まで、どこにでもゆるキャラや美少女キャラがあふれている国は、まことに特殊だと思うし、それらのキャラたちにどんな心地や感情、志向が託されているのかは、たぶんほとんどの人が「智」の部分で意識的に取り扱おうとしていないだけに、とても興味深い。

スマートフォンの登場後、日本文化はEMOJIというあたらしいランゲージを世界にひろめた。おかげで、英語のテキストやウェブのコメント欄にも、ハート型の目の顔やウンチや星やいろんなジェスチャーがあふれるようになってしまった。

LINEスタンプはそこにマンガのランゲージを持ち込んで洗練を加えた。iPhoneのメッセージアプリにも、気味の悪いパンダやユニコーンなどのステッカーや、GIFアニメが登場したけれど、爛熟した日本のマンガ文化の機微を反映した、LINEスタンプの洗練にはほど遠い。

ここ10年ほどで、マンガをはじめとする日本の視覚ランゲージが、ずいぶんアメリカの文化に浸透してきたなあ、と思う。ほかの国はくわしく知らないけれど、近年の絵文字の使われ方を見ていると、ほかの文化圏でもかなり浸透してるのではないかなと感じる。

言語と社会はお互いに変化を与えあって、それぞれ変わっていくもの。日本発のマンガやアニメやゲームのランゲージは、21世紀の世界にどう作用していくのだろうか。


【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/