ゆずみそ単語帳[42]スピリチュアルについて話そう
── TOMOZO ──

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◎信じる者と刺客の対話

スピリチュアリティとか信仰とかの話が、もうちょっとふつうに、株式市場や心理学や年金の話と同じようにできるようになってもいいのにな、と思う。

スピリチュアリティというのは、うまい日本語訳がなくてまだおさまりが悪い言葉だけれど、自分とセカイのありかたをどう考えるか、精神をどこに置くか、といった方面の話だ。

神様や魂の存在を信じるかどうか、という話でもある。

「信じる」側と「信じない」側が出会うと、もう宿命的に、どちらかが正しくてどちらかが間違っている、はっきり白黒つけましょう、という果し合いのような議論がはじまってしまいがちだ。

でも、もうそんなケンカは人類にとって何の役にも立たないのが、これまでの経過によってわかってきたのだし、もうこのへんで敵意を捨てて実を取ることはできないものなのか。

20世紀に文明社会の表舞台に立ってきたエリートの人たちは、宗教をすっかり時代遅れのものとして扱ってきたけれど、21世紀のいま、宗教はいまだに人類社会のかなりの部分を右往左往させている。

世界の95パーセントの人々は、なにかしらのかたちで神を信じているという。




宗教が扱ってきた問題は、人間にとってちっとも不要にもなっていない。むしろ、AIの台頭やグローバリゼーションを目の前にして、ますます重要になってきていると思う。

目に見えないもの、個人を超えた崇高な存在につながることへの欲求は、人の奥深いところに刻まれている。それをプリミティブだと退ける人は、自分が何を否定しているのかを知らないのだ。

たしかに宗教は困った事態をあちこちで盛大に引き起こしてきたし、スピリチュアル界では人の弱みにつけこむ商売が、あまりにもたくさん横行してきた。

それにうんざりして警戒するのはわかるが、スピリチュアルの領域には人間の最上の経験が含まれているのも事実だ。それを社会にもっとよい形で反映させる方法がきっとあるはずなのに、と思わずにいられない。

チェス王者で哲学者のジョナサン・ロウソンという人が、社会はスピリチュアルについて真剣に語る言葉を持つべきだ、と言っている。わたしはこれにとても共感する。

2015年の「Why our politics needs to be more spiritual」という記事で、
ロウソンさんは、宗教やスピリチュアルについての英国の人たちの態度を三つに分類している。
https://www.prospectmagazine.co.uk/arts-and-books/why-our-politics-needs-to-be-more-spiritual


一つ目は「スピリチュアル・スウィンガーズ(Spiritual swingers)」つまり、スピっぽい話ならなんでも歓迎してしまう人たち。

二つ目は「宗教的外交官たち(Religious diplomats)」。既製宗教のスポークスマン的立場で、宗教の枠組みのなかから様子を伺う人たち。

そして三つ目が「知の刺客(Intellectual assassins)」。スピリチュアル的なものに嫌悪に近い違和感を感じるタイプで、口をひらく前から論破を目論んでいる。

日本には「宗教的外交官」はとても少ないけれど、「スウィンガーズ」と「刺客」はたくさんいる。

これまでは宗教の枠組みのなかでしか扱われなかった、崇高さや神聖性といった経験について、社会はもっと意識を向けるべきだし、宗教家も「知の刺客」たちも引き込めるような、知的で幅の広いインクルーシブな対話が必要だ、とロウソンさんは主張している。

神学論争ではなく、スピリチュアリティを人間社会が共有すべき価値として語ろうということなのだ。

これは、現状をみてもまったく正しいと思う。

信仰やスピリチュアルについての対話で膠着状態を作り出すのは、自分たちが信じてきた物語だけが正しいのだと主張する、宗教側の人びとの側だけではない。

精神世界の経験について語るボキャブラリーを持たず、すこしでも「トンデモ」だと感じると、瞬速で撃ち落とそうとする「刺客」たちの側でもある。

それが正しいか正しくないかの論争ではなく、信仰という経験が社会と個人にとってどうはたらいているのか、その価値を考え、それを役に立てる、つまり個人と社会の幸福のために使うこと。そちらのほうがずっと重要だし火急の問題なのにな、と思う。

◎新世紀の宗教的人間

宗教学者のエリアーデは、20世紀なかばに、同時代の西洋文明人を「非宗教的人間」としたうえで、「宗教的人間」について論じた。

「宗教的人間は〈開かれた〉宇宙の中に住み、かつみずから世界に向かって〈開いて〉いる。これは彼が神々と交流していること、また彼が世界の神聖性に関与していることを意味する」 と。(ミルチャ・エリアーデ 『聖と俗』、風間敏夫訳、みすず書房、162P)

エリアーデの時代、まともなインテリにとって神(または神々)は過ぎ去った時代の遺物で、彼の論じた「宗教的人間」はおもに文明以前の存在だった。

でも、21世紀のいま、「自ら世界に向かって開き、神々と交流し、世界の神聖性に直接関与している」人たちが、文明社会の中に急増している。それも宗教の枠組みなしに。

日本のスピリチュアル界にも、いろいろな人が現れては消えていくけれど、ここ数年で流れがずいぶん変わったように思う。

20世紀後半には恐怖の大王のような例の導師や、やたらに人を脅しつける霊能者などが世間の注目を浴び、スピリチュアル界のイメージがますます悪化したのだった。

ここのところ、恐怖感を煽らず、高額な物品やセミナーを売りつけたりもせず、押しつけがましくなく、比較的小規模なコミュニティに向かって穏やかに語りかける「スピリチュアルリーダー」や「カウンセラー」が少しずつ増えてきた。

本気で神々と直接的に交流している彼らの多くが説くのは、以下のような結果(体験)を得るためのノウハウだ。

まず、自分が幸せになる実感を味わうこと。そのために、感覚(身体感覚、五感)を磨き、自分にとって何が心地よいのかを知ること。

執着、我、感情の葛藤を手放して自由になること。

そのために、感謝をもって繊細な視点で生活すること。

神(「宇宙」)には善なる〈意思〉があると確信すること。

自分のなかに、神(「宇宙」)の神聖性が直接的に備わっていると確信すること。

万物は聖性を持つ神の体現であり、すべてがつながっていると感得すること。

目に見える他者も見えない存在も尊敬をもって大切に扱うこと。

自分の人生のあらゆる体験に価値があると考えること。

その(「真理」またはノウハウの)情報をどんな宇宙人や天使や使徒や神から聞いたか、どんな「ワーク」によってその感覚や技術を磨いていくのがいいのか、さらにはそれにまつわる前世や輪廻転生や宇宙のなりたちの秘密についての魅力的な物語は、それぞれ重なっているところもあるけれど、みんな微妙に違っている。

でもそこを神学論争に発展させず、「感じ方や見え方はそれぞれだから」と、あくまで他人の考えにこだわらず、ゆるふわに突き放していられるところが、この新世代スピリチュアルの中の人たちのすごさだと思う。

伝統的な宗教の中の人から見れば、教義や神学の体系からはずれたスピリチュアルな人たちはイージーすぎる存在だろう。でも、自分たちの物語に固執する宗教の枠組みが宿命的に無数の戦いを生んできたことを考えれば、そのゆるふわな態度にこそ、ブレイクスルーがあるのではと思う。

◎『奇跡のコース』の信仰3.0

スピリチュアル界で有名なテキストに、『奇跡のコース』というのがある。

ニューヨークのコロンビア大学の心理学教授だった、ヘレン・シャックマンという人が1965年に突然、啓示を受けて書き始め、同僚の心理学教授の支援を得て7年間をかけて完成させた、1000ページを超える3部構成の大冊のテキストブックだ。

このテキストにも、ある種のハイブリッドな寛容さがある。

シャックマンという人は、ある日突然「キリストと思われる存在」の声を聞いて、このテキストの筆記を始めるまでは、アカデミックな世界で野心を持ち成功していた心理学者であり、ひとかどの学者として当然のように無神論者だったという。

現在では22か国語に訳され、勉強会やセミナーも数多く開催されているが、シャックマンさん本人が「カルトの土台となるような意図はしていなかった」というように、宗教の形態は一切とらず、一人ひとりがテキストから直接学ぶ、完全に独学式のテキストであるところが特徴だ。

内容はキリスト教にもとづいているが、従来の教会の教えとはかなり異なる。いってみれば、聖書解釈の脱構築を提供するテキストなのだ。

もっとも大きな違いは、罪、罪悪感、怖れを「幻想」「偶像」としているところかもしれない。

ローマ時代からプロテスタント教会まで、キリスト教会の多くは、人間は罪深い者であり、キリストを通した悔い改めによってのみ救われると教え、強調してきたが、この「奇跡のコース」は、人はもとより罪のない存在としてつくられていて、罪悪感と怖れは単に夢、幻想、「偶像」であることに目覚めることにより、「ゆるし」を得て神の安らぎの中に生きることができる、と説く。

「私は神の慈悲心と安らぎを発見するために犠牲を払うことを求められてはいません」(『奇跡のコース』第2巻 レッスン343 大内博訳、ナチュラルスピリット社刊)

キリスト教には、世の救いのために十字架にかかったイエス・キリストに倣い、犠牲を善きこととする考え方がある。極端な例では、中世の鞭打ち苦行者のように。

しかしこの「コース」は、そんなものは神が望まれることではなく、むしろ犠牲という考え方には、自らと世界を攻撃する暴力的な思いがあるという。救いはすでに差し出されていて、怖れという幻想を捨ててそれを受け取るだけでよいのだと。

「罪悪感はいかなる形であれ、苦痛の唯一の原因」だとするこのコースは、「幻想」特に「怖れ」と「罪悪感」からの脱却を強調する。自らの主観のなかにすべての地獄があり、それを滅却した果てに救いがあるとする考え方は、仏教の教えにも通じる。

「果てしのない絶望の輪のように見えたものの中に、希望と解放の道をひらくためにしなければならないことは、自分はこの世界の目的を知らないと決めることだけです」
(『奇跡のコース』第1巻 29章 VII)

自分が囚われている「攻撃」と「分離」が夢であると知ると、人にもともと備わっていた「純粋な喜びの思い、安らぎの思い、無限の解放の思い」がよみがえる。「コース」は、それを自分自身と「兄弟」である他者にむけて差し出すのが、学習者の使命である、とも教える。

「自分自身のために完璧にあがないを受け容れた人は、この世界を癒やすことができる」と説き、ゆるしは、他者に与えることによって自らも得られる、ということが強調される。

キリスト教の教えの中心にあるイエス・キリストの復活についても、この「すべてが一つである」という認識のもとに説かれている。

「彼は生命を受け容れたがゆえに、死を克服しました。彼は自分自身を神が創造されたままに認識し、そうすることにおいてすべての生きとし生けるものは彼の一部であると認識したのです」 (奇跡のコース』第1巻 教師のためのマニュアル23章、同上)

もちろん伝統的なキリスト教会の多くからは冷たく扱われているようだけれど、私は、これは本当に画期的なテキストだと思う。

世界宗教となったキリスト教が「信仰2.0」だとすれば、これは「信仰3.0」といってもいいんじゃないかとひそかに思っている。

このテキストが説く個人の精神の解放、世界への信頼、他者の尊重は、信仰が個人に提供できる最善のエッセンスなのではないかと思うし、それをこのような「独学」用の形でまとめた現代的なテキストは、信仰についての対話において有効なプラットフォームのひとつになるのではないかとも思う。

このテキストが1960年代なかばのニューヨークという時代と場所に現れたことも、それから半世紀以上たった現在も、ゆっくりとフォロワーを集めていることも興味深いし、大きな可能性を持っていると思う。


【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/