電網悠語:日々の想い[146]これからのWeb、これからのWeb屋
── 三井英樹 ──

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これから自分が何をして食べていくのか、Web屋として。そんな問いは数か月ごとに脳裏に浮かんでは消える。別に答えが見えたから消える訳ではない。不安と展望とが入り混じった状態が浮かぶときで、展望が勝ると考えている時間が惜しくなって沈んでいくというのが近いだろうか。そんな今までの経験と、他のITメディア系の興亡からの推測を重ねている。


いい歳にもなっているし、Webの発展は、一応黎明期から体験していると言ってもいいだろう。気に入ったサイトに出会うたびにソースコードを覗き、マネをする毎日。あ〜そう書くのか、おーこう書くのか。新しい表現に出会うたびに、その骨格を眺めては感心していた。

たいした技術はなくても良かったのかもしれない。#ffffffが白を指定するものだと知っているだけで、「外側」の人たちには驚かれた。個人の技が世界を変えると言いきってしまうほど、SOHOやら個人クリエイターたちが注目を集めた。各自の技を惜しみなく開示し、時代のアクセルを踏んでくれた恩人たちともその頃に出会っている。

そして時代は、個人からツールにシフトして行く。個人のスキルを、ツールが代行できるかのような流れ。オペレーションを重要視し、それを使いこなせることがスキルと呼ばれた。定型的なサイトが増え、巨大サイトが誕生したのも、その頃だ。ツールを使った大量生産を、少数チームでも可能となった。



ツール至上主義は、省みられることなく未だに一部の人たちの中で信奉されている。ツールがヴァージョンアップするたびに、競って買う層。最新オペレーションを教えることこそが大切だと言わんばかりの学校群。けれど、真のクリエイティブがオペレーションの中から生まれるとは思えない。ツールが提供する、ある意味汎用化された利便性は、結局均質化したものを生むことが多く、更にそれらは劣化コピーであることが多かった。

そうして漸く、ツールは持っているだけでは駄目だし、オペレーションが長けていても、感動作が作り込める訳ではないことが、潜在的に広がっていく。同時に、ツールは作り手を楽にさせるという意識から、より高い完成度を目指す際に助けてくれるものという意識も生まれていく。これは後に、コンテンツ・マネージメント・システム(CMS)という領域でも同じ歴史を繰り返す。導入すれば楽になるという幻想は広まってはいるけれど、実際に楽になったという話はあまり聞かない。けれど、担当者が様々な工夫をして、質の高いサービス提供ができるようになったとは聞く。

その辺りはパソコンとも似ている。持っていさえすれば、凄く賢くなった気になるけれど、持っているだけで何が変化する訳ではない。ちょっと使うためには、設定とか諸々正直言って手間がかかる。けれど、キチンと作れば、明らかに一段上の品質のものを作成することができる。夜明けまで格闘するようになったのは、パソコンと格闘すると高品質になると自覚してからだと思える。楽にはしてくれない、でも、満足させてくれる。それがIT系ツールの特性なのだと思う。

そんな高品質をアウトプットにする人達は、徐々に大きな舞台を求めるようになっていく。いや、実際は大きな舞台が彼らを求めたのかもしれない。大企業が、ただ大量なものではなく、高品質な情報提供をするための仕掛け、Webサイトを必要とするようになる。高品質な、という枕詞が付く以上、品質に対する評価指標が存在する。指標はほぼ会社ごとにあり、その品質は実はピンからキリまで存在した。

指標があるところには、評価が伴う。様々なWebスキルが、Web以外の評価軸で断裁されていく。それは今でも続いている。Photoshopの使い手が、Java開発者の評価軸で見られる。鶴と亀とを同じ天秤で測ろうとしているようにも見える。かくして、生産性や効率性や費用対効果(ROI)の話が至るところでなされる。

生産性の高低は議論されるけれど、その評価軸が正当かどうかの議論に、評価される側が呼ばれるはずはない。評価しなければならない状況が正論であることは認めつつ、生産性の良さを考慮して娘や息子と話をするのかという思いも頭をよぎる。効率を求めて伝えて、本当に効率よく進むのか。北風と太陽の話も思い出す。吹き飛ばせば効率良いように思えても、結局旅人がコートを脱いだのは暖かさの故の自発的行動だった。

一つ上の段階に進むたびに、何かしら新しい評価軸の壁に突き当たる。それがWebの進展や進度や深度を測るバロメータなのだろう。そうした測る側の構造も変わりつつ、測られる我々自身も変わっていく。創意工夫のテーブルレイアウトの時代から、情報構造的なCSSレイアウトの時代。セキュリティに対する対策。HTMLという言語における、コードの品質。Webという枯れた技術に見えながら、実は日々深く深く根を伸ばし続けているこの業界。決して歩みが止まっている瞬間すらない。そして下水道管を内包している普通の道路や、年中工事を繰り返している主要鉄道駅と、実はよく似ているのかもしれない。

普通になったからこそ、深化しているもの。一般的になったからこそ、高度なものが求められる世界。ここまで来て、時代は巡っていると意識する。Webサイトって何? という時代に、他社に抜きん出るためにわれ先にWebサイトが構築された。それが、いまやサイトを持たない企業はない状態になった。

「ない」状態から「あって当たり前」状態に。ここでこの種の競争の一巡目が終わったのだろう。「ない」状態での競争から、「あって当たり前」状態での競争へ。次元が一つ増える感覚だろうか。「ない」時代に、一足早くWebの可能性を見出し、投資を始めた担当者の苦労を考える。何度「それは役に立つのか」という問いに答えたのだろう。今、先進的な担当者は、「あって当たり前」という前提で「今あるんだからもういいじゃないか」との問いと格闘しているのだろう。

Web屋も同じ問いと戦っている。HTMLだけなら誰でもかける時代になった。そのスキルだけを見ると、価格競争に入らざるを得ない。「ほとんど書ける人がいない」時代の戦い方と、「誰もが書ける」時代の戦い方は、自ずと変わる。

どこかにヒントはあるはずだ。例えば、花王社長は次のように語る、「商品は機能だけでは売れない。情緒性が必要」。洗剤やシャンプーなどの日用品は、ある意味、どれでも同じでどこででも入手可能だ。その中で、わざわざこれだと思わせ選ばせ買わせる秘訣を、「情緒性」という言葉で示しているのだろう。

  ▼花王の尾崎社長が語る「消費者心理」
   成熟市場では"共感と情緒"がカギ
   < http://diamond.jp/series/psychology_dw/10002/
>

情緒に訴える、感性に訴える。それはより深いコミュニケーションを目指していると言えるだろう。文字情報、イメージ情報を提供するだけでなく、もう一歩先に踏み込んだ交流。形式は同じであろうと、従来よりもレベルの高い方法での交流。一方通行ではなく、相互の交流を意味する場合も多いかもしれない。

ここまで書いて、思わされる。なんだ、それってWebじゃないか。原点回帰である。伝えたいことをより深く伝える。Web屋なら当たり前に考えるべきことを、キチンとやる先に未来が待っている。それをクライアントも求めている。悲観することは何もない。だって、それこそが他社に抜きん出る根幹施策なのだから。


Webサイトを作りながら、コード生産やグラフィック生産が根幹課題ではないことを、各プロジェクトで思い知ることは多い。クライアントからも一番細かな指摘を受ける部分でもあるが、それが問題なのではない。対象となるユーザに、適切なメッセージが、適切に届くのかどうか。「ない」時代のそれらから、「あって当たり前」時代のそれらへの変革。

その変革努力に価値を見出せない人は、「ない」時代にWebに目を向けなかった人達と同種なのかもしれない。ならば、その人たちとは共に未来へ歩んで行けはしない。第一段階ですら、実は登れた人と、登れなかった人たちがいる。既得権にこだわり、従来手法に頼りきった結果は、あまり明るいものへとはつながっていないと言えるだろう。第二段階に差し掛かった今、同時にそうした生き残りフィルターが降りかかっている。いや常に降りかかっているのだろう。

無限ループのように、問いを繰り返し、答えを模索する。でも、原点をぶらさない範囲で、自分にも説得力のある答えの尻尾が見えた気になる。そのアンテナが朽ちていないかを気にしながら、一歩踏み出す。踏み出し続ける以外に道はない。

【みつい・ひでき】感想などはmit_dgcr(a)yahoo.co.jpまで
・mitmix< * http://www.mitmix.net/
>
・iPadでましたね。欲しいです。制作ツールであるMacが、日常ツールに変わって行ってます。Photoshopマシンという名残すら希薄。事実若い人には、そういった意識すらないんだろうなぁ。隔世の感あり。
・最終回ではないです。もう少し書かせてください(笑)