電網悠語:日々の想い[149]今まで、これから
── 三井英樹 ──

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そろそろ年度末である。道路工事を見ながら思う。またこの季節になったなと。同時に before/after の道路の状態と働く人々を想う。綺麗になった頃だけは、評価され、工事中も含めて記憶にも残らない道路工事現場の方々。

まだ子供だった頃、家の周りに舗装されている道は少なかった。目の前の道で、ガリガリと棒切れで絵を描き、ケンケンパと遊んだ。雨の度にどろどろになり、それがまた楽しくて。思えば、そんな時期の方が遥かに短いと思うくらいには生きてきたけれど、強く季節を感じさせてくれた。

それがいつしかアスファルトに変わっていく。もう道端で遊ぶこともなくなった頃だったのかもしれない。それでも真新しいアスファルトの匂いの中、自力で何かした訳でもないのに、なんだかレベルアップというかステージアップしたような錯覚にとらわれたのを憶えている。

アスファルトを流し込み、それをローラーで圧着(?)していく。その工程を見るのも好きだった。怖そうなおじさんに、おらあ見てねぇでどっか行けと言わんばかりに睨まれたものだ。

それがどこでも普通になっていく。今や舗装されていない道路に迷い込んで、ガタガタとした道からの直接信号を受け取ることはほぼない。同時に、工事をじっと眺めることもない。時々見かける女性警備員の姿が珍しかったり、余りに車をさばくのがヘタッピなおじさんの時だけ意識を向ける程度かもしれない。

綺麗であって当たり前。きちんと通れて当たり前。何か特別な配慮を忍ばせても、多くの利用者には分からない。でも、きっと目利きの担当者には、いい仕事をしているのかどうかは分かる。できの良い工事とできの悪い工事があるのだろう。綺麗な道と、そうでもない道とがある。でも、でも、綺麗だからといって工事費用が高くなる訳ではないのだろうな、と。端っこの方が多少残念な仕上がりになっていようが、期間内に終わらせることだけが評価対象なのかもしれない。

そして、そんな当たり前の工事現場があり、もっと注目を集める特別な工事現場がある。スポットライトの当たり方は違っても、そこを通る人達の快適さを支えるための基礎技術は、恐らく変わらない。そして、安全にその工事を進めることも、基本の部分では変わらない。




道が綺麗かどうか、記憶にも残っていない。家でさえ、取り壊しのときになって、あれ、ここに何が建っていたっけと思う。その前の道にどんな表情があったかなんて、考えもしない。それくらい当たり前に、何かが壊され、何かが新たに建てられる。そして当たり前のように風化が進み、定期的にメンテナンスが行われる。とどまるものは何もない。

硬いアスファルトを見ていると、それが磨り減って行く事なんて余り想像しない。できない訳ではないけれど、しない。でも風化していく。気がつかないけれど、消耗していっている。

見えない消耗と日々戦っている人たち。気がつけば朽ちていたと、なる前に対策に着手する。計画的に、数年かけて、あるエリアをくまなく舗装し直すのだろうか。


自分たちのことのように思う。我々もそこに属するのだろうと思う。何を想って実装しようが、その上を人が通る。恐らくは削りながら。どんな想いを込めて作りこんでも、それに気がついてくれる人はまだまだ少ない。でも差はある。差はあると信じたい。

あの人達は、深夜、どんな気持ちで穴を掘り、アスファルトを流し込み、一息入れているのだろう。そういえば、生活時間帯も似通っている気がする。片や、その時間しかできない工事であり、片や祭っ(炎上し)てその時間になっている部分が多いという決定的な違いがあるとは思うけれど。直接話したことはないけれど、きっと使命感があり、楽しさを感じる部分があるんだろう。

きっと、工事の人たちから見れば、我々のモニターにかじりつきながらコーディングやピクセル着色の面白さは分からないかもしれない。我々も、ツルハシの重みも責任も楽しさも分かるとは言えない。でも、お互いの仕事が全くなくなる未来は、そう簡単には来ないだろう。

車が変わろうが、デバイスが変わろうが、そこを走る人間の傾向は急激な変化をしない。でも徐々に変わっていく。それこそ磨耗しているのが分からない道のように、徐々に。でも微細な動きに思うけれど、振り返ると我々は想像以上に遠くに来ている。今でも思う。ほんの10年前に夢想していたことが、いま手のひらの中で動いている。多々不満はあれど、望んでいた未来の片鱗ではある。

'95年前後のパラダイムシフトと叫ばれた頃から、時代が何回か回った気がする。そして、ネットが「普通」になった今、実は更に大きなパラダイムシフトが迫っている気がしてならない。目立った花火ではない。メディアも取り上げにくい微細な動きの連動。でも着実に、一人一人の生活を押し上げる地殻変動。その前兆として、ネットユーザがごっそり入れ替わったとさえ感じる局面も出てきているのではないだろうか。

我々は、そのうねりの中で、様々なことを行っている。その営みの中で、デザインという言葉のもつ意味も、コミュニケーションの実体も、やはり徐々に変えていっている気もする。Webデザイナの未来は、その辺りをどう考えるかによって、明るくも暗くもなる。


そういえば、真新しいアスファルトに、砂埃まみれの運動靴で踏み込んで、その足跡を見つめて、汚してしまったという罪悪感と、初登頂という偉業感の両方を感じたものだった。

無垢の未来に足を踏み入れるのは、実は実は作り手だったりする。そのワクワク感も、この世界から離れられない理由の一つだ。そして、無垢なキャンバスは、かなり技術よりな部分ではあるけれど、まだまだ広大に広がっている。

デザインができること。コミュニケーションができること。技術ができること。そして、作り手ができること。我々の、利用者としての我々の生活を豊かにする術。激動は止まってなんかいない。

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・会社の近所に24時間のドンブリ屋さんがオープン。かなり嬉しい。