電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[181]行け。勇んで。
── 三井英樹 ──

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余りに思い返したくない大きなことが沢山あった年が暮れようとしている。敢えて振り返ることを拒み、なんとか前を向こうとしても、重い何かが足に絡みつく。直接の悲しみに襲われた訳ではないにもかかわらず、背後にそびえ立つ暗闇が、いつしか目の前に回り込んでくる気配すら感じる。

  前途は遠い。そして暗い。
  然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
  行け。勇んで。小さき者よ。
    有島武郎「小さき者へ」
    ・青空文庫:http://goo.gl/LLiiM

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高校の頃に触れた文書に、何度か目を向ける。日本全国「頑張れ!」の連呼の中に静かに佇(たたず)むような言葉。後押しするかのようでいて、それほどポジティブでもない。目の前に開ける道が明るいとも言ってくれない。ただ開ける、と。でも、恐れるなと告げる。そして勇み行け、と。

  いさ・む【勇む】
  心が奮いたつ、勇気が沸き起こる、はりきる、励ます、元気づける、慰め
  る。(iOS内蔵辞書)
※辞書 < http://itunes.apple.com/jp/app/id473493861
>

ハリウッド的な勇ましさじゃない何かが含まれている。心が折れたらお終いだよと響く。他には諸々折れてもしょうがない、でも心だけは折っちゃ駄目だ。勇めるだけの余地は残せ、そしてそれは無理じゃないんだよ、と聞こえてくる。

つくづく日本語っていいなぁと思う。もちろん他の言葉だってその言葉を生んだ土地に住む者たちには特別な響きを持つんだろうけれど、やはり特別な匂いを感じる。特別なエールを感じる、まさに励まされるようだ。






神戸の震災以来、傷ついた人に「頑張れ」と声をかけることに抵抗が生まれた。無理矢理頑張った先の疲れを考えるから、そう声をかけられない。頑張り尽くした人だと分かるから、更には頑張れと声をかけられない。

でも、「勇み行こう」と声をかけるのはどうだろう。もちろん、そう声をかけたら、かけた人も行く。共に行く。たとえ「勇み行け」と言われても、一人ではない感じがする。奮い立つ心のリズムを、一緒に聴いてくれる誰かが隣にいる感じが伴う。孤独にはしない、一人で頑張らせはしない。あなたが勇んでいることの証人に私がなってあげる、だから勇み行こう!

そして、勇み行く先は、元居た場所ではない。もっと先だ。元に戻る旅なら勇む必要はない、郷愁だけで進める。また、元居た場所も天国ではないだろうから、何かしら残念なところもあったろう。でも、勇んで行く場所には、そんなネガティブな要素は少しでも減っていて欲しい。そして勇んで行く限り、何の苦労もない場所を目指しているとも思わない。苦労はあるものだし、悲しみも癒えないし消えないだろう。でも勇んで行こう、もっともっと先へ。



震災の過酷さの前には甘ったれているのかと言われそうだが、この業界の厳しさも今年は増した。3K(きつい/厳しい/帰れない)、7K(3K+規則が厳しい/休暇がとれない/化粧がのらない/結婚できない)と、自虐ネタを言えていた時の方が未だ元気があった。

私の中には、何かが途切れた感がある。ITというか技術の限界を突き付けられた感。今年の漢字は「絆」だそうだが、様々なものを結びつける「強さ」よりも、その「か細さ」に目が行く。自分たちをくっつけていたモノは一体何なのだろうか、いか程のものなのだろうかと考え込んでしまう。

蓄積された情報とそれを使いたい人たち、知らせたいシーズと知りたいニーズ、様々な諸々の事柄と好奇心。それらを結び付けていたか細い糸、ネット。正直、多くの場面でネットは多くの事柄や人やチャンスを結びつけ、この十年余りの間に驚くほどの変化と浸透を果たして来た。Twitterは既存メディアの届かないところで支援の炎を広げた。ホリエモンの捜索依頼リツィートも忘れられない。ネットは一昔よりも確実にリアル世界に影響を強く与えている。

でも何か敗北感を感じる。本当に結べてたのか。必要としている人たちに、必要なものを届けられて来たのか。端的に言えば、「IT」が本当に人の役に立ったのか、という問いだ。地震予知から、諸々の想定、原発の安全神話、そして報道というかニュースの伝達、そして実のある被災地支援。多くの場所で、堅牢さよりも脆弱性を感じさせられた、というのが本音だ。「IT」が実効性を持ちえたのは、実は技術力ではなく、不眠不休でリツィートしていた男気の方だと思えてならない。

被災地に送ったものが、被災者に届かずに*再び*倉庫に積まれる状況がすべてを象徴している。善意とマニュアル対応なのだろうけれどズレている。ネットもどこか寸断されたというか、ちぐはぐに何かが繋がっていない。そうした領域にリーチで来ていなかったという現実を見せつけられた。そこに挫折感みたいなものを感じてしまった。

私は世代的には図書館世代であり、それがネットに夢を重ねすぎているのかもしれない。TVを見て、当初原発が何基あるんだよと腹が立った、海外でウォークスルーできる3D動画が出て来ているのに、細々と成長し続ける模型での説明に耐えねばならなかった。

省庁のサイトは難解だし、メディアは政府発表のコピーをそのまんま画像掲載した。アクセシビリティもマシンリーダブルもあったものじゃない。Webが何かを伝えるという行為をシェープアップさせているとは言い難い状況じゃないか。今までやって来たことは何だったんだろう。



そう考えると、先は遠く暗い。でも、勇み行く者たちはいる。世界が驚く程の礼儀正しさに誇りも感じた。驚くべきスピードで幾つものサービスが立ち上がり、更に多くのそれらを利用したアプリケーションが広まった。少し前まで考えられない程に、開発者の交流は進んでいるように見える。オフ会も勉強会も盛んで、Ustで全世界公開も躊躇すらなくなった。ハッカソンが事もなく行われ、多くの技術者が惜しみなく腕を見せる。もの凄く濃い話をフツーにして、それがまったくフツーに見える様にもなった。

確かに、先は遠く暗い。でも、恐れない者の前に道は開ける。そこがどれだけ明るい未来かは、行ってみれば分かる。今目の前に横たわるチグハグさは、いつか解消されるのだろう。そして振り返ると、沢山の希望に出会った一年でもあった。だからこそ生き残れている。来年は、もっともっと希望に出会える新たな場所で暮らしたい。行こう。勇んで。

【みつい・ひでき】@mit | mit_dgcr(a)yahoo.co.jp
< http://www.mitmix.net/
>
・良き聖夜を、メリークリスマス!
・被災地支援の話で先日ドキッとさせられた。「震災がなくても、この村は終わっていたんだよ」。もちろん過疎のことであり、若者離れの話だ。その台詞にカチンと来た表情は見せるけれど、老人達は悲しく納得しているんだと聞かされた。復興は思っているより、もっともっと奥深く根深い話なのだと改めて。