人間の知性や精神は、オーブントースターやクルマのメカニズムと同じように、小さな部品に分解していけるものなのだろうか?
「そんなものはできるに決まっている」とする考えかたを、還元主義(reductionism)という。
「還元主義」という日本語からはあまりピンと来ないけれど、reductionismという言葉には、なにもかもを単純な原理と単位にreduceしてしまう、つまり「矮小化する」「(意味のないほど)小さなものにしてしまう」というニュアンスがある。
どんなに複雑なシステムも、より単純なシステムに分解できる。というのが基本の考えで、もともとはデカルトさんが17世紀に書いた『方法序説』に端を発するといわれているそうだけど、現在ではこの言葉は、自然科学から数学から社会学から、いろいろな分野で少しずつ違う理論に使われていてすごくややこしい。
ここでは社会学/神学/心理学で私の理解している範囲に絞った話をすると、19世紀にダーウィンの進化論に刺激を受け、神とその原理という輝かしくて神聖なものと人間の絆を教えるキリスト教に対して、高らかに誇らしげに「そんなものはない!」と宣言したのがreductionismの人々なのである。
夢判断のフロイトさんもその先鋒。精神病理は抑圧された欲望の引き起こすものだという思想をさらに宗教全般に当てはめて、その著書『トーテムとタブー』で、宗教や芸術の起源はエディプス・コンプレックスだと言い切っている。つまり、宗教というのは病にすぎないと。
こんな「還元主義」に対して、もちろん、聖なるものを信じる側の人々は激しい批判を展開してきた。
多分、宗教学や心理学方面の分野で「還元主義」という言葉が使われるようになったのは、人間の精神世界をreduce(矮小化)することを批判する立場からなのだと思う。
GoogleのNgram Viewerによると、reductionismという語の用例が急激に増えたのは1960年代以降で、1940年まではほとんど使用例がない。
https://books.google.com/ngrams/graph?content=reductionism+&year_start=1800&year_end=2000&corpus=15&smoothing=3
宗教学者のエリアーデが反・還元主義の代表選手だったし、『夜と霧』で有名な心理学者フランクルも、還元主義はニヒリズムを生むと批判している。
還元主義というのは、対立する立場の人びとからすれば「レイシズム」並みに忌むべき考えかただと言っていい。
「そんなものはできるに決まっている」とする考えかたを、還元主義(reductionism)という。
「還元主義」という日本語からはあまりピンと来ないけれど、reductionismという言葉には、なにもかもを単純な原理と単位にreduceしてしまう、つまり「矮小化する」「(意味のないほど)小さなものにしてしまう」というニュアンスがある。
どんなに複雑なシステムも、より単純なシステムに分解できる。というのが基本の考えで、もともとはデカルトさんが17世紀に書いた『方法序説』に端を発するといわれているそうだけど、現在ではこの言葉は、自然科学から数学から社会学から、いろいろな分野で少しずつ違う理論に使われていてすごくややこしい。
ここでは社会学/神学/心理学で私の理解している範囲に絞った話をすると、19世紀にダーウィンの進化論に刺激を受け、神とその原理という輝かしくて神聖なものと人間の絆を教えるキリスト教に対して、高らかに誇らしげに「そんなものはない!」と宣言したのがreductionismの人々なのである。
夢判断のフロイトさんもその先鋒。精神病理は抑圧された欲望の引き起こすものだという思想をさらに宗教全般に当てはめて、その著書『トーテムとタブー』で、宗教や芸術の起源はエディプス・コンプレックスだと言い切っている。つまり、宗教というのは病にすぎないと。
こんな「還元主義」に対して、もちろん、聖なるものを信じる側の人々は激しい批判を展開してきた。
多分、宗教学や心理学方面の分野で「還元主義」という言葉が使われるようになったのは、人間の精神世界をreduce(矮小化)することを批判する立場からなのだと思う。
GoogleのNgram Viewerによると、reductionismという語の用例が急激に増えたのは1960年代以降で、1940年まではほとんど使用例がない。
https://books.google.com/ngrams/graph?content=reductionism+&year_start=1800&year_end=2000&corpus=15&smoothing=3
宗教学者のエリアーデが反・還元主義の代表選手だったし、『夜と霧』で有名な心理学者フランクルも、還元主義はニヒリズムを生むと批判している。
還元主義というのは、対立する立場の人びとからすれば「レイシズム」並みに忌むべき考えかただと言っていい。
ただし、レイシズムと違うのは、批判されている側が、その考えかたこそ人類の持つべき態度だと思っていること。まったく平行線なのだ。
フロイトさんたち還元主義の人々の主張は、単に自然科学の視点からこの結果が導き出されたという淡々としたものにとどまらずに、それまでの教会の教えに基づく権威に対する、悪意といってもいいような反発を含んでいるように見える。
それはもちろん、相対する教会側の敵意を反映したものだ。
そしてこの構図は、いまもほとんど変わっていない。
2008年にロンドンの自然史博物館で行われた、進化生物学者のリチャード・ドーキンスと、数学者で哲学者でクリスチャンでもあるジョン・レノックスのディベートにも、その対立構図がくっきり。
この討論はYou Tubeで現在も公開されている。
討論のお題は「科学は神を葬ってしまったのか? 宗教はもう時代遅れになったのか?」というもの。
リチャード・ドーキンスは徹底的な無神論の立場から、「宗教はかつて人類が必要としたおとぎ話であり、我々はもうそんな子ども時代の幻想なんか捨てて大人になるべきだ」と主張する。
これに対して、ジョン・レノックスは、信じることの有用性を語っている。
信仰は人びとを実際に救い、人生を豊かにする。とにかくそれは事実であるのだ、と。
わたしは、ドーキンスの苛立ちも分からないことはないけれども、この世に神はいないと主張しても、べつに何一ついいことはないと思う。
ディベート中にレノックスが指摘しているように、「神か、科学か」を選ばなければならないというドーキンスの二者択一的な無神論の立場は、それと真逆の、自分の信じる聖典(コーランなり聖書なり仏典なり)に書かれていることの字義通り解釈のみが正しいと主張する、宗教原理主義者の立場とそっくりだ。
宗教原理主義者と戦闘的還元主義者に共通しているのは、「わたしの見ている現実がこの世で唯一の現実」だと主張してやまないこと、それをすべての人に押し付けようとしていること。
レノックスは現実主義で、「べつに真理は一つでなくてもいいじゃないか、それよりとりあえず結果が出ていることを大切にしよう」という立場。わたしもそう思う。
信仰する人にとって神は現実である。
それは本当に本当の現実であって、実際に奇跡は起きる。
歴史のはじめから人は神と対話をしてきたのだし、何千年もかけてその対話システムを更新してきた。20世紀以降、人類は色々なシステムが共存する世界をなんとか平和に維持しようとしてきたのではないか。
頭脳の数だけ現実があるのだから、神を信じる人に対して信じない人が「神などいない」と大上段に構えて言ったって、対話は始まりはしないし、それで信じる人が減るわけもない。無益なケンカが増えるだけである。
教会に通う人が激減し、「世俗化」が進んでいるとはいっても、アメリカ人の70%は自分を「クリスチャン」だと考えているという。ただしそのうち4分の1は特に教会に通ってはいない。
既製の宗教に進んで参加する気はなくても、育ってきた社会の背景に織り込まれていた神を積極的に否定するつもりはない、という人びとだと思う。
日本人には、「自分は無宗教」という人が多いけれど、完全な「無神論者」という人はやっぱり少数派のようだ。
ICUの教授が学生を対象に行った調査によると、80%を超える回答者が「特に信奉する宗教はないけれど、何らかの神のような存在は信じる」と答えているという。
http://www.ucanews.com/news/lost-in-translation-index-on-japanese-atheism-off-target/75225
つまり、現時点ではまだ日本でもアメリカでも、多分ほかのどの国でも、大多数の人びとが何らかの形で神様、超自然的な存在、または超越的な存在を信じているし必要としている。
そうして、ドーキンスのような還元主義者と、熱烈な宗教原理主義者とがバトルを繰り広げる傍らで、状況は静かに変わりつつあるのだと思う。
松尾豊さんの著書『人工知能は人間を超えるか』(KADOKAWA)を読んでいたら、次のような一節があった。
「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」
思考は計算なのだから、人を超える知能ができると信じる立場、これは究極の還元主義だ。
人間の知能を超える「本当の」人工知能が実現する可能性を荒唐無稽と考えている人は、人間の精神活動のすべてが計算/データであるとは認めないか、計算である可能性を考えてみたことがないかのどちらかだ。
いまのところ、まだヒトの意識というのは何なのか、どういうふうにできているのか、それから生命はどうやって発生するのか、とかそのへんが完全に解明されたわけではないから、還元主義者と神を信じる人の間で、決着はついていない。
でも、実際に人間の知性が再現できてしまったら、その時はドーキンスのような戦闘派還元主義者の究極の勝利になるかというと、意外とそうではないような気もする。
「真理」のしくみは人間の知性には複雑すぎて、すべてを理解できるのは人工知能だけ、ということになるかもしれない。
そのとき、人工知能は「神」に出会うのかもしれない、なんて気もする。
すべての人間が本当に神を必要としなくなる社会がきたら、その時人類は、もういまの人類とは決定的に違った存在になっているはずなのだ。
【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
http://livinginnw.blogspot.jp/
http://www.yuzuwords.com/
フロイトさんたち還元主義の人々の主張は、単に自然科学の視点からこの結果が導き出されたという淡々としたものにとどまらずに、それまでの教会の教えに基づく権威に対する、悪意といってもいいような反発を含んでいるように見える。
それはもちろん、相対する教会側の敵意を反映したものだ。
そしてこの構図は、いまもほとんど変わっていない。
2008年にロンドンの自然史博物館で行われた、進化生物学者のリチャード・ドーキンスと、数学者で哲学者でクリスチャンでもあるジョン・レノックスのディベートにも、その対立構図がくっきり。
この討論はYou Tubeで現在も公開されている。
討論のお題は「科学は神を葬ってしまったのか? 宗教はもう時代遅れになったのか?」というもの。
リチャード・ドーキンスは徹底的な無神論の立場から、「宗教はかつて人類が必要としたおとぎ話であり、我々はもうそんな子ども時代の幻想なんか捨てて大人になるべきだ」と主張する。
これに対して、ジョン・レノックスは、信じることの有用性を語っている。
信仰は人びとを実際に救い、人生を豊かにする。とにかくそれは事実であるのだ、と。
わたしは、ドーキンスの苛立ちも分からないことはないけれども、この世に神はいないと主張しても、べつに何一ついいことはないと思う。
ディベート中にレノックスが指摘しているように、「神か、科学か」を選ばなければならないというドーキンスの二者択一的な無神論の立場は、それと真逆の、自分の信じる聖典(コーランなり聖書なり仏典なり)に書かれていることの字義通り解釈のみが正しいと主張する、宗教原理主義者の立場とそっくりだ。
宗教原理主義者と戦闘的還元主義者に共通しているのは、「わたしの見ている現実がこの世で唯一の現実」だと主張してやまないこと、それをすべての人に押し付けようとしていること。
レノックスは現実主義で、「べつに真理は一つでなくてもいいじゃないか、それよりとりあえず結果が出ていることを大切にしよう」という立場。わたしもそう思う。
信仰する人にとって神は現実である。
それは本当に本当の現実であって、実際に奇跡は起きる。
歴史のはじめから人は神と対話をしてきたのだし、何千年もかけてその対話システムを更新してきた。20世紀以降、人類は色々なシステムが共存する世界をなんとか平和に維持しようとしてきたのではないか。
頭脳の数だけ現実があるのだから、神を信じる人に対して信じない人が「神などいない」と大上段に構えて言ったって、対話は始まりはしないし、それで信じる人が減るわけもない。無益なケンカが増えるだけである。
教会に通う人が激減し、「世俗化」が進んでいるとはいっても、アメリカ人の70%は自分を「クリスチャン」だと考えているという。ただしそのうち4分の1は特に教会に通ってはいない。
既製の宗教に進んで参加する気はなくても、育ってきた社会の背景に織り込まれていた神を積極的に否定するつもりはない、という人びとだと思う。
日本人には、「自分は無宗教」という人が多いけれど、完全な「無神論者」という人はやっぱり少数派のようだ。
ICUの教授が学生を対象に行った調査によると、80%を超える回答者が「特に信奉する宗教はないけれど、何らかの神のような存在は信じる」と答えているという。
http://www.ucanews.com/news/lost-in-translation-index-on-japanese-atheism-off-target/75225
つまり、現時点ではまだ日本でもアメリカでも、多分ほかのどの国でも、大多数の人びとが何らかの形で神様、超自然的な存在、または超越的な存在を信じているし必要としている。
そうして、ドーキンスのような還元主義者と、熱烈な宗教原理主義者とがバトルを繰り広げる傍らで、状況は静かに変わりつつあるのだと思う。
松尾豊さんの著書『人工知能は人間を超えるか』(KADOKAWA)を読んでいたら、次のような一節があった。
「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」
思考は計算なのだから、人を超える知能ができると信じる立場、これは究極の還元主義だ。
人間の知能を超える「本当の」人工知能が実現する可能性を荒唐無稽と考えている人は、人間の精神活動のすべてが計算/データであるとは認めないか、計算である可能性を考えてみたことがないかのどちらかだ。
いまのところ、まだヒトの意識というのは何なのか、どういうふうにできているのか、それから生命はどうやって発生するのか、とかそのへんが完全に解明されたわけではないから、還元主義者と神を信じる人の間で、決着はついていない。
でも、実際に人間の知性が再現できてしまったら、その時はドーキンスのような戦闘派還元主義者の究極の勝利になるかというと、意外とそうではないような気もする。
「真理」のしくみは人間の知性には複雑すぎて、すべてを理解できるのは人工知能だけ、ということになるかもしれない。
そのとき、人工知能は「神」に出会うのかもしれない、なんて気もする。
すべての人間が本当に神を必要としなくなる社会がきたら、その時人類は、もういまの人類とは決定的に違った存在になっているはずなのだ。
【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
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