ゆずみそ単語帳[24]万物は言葉によって成る、のか。
── TOMOZO ──

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「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあった。……万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」
(『ヨハネによる福音書』新共同訳聖書より)

〈言葉にはなにか根源的な力がある〉という考え方は、昔からいろんな文化にみられる。

日本にも「言霊」ということばがある。たぶん、福音書の冒頭でヨハネが言ってるのと似た思想といっていいのだと思う。

言霊のことはひとまずおいておいて、神秘主義や呪術的な考え方ではなくても、言語にはそれを使う人の精神や思考にはたらく力がある、と漠然と感じる人は多いのではないかと思う。

しかし、前回紹介したスティーブン・ピンカーは、この「言語決定説」をバッサリと否定している。

どちらが本当なのか。

わたしは、これは単にモノサシの目盛りが違うから議論がかみあっていないんじゃないかという気がしている。

ハーバード大学の教授にむかって、一介のおばちゃんがモノ言うのも僭越きわまりありませんが、ちょっと今回はピンカー先生に反論してみたいと思います(日本語じゃ聞こえないかな?)。





●サピア=ウォーフの仮説とその時代

言語がその言葉を使う人の世界観の形成にかかわる、という立場で有名なのが「サピア=ウォーフの仮説」。

人類学&言語学者エドワード・サピアは1884年生まれ、1939年没。文化や人種に「優劣」はないと提唱して、20世紀人類学の基礎を築いたフランツ・ボアズに学び、ネイティブ・アメリカンの言語を研究した。

エール大学でサピアの講義をきいた教え子の中に、ベンジャミン・リー・ウォーフ(1897年生まれ、1941年没)という人がいた。

ウォーフは火災保険会社調査員でアマチュア言語研究者でもあり、やはりネイティブ・アメリカンの言語を研究した。

このサピアとウォーフがそれぞれ発表したのが、使う言語はその人の思考様式に影響を及ぼすという「言語相対性」の仮説。

この二人はどちらも、第二次大戦に米国が参戦する前に亡くなっている。二人のこの研究が、1920年代から30年代にかけて行われたというのは意義深い。
それは、まだ「特定の人種は劣った種であり、その文化や言語も劣っている」という19世紀以来の偏見が深く社会に根づいていた時代だった。

たとえば、ナチスは進化論を勝手に拡大解釈したエセ科学をもとに、ゲルマン民族の優秀さと、ユダヤ人その他の劣性を証明しようとしたし、米国南部の白人支配階級の人たちは、黒人が生まれつき劣った知能を持ち、したがってその文化も言語も原始的で劣ったものであると信じていた。

非工業国の人々が知能も文化も劣っているという、帝国主義にはまことに都合のよい信念に対してボアズの人類学は異論をはさみ、「原始的」な社会の人びとも、工業国に劣らず複雑で有効な言語、知識、文化体系を持つと主張した。さらに、文化はその中に生きる人間の思考を規定する、と論じた。

それを受け継いだサピアとウォーフは、さらに一歩論を進めて、人は言語によって世界を理解し、切り分けるのだと論じた。

サピア=ウォーフの仮説を説明する有名な例のなかには、以下の四つがある。

色の名前の数は言語によって違う。

光のスペクトルには物理的に切れめがあるわけではないので、人は言語の色名によってスペクトルを切り分けて認識しているのではないか。

ホピ・インディアンの時間の観念は独特である。時間や空間といった観念も、私たちの言語と文化によって形作られるのではないか。

イヌイットの言葉には、雪を意味する単語が何十もある。これは言語による世界観の違いを示す例ではないか。

ドラム缶事件:「empty(空)」とラベルが貼られたドラム缶に、火のついたタバコを投げ入れて爆発させた作業員がいた。実際にはドラム缶の中には気化したガソリンが充満していた。この作業員は「empty(空)」という言葉によって現実を線引きしていたために、そんなことをしてしまったのではないか。

この四つの例を、ピンカーは著書『言語を生み出す本能』ですべてバッサリと切り捨てている。

人の視覚器官の構造は同じ。64色のクレヨンなら文化により色名に差が出るが、8色入りなら色の種類はほぼ一致する。言語が網膜の神経節細胞をつなぎなおすはずはなく、言語によって色の見え方が変わるということはない。

ホピ・インディアンの時間の観念については、その後のフィールドワークで、西洋人とごく似たものであることが確認され、ウォーフが言うような「過去、未来、継続、持続などを直接に指す語がない」などという特異性はないことが確認されている。

イヌイットに雪の語彙がたくさんあるというのも都市伝説のようなもので、せいぜい一ダースしかないことがわかった。単に「伝説的な蛮人」の言葉だから興味を惹いたのではないか。

この作業員がタバコをドラム缶の中に投げたのは、言葉の線引きにしたがって現実を把握していたためではなく、単にガソリンが目に見えないものだったからではないのか。

また、対照実験の成果はほとんどないとして、ピンカーは「言語が話し手の思考を大幅に規定する、という説の科学的根拠は存在しない」と言い切っている。

わたしはこのピンカーの論は、違うスケールのものを無理やりに同じ次元に放り込んで語ろうとしているとしか思えない。

まずはサピア=ウォーフの仮説をもう少し詳しく見てみたい。

エンターテイメントの中のサピア=ウォーフ仮説

サピアとウォーフがネイティブ・アメリカンの言語を研究していた20世紀前半は、前述のとおり、白人優位の世界観が欧米では世間の常識だった。わたしはこの二人の仕事を詳しく読んだり研究したりしたわけでもなんでもないので、単なる推測だけど、おそらく二人はそのような既存の社会体制に対する批判者であることを自負していたのではないかと思う。

なにしろ、列強が植民地をなんとかして押さえつけようと四苦八苦していたところに、日独伊が帝国への道を爆進していく時代である。

そのさなかに、人の思想や行動はその人の文化、さらには言語のシステムによって変わる、という考え方を提示するのはセンセーショナルだったに違いない。

ウォーフはアマチュア学者であって、実際にフィールドワークをしたことはなかったそうだから、手に入る資料の中でちょっと想像の翼を広げすぎたきらいはあるかもしれない。特に、一般に「未開人」とみなされていたインディアンの文化のなかに、西洋文明社会にはない叡智と答えを求め、ロマンチックな夢を描いていた感じはする。

サピア=ウォーフの仮説を取り入れた小説や映画もたくさんある。

つい最近では、テッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』を原作とする映画『メッセージ』(原題は『Arrival』、2016年公開)があった。

時間を直線ではなく円環として体験している宇宙人と対話をつづけるうちに、自分もその円環的な時の中で、現在と過去と未来を同時に生きるようになる言語学者の物語。つまり、その宇宙人たちの言語を学ぶことによって、時間を経験する方法が変わってしまうという設定だ。

原作はそれがものすごく切ないストーリーのなかでだんだんと明かされていく、とても静かな内省的な物語だけど、映画ではもっとシンプルに地球と人類を救う話に変わっていた(でもドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が宇宙人の言語を目の飛び出るほど美しく映像化しているので、わたしはこの映画はとても好きです)。

伊藤計劃の小説『虐殺器官』(2007年)もまさに、サピア=ウォーフの仮説を下敷きにしたもの。

これは、とある「文法」をある一定の社会の中に仕込むことによって、その言語を使う社会の人たちが残虐な虐殺をはじめてしまうという話(ものすごく雑なネタバレすみません)。

まるでハーメルンの笛吹き男の、笛の音に引き寄せられて行くこどもたちのように、人びとが虐殺文法の不思議なパワーに抗えず、自分でも説明のつかないまでに行動パターンを変えて互いを殺しまくるという話で、サピア=ウォーフの「強い」仮説よりもまださらに強大な力を「虐殺文法」に与えている。

(サピア=ウォーフの仮説には「強い」仮説と「弱い」仮説があるとされている。すごく簡単にいうと、「強い」仮説は<言語は思考を規定する>という立場で、「弱い」仮説は〈言語は思考に影響を与える〉という立場)。

エンターテイメントの世界にもこれだけ頻繁に出てくるという事実からも、世間ではこの仮説が根強く支持されていることがわかる。

●そもそも思考はミルフィーユ

さてそれではピンカー先生への反論に入ります。

ピンカーは、人には非言語的思考をしている、ということを証明する一連の研究結果を、この言語決定論仮説の反証として挙げている。

言語を持たない人も、複雑な思考をしていることが証明されている。赤ん坊も言葉を覚えるはるかに前から、数の概念を持っている(急に視界の中にものが増えるとびっくりする)。

言葉をもたない猿たちも、個体間の血縁関係を記憶している。

アインシュタイン、ファラデー、コールリッジなど、言語によらずイメージで新しい概念を獲得した人の逸話は数多い。物理学者は言語ではなく図形で考えるという。言語が思考を規定するとしたらこれは説明がつかない。

まことに僭越ではあるが、わたしはこれらの点が言語の相対性を否定する根拠とはどうしても思えない。少なくともサピア=ウォーフの「弱い」仮説の反証とはならないんではないか。

たしかに言葉が「虐殺文法」みたいな不可思議なパワーで脳を書き換え、行動を直接的に変えるというのはちょっと荒唐無稽すぎる話ではある。

しかし、そもそも「思考」と言語とはどのような関係にあるのか。

人間の思考について、ピンカー先生はアラン・チューリングの「物的シンボル体系の仮説」「演算理論」「表示理論」を引いて説明する。

つまり、脳は有限個の行動セットを実行するプロセッサであり、そのプロセッサが行う演算が「思考」であると。

それはわかった。でも、どうもピンカー先生は、「思考」=演算を単純にひとつのレベルのものとして扱っているように読めてならない。

だいたい、思考とか意識とかいうのは、非常に大雑把な言葉なのである。

思考は非常に複雑なアルゴリズムであって、ミルフィーユのようにたくさんの層を持っているはずである。

チューリングもピンカー先生も、なぜだかこの点をするっと無視しているようにみえる。

自分の脳がどんな活動をしているか落ち着いてよく見てみれば、その中にはいくつもの層があるではありませんか。

ホルモン分泌や体温調整といったような、普通は自分でも意識できないしコントロールもできない分野の脳活動を一番下の層、会社の業績を分析するとか軌道の計算をするとか憲法の解釈について議論するとかいった抽象的な思考を一番上の層としたら、言語活動はそのまんなかの上あたりから始まるのではないかと思う。

(実際には単純に上下で分けられるものでもないと思うけど、ここでは便宜上、よりはっきり意識にのぼる脳活動を上のほうにある層の活動として考えてみる)

思考のアルゴリズムの大部分は、脳の持ち主であるわたしたちの意識にのぼらない「自動運転」式のものが多い。

朝起きて歯を磨き、会社に行くあいだに脳内で起きていること、すべての意思決定、すべての思考をもしリストにしたら、とてつもなく長い表になるだろう。

歯磨きをどのようにどのくらい絞り出すかとか、パンツをどのように履くかといった選択は、もう何千回もやってきているのであらためて考えるまでもなく自動運転=習慣になっている。

そのうちのほとんどは言語化されないし、そのような活動が脳内で起きていることに自分で気づいてもいないことのほうが多い。「無意識」と言い替えてもさしつかえないと思うが、言語の域にのぼってきていないだけで、これも立派な脳の演算活動である。

これはたぶん、ミルフィーユの真ん中よりもちょっと下くらいにある脳活動なのではないかと私は勝手に思っている。

歯磨きや着替えにとどまらず、思考のあらゆるレベル、ミルフィーユのてっぺんの抽象思考に至るまでが、ある程度習慣に動かされているはずである。

朝起きてから寝るまでの無数の行動と決定を、いちいち言語化していたのでは意識のリソースの使い方が無駄すぎる。いったん覚えたことは自動運転、つまり習慣にすることで、新しいことを学ぶことや新しい意思決定に意識を向けられる。

「なにをどう考えるか」「なにが重要か、どちらが優れているか」「どうふるまうべきか」という価値観や信念も、そうした考え方の習慣の集大成だ。

ボアズのいう文化相対主義というのは、つまりそういうことだと思う。私たちは文化の制約、つまり習慣の範囲内で暮らし、考えている。

(でもこれは宿命ではない。ピンカー先生のいうように心的言語の装置が生得のものならば、その習慣をある程度まで「おや、こんなものが制約になってるよ」と発見していくことも可能なはずなのである。)

さらに思考は情動と深く結びついている。

失恋したあとにどうしても相手のことがあきらめきれないで、どうしようどうしようこのままでは死んでしまうと悩むのも「思考」の一種ではあるが、その思考はほぼ完全に情動に支配されている。

というか、思考を、言葉によって情念を発動する装置にしてしまっている。私自身も覚えが大ありなのだが、世の中にはけっこうそういうふうに無限ループで悩んでいる人が多い。

実は私たちが自律的な思考だと思っているほとんどは、情動や習慣やその他の条件やかなり固まったストーリーや幻想に左右されているのだと思う。些末なものから壮大なものまで。

ユヴァル・ノア・ハラリは『ホモ・デウス』のなかで「大勢の人の間のコミュニケーションに依存した共同主観」が、人間にとって第三の現実を形作っていると述べている。神、貨幣経済、国家などは、言語によって現実化されているというわけだ。

さらに、行動経済学者のダン・アリエリーは、いくつかの例を挙げて、人は自律的に意思決定しているつもりでも、実際は面倒な判断を避けているだけのことが多い、という実験結果を紹介している。
https://www.ted.com/talks/dan_ariely_asks_are_we_in_control_of_our_own_decisions/transcript?language=ja


どうやら「思考」というのは、実はそれほどしっかりしたものではない場合が多いらしい。そして、言語はそれを左右する重要な因子のひとつだ。

「自分」というのは、実は私たちが漠然と思ってるほど確固としたものではなさそうだ、ということもできると思う。

ピンカー先生もそうだけど、インテリの人ほど、思考や意識の確実性を過大評価しがちなのではないかと思う。

●単語に詰まっているもの

コンピュータのアナロジーでいえば、ピンカー先生のいう「心的言語」は、プロセッサを動かす機械言語であろう。

そして前々から思っているのだけど、自然言語はその上で動くOSのようなものだ(だから複数の言語で考えるというのは、macOSとWindowsをひとつのマシンで同時に動かしているようなものだと思う)。

ピンカー先生は「ある言語を知っているというのは、心的言語を単語の列に、単語の列を心的言語に翻訳するすべを知っているという意味になる」と言っている。

しかし、このハードウェアの機械言語である心的言語から、OSである母語への「翻訳」というのは、単なる置き換えではない。すごく創造的なプロセスなのだ。言語間の翻訳も、もちろんある程度の創造的プロセスが必要だけど、心的言語から言語への翻訳のほうがはるかに創造の幅が広くて深い。

これは、私たちが単語を理解するときの、心的プロセスを考えてみるとよくわかると思う。

単語というのは、コンセプトとストーリー、さらには感受性と情動を凝縮した「理解のエッセンス」だと私は思う。

新しい単語をひとつ理解するということは、新しいコンセプトを理解することだ。その言葉が必要とされた背景や条件、そして情緒的なニュアンスを含む単語であればその情緒を体験すること、先人の見つけた表現を学び追体験することも含まれる。

理解というのは体験であって、理解を経た脳は変わる。こまかいことを言えば、シナプスの結合というかたちで物理的なありようだって、ほんのすこし、しかし確実に変わるはずなのだ。

●言語化の作業

ピンカー先生は「人は、英語や中国語やアパッチ語で考えているのではなく、思考の言語で考えている。……概念に対応するシンボルがあり、誰が誰になにをしたかに対応するシンボル配列があると想像される」と言っているが、これはちょっと単純すぎるモデルじゃないかと思う。これではまるで思考の言語とふつうの言語が、一対一対応をしているかのようだ。

ふつうの言語間の翻訳でさえ、単語の一対一対応でことが済むことはない。

心的言語による思考(とピンカー先生が呼ぶもの)は、もっとモヤモヤした形のさだまらないものだと思う。一対一で現象に対応するようなものではなくて、もっとぼわーんとした意味のカタマリに、感覚と情緒もからまっているもの。それを意識のミルフィーユの下のほうからよっこらしょと引き上げて、光に当て、よく見て、いらないものをふるい落とし、言葉を当てはめていく。

言葉を見つけ思考を掘り出すこの作業は、「名づけ」に近いと思う。ぼんやりとしたものに言葉という形を与えて確認する作業。言語化するというのはそういうことだ。そこにはかなりの精神的なエネルギーが必要だ。

言葉はまず、自分の脳内のコミュニケーションツールでもあるのだ。

誰でも、人に話したり文章にしたりしてはじめて、自分はこんなことを考えていたんだ、と気づいた経験があるのではないかと思う。

人に話したり文章を書いたりすることは、自分の思考をいったん外に出し、棚卸しをして調べてみるプロセスでもある。

とくに時間をかけて文章化していくと、思考は頭の中にあったときとは違った立体的な輪郭を取りはじめる。そこではじめて、アイデアが世間に流通可能なものになる。

それはたぶん、アイデアのスケッチから絵画や彫刻や建築の設計図を書き起こしていくのとよく似た、創造的なプロセスといえるのだと思う。

●言葉が思考に影響するプロセス

人の思考と意思決定は、わりと簡単に情動や習慣やその他の因子に左右される。言語もその因子のひとつだとわたしは思う。しかもかなり大きい因子。

母語はもちろん、感覚器官のはたらき方を変えたりはしない。でも感覚器官からインプットされる情報や、その情報を処理するシステムが同じでも、あらかじめ学習された言語がひきおこす情動によって、人間の美意識や指向性や価値観はどんどん変わる可能性があると思う。

言語は、その物語性によって、思考の演算を規定するドライバーである情動と感受性に働きかけるのだと思う。

言語はツールであり、心的プロセスの上に載った装置、オペレーションシステムである。

言語はその上でなおかつ、その人にとっての現実を規定する「言霊」にも呪いにもなりうる力を持っている。

言語はハラリの言う「主観的現実」を作り出すコミュニケーションツールだからだ。

感受性はボキャブラリを生み、ボキャブラリによって育てられる。

イヌイットの雪の単語の数は、西洋人によるロマンチックな妄想によって増幅されたのかもしれない。でも私たちは、日本語に雨や雪を指す単語がとても多いのを知っている。少なくとも1ダースでは絶対に足りない。

「しぐれ」「村雨」「初雪」「小糠雨」「驟雨」「あられ」「ひょう」
といった細やかなボキャブラリは、日本の詩歌の伝統のなかで育まれ、同時に日本語の感性を育んできた。

単語は、それ自体が知識と美意識のパッケージとして、人の感性と理解を育む。これは一方通行ではなくて、双方向のコミュニケーションなのだ。細やかな語彙に感性を育てられた人は、その語彙の新しい使い方を広めていく。

そして、価値感は繰り返し言葉を口に出すこと(アファーメーション)によって強化される。

ピンカー先生は著書の中で「性差別的な思考は性差別的言語のせいだ」と言葉を非難する男女同権論者を小馬鹿にしているが、差別的表現を無自覚に使うということは、その単語に含まれる主観的現実(たとえば、特定の人種は劣っている、男性を補佐するのが女性の役割である、同性愛は治療を必要とする疾患である、など)を許容し、追認する態度によって、そのストーリーと価値観を強化していくことにほかならない。

だからといってむやみに差別用語をほかの言葉に置き換えるだけで、思考をやめてしまってはあまり意味がないのだけど。

そこに差別構造があることを発見するのは、それまで特に不便を感じていなかった人にとってはとても面倒で、精神的苦痛をともなうことだと思う。

他人にとってその言葉が示す現実を知ることは、新しい体験だからだ。自分が慣れ親しんだストーリーの一部を否定しなければ体験できないこともある。

こうして見ると、〈万物は言によって成った〉というヨハネのことばは、意外とあたっているといってもいいのではないかと思う。社会的な現実のほとんどは、言葉の作用なしには体験できないからだ。


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。
マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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