[5120] 大切なことを振り返る/鶴山欣也さんのこと/私とプログラミング(入門)

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《大変な一週間》
 
■装飾山イバラ道[277]
 大切なことを振り返る
 武田瑛夢
 
■Scenes Around Me[82]
 鶴山欣也さんのこと
 関根正幸

■crossroads[96]
 私とプログラミング(入門)
 若林健一
 



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■装飾山イバラ道[277]
大切なことを振り返る

武田瑛夢
https://bn.dgcr.com/archives/20201110110300.html

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さてもう11月。コロナによって変化した2020年。振り返ってみれば、外出の心構えが変わり、日々の緊張感が昨年とは違うものになった。

●最悪の事態も覚悟

今年は母が2月後半に倒れて、一週間の入院となった。母はコロナではなかったけれど、何の病気であっても、誰もが病院に行くのに気をつかい始めていた時期だ。

母にとっては初めての救急搬送で、警察や消防隊員の方にお世話になった。幸い、母は翌日には話せるようになり、私も安堵した。実は倒れた当日、意思疎通が出来なかったので、昨夜が最後の会話だったのかもしれないと、心配する瞬間もあったのだ。

普通、ただの入院の場合は、警察官にお世話にはならないので、説明が必要かと思う(当日のことなので、少々緊迫した内容となることを先に断っておきます)。

その日、私は夕食を持って母のマンションを訪れた。ドアチャイムを押しても出てこない。複数回鳴らしても出てこないので不審に思う。電話を鳴らしても出てこない。昨夜の電話では元気そうだった。私の来る時間は知っていると思うのに、散歩だろうか。

自宅は近いので、夫も呼んで鍵でドアを開けてみる。ドアチェーンがかかっていた。チェーンがかかっているということは、母は中にいるはずなので、緊急事態であることがはっきりとする。

近くの交番にチェーンカッターがあるだろうから、事情を話して来てもらおうということになった。夫に行ってもらい警察官2名と共に到着、何とかチェーンを外せないか試す。無理なのでチェーンの切断を決定。警察官はこの時刻を記録していた。ドアが開いた。

私は最悪の事態も覚悟して、覚悟と言っても簡単ではないので、非常に怖かった。そういう場合、中に入るのは警察官よりも私が先らしい。ドキドキしながら部屋に入ると、暗い部屋のベッドの上で母がまばたきをしているのがわかった。

「生きています!」と私は警察官に伝えたと思う。顔色もさほど悪くなく、手も動かしている。お母さんと呼びかけると、返事はしなかった。普段の様子とはまったく違う。

母のつきそいで夫婦で救急車に同乗した。救急車の中でどこの病院に搬送されるかが決まる。ここで複数の救急病院に電話をしてくれて、希望などを聞かれる。少し待ったけれど、空きベッドがあってよかった。

●連携に感動

病院に着いて、「ご家族は手続き」をと言われ、名前などを記入する。常に母の保険証類を持っていたのでよかった。

お医者様が診てくれている間、夫と待合室で待っていて冷静さを取り戻すと、母が部屋の中から運ばれて救急車に乗り込むまで、助けてくれた方々の連携の素晴らしさが思い起こされた。

警察官の方も「よかったですね」と言ってくれた。誰も言わないけれど、その時は皆が最悪の事態も想定していたからだ。

警察官が夫に、救急車を呼ぶように指示していた声は覚えている。私はとにかく母の様子に集中していた。母はまばたきをしていて意識はあるけれど、なぜか話が出来ない状態だった。

救急救命士の方や、まわりの方のお顔をしっかり見る余裕はなかった。それぞれ2名以上で来るので、5人か6人は部屋にいただろうか。全員マスク姿だったと思う。

それぞれのポジションの方が、次々と現れては職務を果たして引き継いでくれたおかげで、母は無事に病院へ着くことが出来たのだ。感謝。

翌日、入院の正式な手続きと、下着類を届けるために再び病院へ。その前に近所の交番に立ち寄り、昨夜のお礼をした。お世話になったお二人はいなかったけれど、交番へ感謝の気持ちはお伝えすることが出来てよかった。

●結果オーライ

病院へ向かう電車の中では、私は母と再び会話が出来るのかを心配していた。昨夜の救急担当医のお話では、なぜ返事が出来ない状態なのか、いま原因はまだわからないとのこと。いつもの母は、ニュースの話題も普通に会話が出来ていたと話すと、先生は驚いていた。

靴下や下着の追加を購入して、病院受付へ行く。このタイミングでは既に、お見舞いに来る人のチェックが厳しくなっていた。

病室の看護師さんに下着類を渡した時に、「今朝のお食事の時、お母さん元気でしたよ。」と言われた。「!? もう話せるんですか?」「はい。普通に。」自分の名前も言えたそうだ。

意思疎通が出来るようになっていた。結構大切なことだったので、もっと早く知りたかったけれど、結果オーライでありがたい。心底ホッとした。

病室に入った時、母は寝ていた。話しかけると、眠そうだけれど少し目を開けて、うなづいていたので、昨夜とはまったく感じが違った。いつもの母に戻っていたのだ。発見が比較的早くて、それが良かったのかもしれない。

それからは、面会は最小限度の回数でと言われていたので、気をつかいながらお見舞いに行った。結局、一週間で退院できた。退院時は母が昔は苦手で嫌がっていたタクシーに問題なく乗れたし、高齢になるとできるようになることもあると知った。

この入院時に精密検査して飲み薬が変わったおかげか、現在の母は倒れる前よりも元気になった。リハビリ担当の方も体の各部位の動きをチェックしてくれて、特に問題ないとのことだった。

3月以降、世間がコロナで深刻になっていくなかで、家族にとっての大変な一週間を経験していたので、色々な覚悟が決まったようなところがある。すべての医療従事者の方々へ、本当に感謝。

●大切なことだけでいい

母には普段から、下着やパジャマはなるべく最近買ったものを着て欲しかったけれど、着慣れたものばかり着ている。新品があっても、取って置きがちなのだ。揃っているものがあるのに、着るのはパジャマの上と下が違うとか。

以前の私は、母に「急に倒れた時に下着がちゃんとしてないと恥ずかしいかもよ」などと言っていたけれど、イザ本当にそういうことがあると、着ているものなんてどうでもいいものである。

そして、救急車の消防の方々や、交番の警察官の二人組の方達へ、当日何もお礼が言えなかったことを、後で気付いて落ち込んだ。しかし、今はそれでも良かったのだと思えている。どんな時でもキチンとしなければダメだと思い過ぎない方が、本当に大切なことを優先できるのかもしれないのだ。

生きている、会話ができる、ご飯が食べられる、寝られる、会える。こういう大切なことを噛み締めていると、そう大切でないことは切り捨てられる。

私にとっては、しっかりと生活ができることが最高に幸せだ。絵が描けて、趣味が楽しめているのは奇跡みたいなことかもしれない。素晴らしいことは、素晴らしいこととして、共有できる時代にもなっている。

今年は誰にとっても変化の年。自分も周りも世間も世界も、少しでも良い方向へ進んでいければと思う。


【武田瑛夢/たけだえいむ】
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/


ポテトサラダを取り分けるのに、アイスクリーム ディッシャーを買ってみたら、ものすごく便利。半球の形で手元を握ると、スパっとスプーンの中身が落ちるタイプ。割と当たり前な使い方らしかったけれど、人がやっていることって素直にマネした方がいいと思った。ビュッフェとかでもよく使ってますよね。


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■Scenes Around Me[82]
鶴山欣也さんのこと

関根正幸
https://bn.dgcr.com/archives/20201110110200.html

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鶴山欣也さんが、11月3日に54才で亡くなりました。

鶴山さんは大駱駝艦にも在籍した舞踏家で、舞踏工房若衆(YAN-SHU)主宰、また「jet poet」というポエトリーリーディングのイベントを、長年に渡って企画されていました。

私自身は鶴山さんとSNS上でのつながりはなかったので、突然の訃報に驚きました。

鶴山さんのフェイスブックによると、鶴山さんは肝硬変で今年の9月に入院、6リットルもの腹水を抜くなど治療を行なったそうですが、還らぬ人となってしまいました。

鶴山さんの通夜と告別式は11月5、6日に藤沢市内で行われ、私は通夜に参列しました。

私自身は、鶴山さんのことを知ってから20年以上になります。ただ、私は鶴山さんとそれほど親しい間柄ではなく、生前の鶴山さんと一緒に何かを行なうといったこともありませんでした。

それでも、鶴山さんがいなければ知り合えなかった人は確かにいて、間接的な恩恵を受けているので、今回は鶴山さんの思い出について簡単に記すことにします。

鶴山さんを初めて見かけたのは、東京大学駒場寮にあった学外サークル「蟻天獄(アリテン)」だったと思います。鶴山さんは、もともと駒場寮内にあったゼロバーの常連だったそうです。

ゼロバーは1997年に閉店しますが、ゼロバーのバーテンだったテツくんが、ゼロバーを復活させようとアリテン内にバーを開いたため(1998年2月頃)、鶴山さんはアリテンに飲みに来るようになりました。

以前の連載に書いたように、その頃の私はアリテンに寝泊まりすることが多かったのですが、バーにはほとんど立ち入らなかったので、鶴山さんとは一言二言くらいしか話をしなかったと思います。

鶴山さんについて印象に残っているのは、アリテンのクロージングパーティー(1998年9月30日)の写真です。

https://live.staticflickr.com/7910/32985321988_902904d71b_c

この写真は以前に紹介したことがありますが、写真の中央に向かい合っている鶴山さんと、上々颱風の白崎映美さんが写っています。

鶴山さんと関わりをもったもう一つの場所は、2006年から2007年にかけて半蔵門にあったarts1stでした。

http://arts1st.jugem.jp


arts1stは、取り壊しが決まった建物を期間限定で利用していました。建物はダンサーの相良ゆみさんの、御実家が所有していました。表通りに面して喫茶店が入った3階建(相良ビル)で、その裏にテナント貸ししているビル(新相良ビル)がありました。

arts1stは相良ビル1階の喫茶店跡を展示・イベントスペースとして使っていましたが、その上の階で鶴山さんが舞踏のワークショップを行っていました。

arts1stのことは、駒場寮時代に知り合った、ミュージシャンのノブナガケンくんや絵描きのユミコフさんを通じて知りました。

おそらく、ユミコフさんがarts1stでライブペイントを行なうと、告知してくれたのだと思います。ノブナガくんやユミコフさんも、やはり鶴山さんとの共通の知人でした。

https://live.staticflickr.com/65535/50568096456_7baa172fdd_c

写真は、arts1stのクロージングイベント(2007年6月2〜3日)の時のものです。イベントは、テナントが出てしまった新相良ビルで行われました。鶴山さんの後ろでギターを弾いているのは、ノブナガくんです。

この後、ユミコフさんがライブペイントを行なったのですが、部屋が暗くシャッターを長く開けたので、鶴山さんとわかる写真がこれしかありませんでした。

arts1stのことは、今後の連載で取り上げるつもりです。

鶴山さんの活動を最後に見かけたのは、昨年、群馬県の中之条町で行われた「中之条ビエンナーレ」です。

私はビエンナーレ最初の土曜日(2019年8月24日)に、中之条に行ったのですが、8月24〜25日に暮坂峠近くの会場で、鶴山さんの公演があるという情報を目にしました。

ところが、私はその時日帰りの予定だったので、鶴山さんの踊りを見ることはできず、後日会場を訪れたときに、鶴山さんの映像が流れていることを確認して終わりました。

あの時は、鶴山さんがこれほど早くに亡くなると思っていなかったので、また何かの機会があれば、という気持ちだったのですが、その機会が訪れることはありませんでした。

鶴山さんの御冥福を祈ります。

鶴山さんの追悼にかこつけて告知をするのも気が引けるのですが、私が参加しているユニット111のイベントが、11月22日15時から30分程度(雨天の場合、11月23日に延期)飛鳥山公園で行われます。
https://blog.goo.ne.jp/111yanaka/e/462d27398120cc67bf1f7e91a784e104


111は大塚秀記さんの朗読、オオナカエイジくんの踊り、私(関根正幸)の音響の3人組です。3人のうち、エイジくんとはarts1stで知り合いました。

エイジくんはもともと鶴山さんのワークショップに参加していたのですが、ユミコフさんがエイジくんをライブペインティングのモデルとした、イベントを行いました。ライブペインティングは、踊っている最中の踊り手の身体に絵を描くというものでした。

https://farm4.static.flickr.com/3431/3786980865_023da7304a_b

イベントの打ち上げで、エイジくんが私と同じく谷中・根津・千駄木界隈に住んでいることを知り、そのことが111を結成する一つのきっかけになりました。

そういう意味で、鶴山さんがいなければ、111は結成されなかったかもしれません。


【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://sekinema.com/photos


1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な、自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔


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■crossroads[96]
私とプログラミング(入門)

若林健一
https://bn.dgcr.com/archives/20201110110100.html

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こんにちは、若林です。

今回は、私がプログラミングの世界に入るまでについての話の続きです。
前回までの記事はこちら。

私とプログラミング(前夜)
https://bn.dgcr.com/archives/20201006110100.html


私とプログラミング(出会い)
https://bn.dgcr.com/archives/20201020110100.html


■キーボード一体型Raspberry Pi 400発売

本題に入る前に、新しいRaspberry Piの話題を。Raspberry Piといえば、基板が剥き出しの教育用PCですが、新しく発売される『Raspberry Pi400』はキーボードの筐体(きょうたい)の中に入っていて、キーボードにマウスやディスプレイを接続して使うという、ちょっと変わった形のPCです。

Raspberry Pi 400発表のご案内
https://raspberry-pi.ksyic.com/news/page/nwp.id/99


これが若い人の間では、「斬新」「この発想はなかった」と盛り上がっているそうですが、80年代の8bitマイコンはNECのPC-8001やコモドール64に代表されるように、キーボード一体型が一般的でした。

8bitマイコンの時代から40年経って、またこんな形のPCが出てきたというのは、8bitマイコンでプログラミングの入門をくぐった身として、感慨深いものがあります。

■取扱説明書が入門書

ようやく手に入れた念願のマイコン、当時の8bitマイコンにはOSというものがなく、もちろんマウスもなかったので、動かすためにはBASICの命令をキーボードから入力する必要がありました。

動かすための唯一の方法がBASIC言語なので、当時のマイコンには必ずBASIC言語のマニュアルがついていました。それも単なるコマンド一覧とか、リファレンスではなく、プログラミングを学ぶための読み物になってるのです。

このマニュアルは復刻版として、シャープが運営する電子書籍ストア『COCORO
BOOKS』で無料ダウンロードできます。よかったら読んでみてください、読み物としても面白いと思います。

復刻MZシリーズ冊子
https://galapagosstore.com/web/book/category/%E6%9B%B8%E7%B1%8D/series/45781


COCORO BOOKSでは昔の家電製品やコンピュータの商品カタログを、復刻版として無料ダウンロードで提供しています、私と同年代以上の方には懐かしいものばかりですので、よろしければこちらも。

電子書籍で復刻!レトロ家電カタログ
https://galapagosstore.com/web/catalog/top


プログラミングの入門書がコンピュータについているなんて、今では考えられないですね。昔のMac(Macintoshと呼ばれていたころ)には、マウスの操作方法やコンピュータを使う時の正しい姿勢などが、マニュアルに書かれていたのも、今の若い人に信じられないと思います。

■マイコンBASICマガジンでステップアップ

もうひとつのプログラミング入門書は、『マイコンBASICマガジン』です。私と同年代のマイコン少年なら、誰もが知っている本です。

最初は『ラジオの製作』という電子工作の本の別冊付録だったものが、マイコンブームに乗って独立したもので、読者が投稿したBASICプログラムが主なコンテンツでした。

そのほとんどがゲームで、マイコンが欲しかった理由のひとつ(そして最大の)が「ゲームをやりたい」だったので、投稿された本をせっせと入力していました。

最初の頃は意味もわからず、ただ本を見ながら入力していただけなので(業界では写経と呼ばれるやつです)動かなかった時の原因を調べるのが大変。とにかく本と見比べていくしかありませんでした(そしてたまに、掲載されているプログラムが間違っている)。

しかし、それを繰り返していくとコツがつかめるようになってきます。自分の中でデザインパターン(定番のプログラムの手順)ができてきて、自分でプログラムが作れるようになり、他機種向けのプログラムを移植できるようにもなりました。

今のプログラミング言語と違って、当時のBASICは機種によって微妙に違っていたのです。

たとえば、カーソルの場所を指定する命令が、MZだと "CURSOR" だったのが、他機種のBASICでは "LOCATE" だったりと、記述方法が微妙に違っていたのです。とくにシャープのBASICは、他のメーカーと違うところが多かったと記憶しています。

機能面でも多くの違いがありました。他機種のBASICにはあるけれど、MZのBASICにはない命令があり、そういった命令を使ったプログラムを移植する場合は、自分で同じ機能を実現しなければならなかったのです。

マイコンBASICマガジンに掲載されている投稿プログラムも、MZ向け以外のものの方が多かったので、頑張って他機種向けのプログラムを移植しましたが、命令の違いに苦しみながらやり続けたものです。

BASICの仕様の違いに苦しめられていたころ、ソフトウェアメーカーからMZで使えるBASIC言語が発売されることに。

MZは起動時にBASICをテープ(音楽用のカセットテープです)から読み込む仕様だったため、サードパーティ製のBASICが使えたのです。

このBASICは機能的に他機種のBASICと近く、使いやすかったので迷わず購入。それから純正のBASICを使うことはほぼありませんでした。

多機能な分、メモリ容量の消費が多くユーザーエリア(自分のプログラムを入れるメモリ容量)が小さくなりましたが、これもコンピュータの内部を知るには良い経験だったと思います。

この時はまだ、自分が仕事としてソフトウェアに関わるとは夢にも思っていませんでしたが、思えばこの時に自分のソフトウェアエンジニアとしての基礎ができていたのでしょう。

マイコンを手に入れてからは、せっせとキーボードに向かう毎日でしたね。お金のない子どもには手取り早いプログラムの入手方法でしたが、それ以外にもプログラムを手に入れる方法はありました。

次回は、当時あったソフトウェアに関する商売や、ソフトウェアのコピーについてお話したいと思います。


【若林健一 / kwaka1208】
https://crssrds.jp/aboutus/


「エレクトロニクスラボ - ものの仕組みがわかる18の電子工作」
https://www.amazon.co.jp/dp/4873119243/



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編集後記(11/10)

●松田学コラム、絶対オススメです。大阪都構想も米大統領選挙も、メディアや特定勢力による工作で民意の形成プロセスに不健全な歪みを生じさせたことが、結果を大きく左右した選挙だったことがよくわかりました。わたしが梅田さんと呼ぶバイデンが大統領となる国は、間違いなく分断と格差が激化する。対中国はどうするんだろう。やはり安倍ちゃんの復活が、世界の為に必要だと思うんだけど。(柴田)

松田学コラム コロナとメディアがゆがめた都構想選挙と米大統領選~トランプ勝利のシナリオとは?~

https://matsuda86.wixsite.com/column/post/コロナとメディアがゆがめた都構想選挙と米大統領選-トランプ勝利のシナリオはある



●アイスクリーム ディッシャー欲しくなってきた。/売電でしょう! 梅田は「うめだ」以外に読めない!

/大阪市廃止は否決、の続き。府のお金を市に渡して代行してもらうみたいな。まぁこれも府と市が同じ方向を向いている必要はあるけどさ。

で、近隣の市から大阪市に合併させてよ〜という話がでてきて(実際にそういう話はあった)、大阪市に合併させていくと、大きすぎるから、今の枠組みのまま分割します? 大阪市なんとか区(4つ)、守口区、八尾区にします? なーんて前向きな分割話になったり?

と書いてたら、条例を変えて、二重行政にならない仕組み(権限範囲の分離)を模索してるんだって。24区は多すぎるからと8区への合併も。いい形になりますように。(hammer.mule)