白石昇です。
なぜ彼がここにいるのだろう? と僕は思ったが、彼が上下のトレーニングウェアに身を包んでいるのに気づいて、僕は、ああ試合なのだ、と思った。彼のリングネームはヨドシン・チュワタナ。国際式の泰国バンタム級チャンピオンで、確か東洋太平洋チャンピオンにもなったことがあるはずだ。
僕は一度彼のジムを取材に行き、スタジアムでタイ式の試合を見たことがあった。彼の試合は半身に構えて遠い距離からミドルキックを蹴る珍しいスタイルで、そのとき観た試合では見事に判定勝ちした。
なぜ彼がここにいるのだろう? と僕は思ったが、彼が上下のトレーニングウェアに身を包んでいるのに気づいて、僕は、ああ試合なのだ、と思った。彼のリングネームはヨドシン・チュワタナ。国際式の泰国バンタム級チャンピオンで、確か東洋太平洋チャンピオンにもなったことがあるはずだ。
僕は一度彼のジムを取材に行き、スタジアムでタイ式の試合を見たことがあった。彼の試合は半身に構えて遠い距離からミドルキックを蹴る珍しいスタイルで、そのとき観た試合では見事に判定勝ちした。
蹴り足を捕まれたまま殴り合い、片足で立っているのに相手に殴り勝っていたほど、彼のパンチが強かった。半身に構える不思議なスタイルはテコンドーのナショナルチームに所属していたからなのかもしれないが、僕はそんな彼のスタイルが不思議で記憶に強く残っていたのだ。
彼は比較的温厚な人格の人が多いボクサーの中でもさらに温厚な人で、僕が試合を見に行ったときは、セコンドやジム関係者がまだ一人も来ていないのに、控室でひとりでつっ立ったままセコンド道具一式を手に持ち待っていた。
その彼が今、空港のゲートにいる。彼は僕がいることに気づかず電話で話し続けていたが、彼の近くに座っていたジムの人が、僕の姿に気づいて挨拶してきた。試合に行くんですか? と僕が合掌しながら聞くと、ジムの人は、うん、東京で試合するんだ、と言った。
こんな寒い時期に東京で試合だなんてすごいなあ、と僕は正直そう思った。五日前に日本から来て毛穴が開いたくらいで日本に帰るのを恐れている僕とはレベルが違う。この暑い国に住んでいる人間が寒い日本に行っていきなり日本のチャンピオンクラスと試合をするのだ。
僕はさっきまで不安におびえていた自分が恥ずかしくなった。日本はなんだかんだ言って僕にとってホームでしかない。今、この目の前で電話している彼にとっては、まぎれもなくアウェーなのだ。家族想いの人だと聞いていたので、おそらく、奥さんと話しているのだろう。
彼の電話は全然終わらなかった。そのうち、僕の搭乗時間が来たので、立ち上がってジムの人に挨拶し、まだ電話をしている彼のところに行って、勝って下さいね、と言って無理矢理受話器を持ってない方の手を握りしめた。彼は慌てたように僕の手を握り返して、ほんの一瞬だけ笑顔を見せた。僕はどうやら間違いなく、出発前の彼と奥さんの会話を邪魔したようだった。
飛行機に乗ってしまうと、なんだか悩んでいたのが全て馬鹿馬鹿しくなって来た。日本に送った二千七百冊ものエロ本が完売することが難しいことのはわかっていた。半分売るのだって難しいだろう。
取次を通していないし、そんなに集客数が集まる販売サイトで売れるわけでもない。でも僕は既に、そんなことで悩むのが馬鹿馬鹿しくなっていた。
離陸した飛行機の座席で、僕はすかさずビールを注文し、ほとんど一気と言っていいほど飲み干す。飲みながら、売れなくても売り続けるのだ、と思った。
ヨドシンさんが十二月の日本での試合を受け、応援する人がほとんどいないアウェーのリングで戦うのと同じように、僕も日本でエロ本を売り続けなければならないのだ。
契約を交わした以上、どのようなリングであっても試合するのがプロのボクサーなら、本を作った以上、どんな状況でも売り続けるのがプロだ。それにいま僕がこの飛行機に乗って向かっているのは日本だ。僕のホームである、日本なのだ。
世界的に物価が高いことで知られる経済大国なのだ。たとえ一冊も売れなくても、四ヶ月もアルバイトを続ければ出版費用はきれいさっぱり返済できる。何も怖いものはない。機内食を食べてビールを飲みながらそんなことを考え、僕は新たに機内食をおかわりしてビールを飲み干す。
そして新たに渡された機内食をビールで流し込みながら僕は、売れないことを日本の書籍流通システムのせいにして愚痴を言うのは簡単だけど、そんなことしても意味はない。どう行った形であれ本を作って売り続けることに意味があるのだ、と思った。
飛行機は次第に高度を下げて台北に向けて着陸態勢に入りつつあった。降りて一度乗り換え、次に降りたときはもう九州だ。
僕は、窓の外に見える雲の切れ間を視線でなぞりながら、死ぬまで売り続けてやる、と思っていた。〈了〉
皆様へ。
今バックナンバーを調べたらこの連載の第一回は平成十三年の「No.0865 2001/05/24.Thu.発行」となっておりました。途中何年か休みましたが、五年間も読んでくださった読者の皆様、どうもありがとうございました。特に、いろいろとご尽力いただいた柴田編集長、濱村デスクには感謝の気持ちでいっぱいです。みなさま、長い間本当にありがとうございました。
【しらいしのぼる】< http://www.mag2.com/m/0000012912.htm
>
言語藝人。昭和44年5月1日長崎県西彼杵郡多良見町生まれ。『抜塞』で第12回日大文芸賞を受賞。訳書にノート=ウドム・テーパニット『エロ本』『gu123』。
バックナンバー
< http://ana.vis.ne.jp/ali/antho_past.cgi?action=article&key=20050618000038
>
< https://bn.dgcr.com/archives/18_/
>
エロ本販売サイト↓
< http://hp.vector.co.jp/authors/VA028485/erohonyakaritenpo.html
>
報道実績
< http://hp.vector.co.jp/authors/VA028485/erohonyakaritenpomedia.html#erhn-press
>
書評リンク集(書評wiki)
< http://mystery.parfait.ne.jp/wiki/pukiwiki.php?%A5%CE%A1%BC%A5%C8%A1%E1%A5%A6%A5%C9%A5%E0%A1%A6%A5%C6%A1%BC%A5%D1%A1%BC%A5%CB%A5%C3%A5%C8
>
mixi —エロ本コミュニティ
< http://mixi.jp/view_community.pl?id=38847
>
彼は比較的温厚な人格の人が多いボクサーの中でもさらに温厚な人で、僕が試合を見に行ったときは、セコンドやジム関係者がまだ一人も来ていないのに、控室でひとりでつっ立ったままセコンド道具一式を手に持ち待っていた。
その彼が今、空港のゲートにいる。彼は僕がいることに気づかず電話で話し続けていたが、彼の近くに座っていたジムの人が、僕の姿に気づいて挨拶してきた。試合に行くんですか? と僕が合掌しながら聞くと、ジムの人は、うん、東京で試合するんだ、と言った。
こんな寒い時期に東京で試合だなんてすごいなあ、と僕は正直そう思った。五日前に日本から来て毛穴が開いたくらいで日本に帰るのを恐れている僕とはレベルが違う。この暑い国に住んでいる人間が寒い日本に行っていきなり日本のチャンピオンクラスと試合をするのだ。
僕はさっきまで不安におびえていた自分が恥ずかしくなった。日本はなんだかんだ言って僕にとってホームでしかない。今、この目の前で電話している彼にとっては、まぎれもなくアウェーなのだ。家族想いの人だと聞いていたので、おそらく、奥さんと話しているのだろう。
彼の電話は全然終わらなかった。そのうち、僕の搭乗時間が来たので、立ち上がってジムの人に挨拶し、まだ電話をしている彼のところに行って、勝って下さいね、と言って無理矢理受話器を持ってない方の手を握りしめた。彼は慌てたように僕の手を握り返して、ほんの一瞬だけ笑顔を見せた。僕はどうやら間違いなく、出発前の彼と奥さんの会話を邪魔したようだった。
飛行機に乗ってしまうと、なんだか悩んでいたのが全て馬鹿馬鹿しくなって来た。日本に送った二千七百冊ものエロ本が完売することが難しいことのはわかっていた。半分売るのだって難しいだろう。
取次を通していないし、そんなに集客数が集まる販売サイトで売れるわけでもない。でも僕は既に、そんなことで悩むのが馬鹿馬鹿しくなっていた。
離陸した飛行機の座席で、僕はすかさずビールを注文し、ほとんど一気と言っていいほど飲み干す。飲みながら、売れなくても売り続けるのだ、と思った。
ヨドシンさんが十二月の日本での試合を受け、応援する人がほとんどいないアウェーのリングで戦うのと同じように、僕も日本でエロ本を売り続けなければならないのだ。
契約を交わした以上、どのようなリングであっても試合するのがプロのボクサーなら、本を作った以上、どんな状況でも売り続けるのがプロだ。それにいま僕がこの飛行機に乗って向かっているのは日本だ。僕のホームである、日本なのだ。
世界的に物価が高いことで知られる経済大国なのだ。たとえ一冊も売れなくても、四ヶ月もアルバイトを続ければ出版費用はきれいさっぱり返済できる。何も怖いものはない。機内食を食べてビールを飲みながらそんなことを考え、僕は新たに機内食をおかわりしてビールを飲み干す。
そして新たに渡された機内食をビールで流し込みながら僕は、売れないことを日本の書籍流通システムのせいにして愚痴を言うのは簡単だけど、そんなことしても意味はない。どう行った形であれ本を作って売り続けることに意味があるのだ、と思った。
飛行機は次第に高度を下げて台北に向けて着陸態勢に入りつつあった。降りて一度乗り換え、次に降りたときはもう九州だ。
僕は、窓の外に見える雲の切れ間を視線でなぞりながら、死ぬまで売り続けてやる、と思っていた。〈了〉
皆様へ。
今バックナンバーを調べたらこの連載の第一回は平成十三年の「No.0865 2001/05/24.Thu.発行」となっておりました。途中何年か休みましたが、五年間も読んでくださった読者の皆様、どうもありがとうございました。特に、いろいろとご尽力いただいた柴田編集長、濱村デスクには感謝の気持ちでいっぱいです。みなさま、長い間本当にありがとうございました。
【しらいしのぼる】< http://www.mag2.com/m/0000012912.htm
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言語藝人。昭和44年5月1日長崎県西彼杵郡多良見町生まれ。『抜塞』で第12回日大文芸賞を受賞。訳書にノート=ウドム・テーパニット『エロ本』『gu123』。
バックナンバー
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