ローマでMANGA[80]日出る国で修行した二人のイタリア人マンガ家
── midori ──

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90年代に講談社のモーニングが、海外の作家の書き下ろし作品をのせるという前代未聞の企画を遂行していたときにローマで「海外支局ローマ支部」を請け負って、そのときのことを当時のファックスをスキャンしつつ、それをもとに書いているシリーズです。


前回に予告しました、イタリアのマンガ雑誌1995年6月号のlinus(リヌス)の我らがイゴルトとヨリの特集記事をお送りします。オレスト・デル・ブオノ氏/linusの責任者)による記事をわたしが翻訳したものです。

<http://goo.gl/xTYA4E>


JサンとIサン
─日いづる国の男の子たち─

アメリカでもヨーロッパでも、マンガがテレビにお客さんを盗られ瀕死の状態にあるのは周知の事実。ところが、日本ではMANGA(と、かの地の人はマンガをこう呼ぶ)の読者を数多く抱え、その膨大な需要に応えるため企業としての出版社が存在する。

マルチェッロ・ヨリとイゴル・トゥベーリ、リヌスの読者は「バルボリーネ(チビ真空管)< http://goo.gl/ih65RZ
>」時代の二人を覚えておられるだろうが、この二人が日本へ仕事をしに行き、黄金郷と天国の間の地を見つけたのだ。ここに、二人の幸せな体験を話してもらおう。

「僕達と日本?」とメラノ出身のマルチェッロが口を切った。アルト・アディジェ < http://goo.gl/YBGfwy
> でも最北部出身のこのアーチストはいつも元気一杯、熱っぽく日本体験を語る。

《僕はマンガをやめていた。イタリアではもう誰も注目してなかったし、やってもおもしろくなかった。マンガ誌は文化の下層へ滑っていったし、絵画に専念していた。

美術は大きなスペースを与えてくれる。やることがたくさんあった。『バルボリーネ』の体験を含む過去に何の未練もなかった。ところがある日、ボローニャ国際児童図書展の昼食時に、講談社という日本の大きな出版社が僕に目をつけていると知った。

彼らは僕が過去に制作したコミックス(linus誌に何度も登場した人形のようなMinus)に興味を持っていた。びっくりして不思議な気もした。信じられないよね。そして反駁の余地ない確信を得る事になった。

この一年後、個展でニューヨークへ行ってる時に資料を請求され、パリへ飛んだ。そこで、なんと、講談社のマンガ部の長である、かの栗原さんと契約について話し合った。》

ここまで、サルデーニャ人らしく慎重に控えていたカリアリ <http://goo.gl/l0KgLS>
出身のイゴルトが口を開いた。イゴルトと日本の接触は4年前に遡る。「ボローニャの児童図書展で、講談社の代理人にヨーロッパと日本の作家で共同制作をするというアイデアを提案した。

《僕はすでにSiegfried Wichmannの『ジャパニズム』<http://goo.gl/9AaLFo>
を何度も読み、日本のグラフィック、建築、芸術家、エロティカの構成要素だと思うものについて研究していた。日本の資料をこれでもか、と漁った。日本を舞台にしたマンガを考え、制作した。

だから、ヨーロッパと日本の作家の共同制作という提案は理屈から言っても合ってる。でも、その時僕は小部屋に閉じ込められ……、彼らの習慣に添った儀式的なもてなしだったのだろうが、僕は出版業務の秘密を侵すものと思われたのだ。

事実、講談社はそういう共同作業の研究中だった。で、その状況で僕が講談社から目を付けられていたことを知った。日本を舞台にした作品のせいで。三か月後、日本へ飛んだ。そう言われたのではなく、自分の意志で。僕の人生の中で一番長い会見を持った。四時間半に渡る礼儀正しさ。一時間後には全部決定していたのだが、親切で会話を続けたのだ。

栗原さんは『マンガを続ける気がおありですか?』と僕に尋ねた。もうすでに合意に達しているのに。僕はわざともったいぶって答えた。『たぶん。その可能性があれば』短編をやってみないかと言われ、すぐに拒否した。短編をどのように解釈しているか聞いてきた。イタリア誌の経験から、2〜12ページだろうと答えた。栗原さんは日本において短編とは50ページのものも含む、と反論した。

イタリアに戻った。信じたり信じられなかったり。信じ過ぎるのも怖かった。それにやることもあった。ウマノイド社 <http://www.humanoids.com/>
への作品だ。

20日後、講談社の代理人(midori 注:私です!)から電話があった。どこまで進んだかって? 僕はナポリ方式で答えた。ほとんど出来てます。そしてサルデーニャ式に仕事をし、300ページ分のシノプシスを送った。

それから(講談社の人間と)ローマの大きなホテルで会った。僕はただ話に色をつけるために320ページのほうがよくないかと言った。答えはこうだ、600ページでも悪くない。今、ストーリーは1000ページの予定でタイトルは『アモーレ』。すでに仕事は4年に渡り、掲載が始まろうとしている。》

イゴルトは息をつくために黙った。実現した夢にまだ唖然としている。「共犯者」の証言を求める。「僕とマルチェッロはボローニャで家も近くだし、ずっと付き合っていた。そして日本のこともしょっちゅう話した」

そしてマルチェッロの証言。

《ボローニャで、あの昼食会に行った時にはまだ日本との未来について考えていなかった。でも、その後パリでの話し合いで、またマンガに戻るという考えに熱中した。

かの栗原さんは間違えない男として知られる人だけど、ヨーロッパ作家との共同作業を試みると決めていた。その仲間に入れてもらえるのは光栄だ。イタリアのマンガ出版会の困窮は遠い話だった。講談社は巨大な出版社だ。

でも、僕が惹きつけられたのは編集者の存在という制度だった。この編集者が僕には必要だったのだ。『マンマ』のような、いや、むしろコーチの役割を担う編集者。全身を助けてくれる。自分の中にあるもっと良いものを引き出してくれる。いやいや、創作の制限なんかじゃなく、それより、創作の増進だね。》
「学ぶべきことはたくさんあった」とイゴルト。

《例えば、ある時、代理人から丁重な電話があった、『栗原さんは、分析的な構成の前に、全体的な構成をしたほうが良いのではないかと言っています』。僕のマンガの作り方と日本のやり方の違いを目の前につきつけられて嬉しく拝聴した。MANGAは日本で膨大な数の読者をかかえている。

日本人は通学、通勤途中にMANGAを読む。行きは仕事前にあまり疲れちゃいけないし、帰りは疲れてる。テキストはなめらかで主要なものだけである必要がある。複雑にもつれていてはいけない。これはテキストを貧弱にするという意味ではなく、できるだけ普遍的であること。

講談社の人たちは我々に、日本人のような絵を描けともイタリア性を忘れろとも言ってない。日本の読者にわかりやすくするように心がけてくれと言っているのだ。だからこそ日本まで行き、と言っても『オタク』に、つまり日本スタイルの熱心なファンになるという意味でなく研究してきた。

ところで『オタク』というのは、パソコンにとりつかれている人のことも言う。ともかく日本の読者にわかりやすくしながら、自分のスタイルを失わないやり方を身につけた。彼らの仕事のやり方は、思いつきやアバウト式の拒否にある。僕は『バルボリーネ』時代からある集団の調整が好きだったから、集団での制作に関して日本的精神の傾向にあったと言えるね。僕にはアシスタントがいて…》

マルチェッロが口をはさむ。

《集団での仕事っていうのは、僕にとっても重要なんだ。アーチストっていうのはテンションが下がることがある。編集者やアシスタントは、何千枚もの原稿を前に動揺しているアーチストを前進させるのに必要なんだ。

日本人はMANGA内での言葉の乱用に賛成しない。キャプションは禁制。読みのスピードを邪魔するコトになるからね。絵の良さに重きをおく。

で、アーチストの責任が増す。グループはアーチストを増強するが、アーチストがハガキの評価を一身に受けるんだ。MANGAの読者もグループの一員を成す。毎号、毎号講談社が添付するアンケートに答えることによってね。

賛同でも批判でも、ともかく何千、何万ものハガキが熱心なコントロールという報酬を受けている。日本では今でもMANGAは人気がある、すごく人気がある。上司にしたいキャラクターは? なんてアンケートにある。

実際のところ、みんなスーパーヒーローを探してるんだ。僕はスーパーヒーローであることを認められた。

僕は子供の頃からなりたかった。10歳の頃、いつもスーパーヒーローの格好をしていた。成長して馬鹿だと思われずに孤独をやっていられる唯一の方法は、スーパーヒーローになってしまうことだと発見した。

スーパーヒーローをやっていくには、うんと金持ちにならなければいけない。金持ちになるにはうんと働かなければいけない。マンガでできるかどうかわからなかった。ところが、日本で僕が中心になって、スーパーヒーローになって、自伝的MANGAを描くことになった」

「『不思議な世界旅行』というタイトルの長編は僕が着衣で、ヌードで、実際には出来ないことをやる。僕がモビィディックを殺し、根源的なオルガズムを経験する。だから日本が僕に何かリミットを強制するんだろうなんて言わせないよ。唯一、僕に強制するのはエキサイティングであること。むしろ僕がエキサイトするね。こんなにも多数の読者に向かっているなんて…》

マルチェッロとイゴルトは全く違うタイプのアーチストでありながら馬が合う。長年に渡る友情の嬉しい矛盾だ。「東洋ではエゴ(個)は西洋ほど重要ではない」とイゴルト。

《僕はアシスタントに命令しないように気をつけている。話し合いをする方がいい。たくさんの意見を引き出すほうがいい。日本人に、ひいては世界中の人にわかりやすいMANGAを創りだすという挑戦を受けて立つのに、いくら時間をかけて、念入りにやっても十分ということはない。普遍的なものを生み出そうとしている。

僕らの編集者である堤さんは『GON』の編集者でもある。『GON』はガツガツした小さなディノサウルスだ。この作品をまったくの無声でやる、と決定するのに、それはたくさんの試作をした。考えうる限りの仮定をしてみることは、ぜひやらねばならない。

僕がスゥォッチのためにデザインした『ユーリ』の権利を買うと決定すると、分析し、背景についてサジェスチョンをしてきた。アーチストの決定に介入してくる。彼らの投資は大きいものだから。が、絶対に独裁的なやり方はしない。ここでもう少しいいものができるのではありませんか?

それに応えるかどうかはアーチストによる。ぼくは自分の意見を変えなかったこともあるし、判断が誠実で的確だと思った時には変えた。ユーリについては気に入ってもらっている。否、選ばれたものと言っても言い。だからこそ重箱の隅をつつくような分析を続けている。

編集者は絶対ではない。が、豊かな経験を持っている。そしてアーチストのみが間違いを犯すというヨーロッパの概念は通用しない…》


「最初の読者」と自認する日本のMANGA編集者が共同制作者となる二人三脚のやり方を楽しんだイタリア人作家二人の目から見た日本のMANGA作りを読むと、MANGA作りをまた新たに見直す糧になる。

次回はこの特集ページ内のコラムの訳と、二人の言葉で気がついたことを書いていきます。

【みどり】midorigo@mac.com

MANGAのセミナーを持つローマのマンガ学校Scuola Internazionale di Comicsに提案したマスターコースが今年出発できるかどうか、ハラハラしている秋であります。

学校としては、より魅力的なコースにするためいつも体験傑授業をお願いしている「東京アニメーター学院」とのコラボをマスターコースに取り込んでいる。今ひとつこのマスターコースの意味が学校でもわかってないのか、学校でのやることに対して担当する人が足らないのか、宣伝に関して今ひとつモタモタしてる感じがあってドギマギです。

セミナーは週に一回2時間で、3か月から5か月。出席は一年生ばかりで、なかなかMANGAの構成法を伝えきれない。マスターコースは絵の基本はしっかりと身につけた卒業生か、それに順ずる人を対象に週に二回計6時間+じゃかじゃか宿題で、かなりつっこんで授業ができるはず。

でも生徒が集まらなくては出費がまかなえないので出発できない…
生徒が集まるように祈っている初秋なのでした。

COMICO 無料マンガ 「私の小さな家」
<http://www.comico.jp/manage/article/index.nhn?titleNo=1961>


「イタリアで新しい漫画を作る大冒険」
<http://p.booklog.jp/book/77255/read>


主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/>