ローマでMANGA[167]現代美術への寄り道
── Midori ──

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ローマ在、マンガ学校で講師をしているMidoriです。私の周辺のマンガ事情を通して、特にmangaとの融合、イタリア人のmangaとの関わりなどを柱におしゃべりして行きます。

●ローマでコロナ

コロナがなかなか去ってくれないので、今月もまたコロナで始めます。

先月、イタリアではその重症度から赤、オレンジ、黄色に分け、自粛度を変えて対応してきた、と書いた。

やはり『三密』を避けるのが一番効果があるようで、たちまち感染陽性者が減って、赤(危険)の州がゼロになり、オレンジ(やや危険)が5州、残り17州が黄色になった。

それでも、全面的に自粛を解除したわけではなく、大移動が起こるクリスマス休みに待ったをかけようとしている。





二案あって、一つは12月24日から1月6日まで、州を超えての移動禁止。もう一つは、12月25日と26日、12月31日と1月1日、という祭日に限っての移動禁止。これは、黄色であろうがオレンジ色であろうが同じ。どこでも、この時期だけ赤の扱いをする。

夏に自粛解除になり、イタリア中バカンスで大移動の結果、また感染が増えた経験を踏まえたもの。でも、まだ決まっていない。

稼ぎどきのクリスマス期間に大幅に稼働を制限されて、特にスキー施設関係は文句たらたらだ。他にも色々文句が出て、小さな市が集まっているようなところでは、30kmまで移動して良いことになったようだ。

ようだ、というのは、なんだか毎日のように微調整が出るので、追いかけるのが大変。

娘が南イタリアのカラブリア州にお嫁に行った友達夫婦は、12月20日に移動することに決めた。いずれにしても、制限が解けるはずの1月7日までいるつもりらしい。

ご主人の方は不動産売買の営業をしているが、クリスマス時期に家を買う人もいないし、奥さんの方はとっくに仕事をやめているので、仮に7日に戻って来れなくても問題はない。

皆がちゃんと三密を避けて、手の消毒、目、鼻、口を触らないを守れば、これほど感染は広がらないはずだと思うけど。

今日(12月14日)のニュースでも、クリスマスプレゼントの買い出しと、ついでにお散歩で、ミラノのドゥオモ広場が人で一杯になっている映像が出ていた。

というわけで、ベローナに住む義妹一家は集合せず、6人以上の集まりも禁止なので、30キロ以内に住んでいる友人とも集まらず、家族3人のひっそりしたクリスマス、正月になる。

1月になると、アメリカ産のワクチンがイタリアに上陸する。

イタリアの細菌研究所と、イギリスのオックスフォード大学共同開発のワクチンもあるのだけれど、アメリカ産が選ばれた。

だいたい、イタリア開発のワクチンがオックスフォードと共同になったのも、国が必要なだけの予算を与えなかったせいでもある。アメリカ産のほうが高いのだけれど、接種可能のOKが出たのが早かったからのようだ。

まず、医療関係者と老人ホームなどの施設にいるご老人。第二弾の2月で65歳以上の「高齢者」と疾患がある人が対象。コロナで重篤になる可能性のある人から、順に接種ということになる。

ワクチン接種は強制ではない。全国民の60から70%が接種すると、感染率がぐっと減る、と言われている。

熟年細菌学者の一人が「あなたは接種しますか?」との問いに、「もちろんします。でも自分がもしも子供が持てる年齢だったら、ちょっと考える」と答えていた。つまり、不妊になる可能性があるとこの学者は言ってるわけだ。

ワクチンの中身は読んでもわからないし、どうせもう不妊だし、第二弾で接種を受けようと思っている。

●マンガ学校の授業

ユーロマンガコースが発足してから、「サイレント・マンガ・オーディション(SMA)」参加を授業の一環にしてきたことは、何度もここで述べた。

3月末だった締め切りが昨年から1月末になり、講義の回数が重ならないうちに作品を作ってもらう、しかもセリフなし、という難しいことをさせるのに躊躇しながら、昨年、強行した。

少し無理があると見て、今年は参加を見送ろうかとも思ったが、セリフなしで感情を表現するという効果の魅力に勝てず、今年も参加を決めた。

manga言語文法の授業が疎かになってしまった昨年度の反省から、いくつか超短編のストーリーボードを作ってもらい、そのお直しをしながら解説していけばいい、と考えた。

10月半ばから授業が始まって、12月のクリスマス休暇が始まる前には、SMAのストーリーボードのお直しも終わって、休暇中に鉛筆下書き、1月にペン入れ……というスケジュールを立てた。

でも、生徒の仕事が遅い。課題を次の授業までに仕上げてこないので、スケジュール通りに進まない。ここへ来て、やはり1月末日締め切りのSMAへの参加は、絵師としての教育だけ受けてきた生徒には無理だと判断せざるを得ない。

来年はSMAへの参加を、授業のプログラムから抜くことにした方がよさそうだ。セリフなしで感情表現をする、という魅力のある作品作りは、SMAとは別に、講義がある程度進んでからスケジュールに組んでもいい。

ともかく、10月半ばから12月20日までの2か月ちょいは、講義と2ページ、4ページの練習を重ねて、感情表現を会得してもらう方法を取ろうと思う。

●魂に響くコマワリ教室

「魂に響くコマワリ教室」というタイトルの本を、キンドルで買って読んだ。紙の本が好きだけど、イタリアにいて日本語の本を送料をかけずに、しかもすぐ読めるデジタルはありがたい。自分でも理解したいし、わかってることでもどうやって教えたらいいのか、適切な例題などあれば参考にしたい。

本のリンクは大抵Amazonになってしまうので、ちょっと違うリンクを貼ってみる。
https://note.com/noichi910/n/n38d51bb6ea2d


著者は深谷陽さん。
https://instagram.com/akira___f

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E9%99%BD


へぇ、塚本晋也「鉄男」の特殊メークを担当した方なんだ。

それはそうと、ここでは、「キメゴマ(ある行動の一番重要なコマ)」に対して、そのコマの感情を増幅させるための「フリ」そしてそれを受ける「ウケ」という呼び方をして、一連の動き(動作自体だったり、感情の起伏だったり)を作る、というやり方を提唱している。

これは、私がイタリア語で「unita’narrativa(物語単位)」と呼んでいる、最低3コマからなる構成単位と同じことだ。

つまり、1コマでキャラが何をしているのかを表現できる。でも、それだけでは動きがない。

例えば、男の子の横顔のアップ。次のコマに似たような構図で、ちょっとだけこちらに斜めに向いた顔のコマを持ってくると、ゆっくりと向きを変えている動きが出る。

そして三コマ目、正面アップで目を見開いて驚いている顔。これで一通りの行動表現できる。

深谷式で言うと、1コマ目:フリ、2コマ目:ウケ、2コマ目:キメゴマ、となる。キメゴマの3コマ目は大きなコマにして、読者の読みがそこでちょっと止まって、キャラの表情をじっと読み取る。

この最低3コマの最小単位で、物語の三つの構成要素を成している。mangaでは起承転結と4段階だけど、承と転を一括りにする考え方もある。能の“序破急”もそうだ。

起・承転・結の3段階で考えると、3コマ目の締めが重要になるケースばかり思いついてしまうが、キメゴマという考え方を持ってくると、それを1、2、3のどのコマに持ってきても良いと、より柔軟な構成が頭に浮かんでくる。名称は大事だね。

深谷さんの本で出している例題のように、キャラ二人のなんでもない短いセリフを使って、3コマで構成させる。セリフは私が決める。キメゴマを変えて、いくつか作らせる。これは授業中にささっとやらせる。

セリフを変えて(状況や表現する感情が変わる)3コマで、授業中にささっとやらせる。似たような状況を1ページに伸ばして、情報量を増やす。

ということを、学年度の最初の1か月(私の担当授業は週に一度だから、1か月といってもたったの4回だけど)でやって、2か月目から4ページ、8ページと増やしていき、構成の仕方、物語の作り方などを体験させる。8ページの時にはテーマだけ与えて、セリフは各自に作らせる。

つまり、補助輪付きの自転車を支えてやって、ペダルを踏ませ、徐々に手を離していくのだ。そして、学年末の作品は補助輪もなしだ。来年度の授業構成は、この手で行こう。

●物語単位

SMAの締め切りが3月末だった2年間は、SMA参加作品も、卒業課題の作品も皆仕上げていた。ということは、10月から12月までの講義が功を奏していたということだと思う。

でも、卒業した生徒がSMAに参加するからと、ストーリーボードを見せてくれるのだが、どうしても行動の羅列になってしまう。卒業作品は結構ちゃんと感情を表現していたのに。ということは、「物語単位」が血と肉になっていないということだ。

だから、講義中心ではなく、体験を中心にしていくのが効果的だと思う。頭で講義を理解するだけではなく、手を動かして体で覚える。

過去に日本のmanga学校に、ローマの生徒を連れて二週間の短期留学に付き添った時に見たのは、とにかく、作品を作らせる授業だった。そして、絵のレベルはともかく、生徒は自然にmanga文法をベースに作品を作って行くのだった。

これはどうしたこと? 日本人の若者が難なくmanga言語でストーリーボードを作れるのは、mangaをたくさん読んでいるから? 我が生徒たちも、ユーロマンガコースを選択するくらいだから、mangaを読んでいる。

ここで気がついたのは、日本語とイタリア語(ヨーロッパ語)の違いだ。言語はメンタリティから来る。manga言語は日本語を使う頭から出てくるから、日本語を使う日本の学校の生徒たちには自然でも、イタリア人生徒には別言語になってしまうから?

何年か前に、この件の考察を披露したことがある。

ローマでMANGA[9]MANGAは現在形? MANGAは女脳?
──直感的に解説する「MANGA」と「ヨーロッパコミックス」の違い
https://bn.dgcr.com/archives/20080513140100.html


上リンクの記事では、主に時制について語っている。日本語が他の言語に比べ(イタリアで生活してるのでイタリア語と比べている)時制が曖昧であることを示している。以下に〈転載〉する。

●MANGAは現在形?

感情移入型は人物の感情を軸に物語が進み、読者は人物と同じ時間を生きる。その結果、読者はページを速い速度でめくって行く。状況解説型では、読者は舞台を見る観客のように物語に若干の距離を置いて、第三者として物語を追って行くので、物語と読者の時間は一致しない。物語の中で架空の時間が過ぎ去っても、読み手はじっくりと読み込んで行く。

つまり、別の見方をすると、時制が違うと言えることになりはしないか。MANGAは現在形、コミックスは過去形。

これは言語の構築法に深く関わっているんだと思う。イタリア語を始め、ヨーロッパ語には明確な時制がある。日本語にも過去の表現があるけれど、ヨーロッパ語の過去形に比べるとかなりあいまい。日本語では完了形と過去形が同じ形だし、過去形は一種類しかない。ヨーロッパ語では、まぁ、イタリア語しかちゃんと知らないのでイタリ後に限ってしまうけれど、過去形が大きく分けて四つある。(中略)

例えば、日本語で「ある所におじいさんとおばあさんがいました」という過去と「今朝はトーストを食べました」という過去と「女子校に通っていました」「昨日、熱があったけれど仕事に行きました」という過去の四つ、過去として若干のニュアンスの違いはあるものの、形の上での違いはない。イタリア語では、この四つの言い方はそれぞれ別の過去形で言い表すべき過去になる。

物語の場合、「遠過去」という過去形を使う。主に口語ではなく文体で使う過去形。日本語では「今朝、トーストを食べました」と同じ形になってしまう「おじいさんとおばあさんがいました」と言いたい時の過去形。イタリア語の遠過去で読む物語は、なにか遠い感じ、今起こっている事ではない、現実から離れた感じが濃くなる。

ヨーロッパの作家は遠過去で物語を考え、日本の作家は、ヨーロッパ言語から見るとただの完了形のような、曖昧な過去形で物語を考えるわけ。

今現在から遠く離れたニュアンスを伝える遠過去で物語を考えていたら、読者は第三者として舞台から離れた座席から見物する形になる。一緒に舞台には乗らない。読みの速度と物語の速度を一致させるような物語展開には成りにくくなる。〈転載終わり〉

つまり、時制が曖昧なので、ストーリーを考えて文章に、あるいは言葉にする時、ほぼ現在形で考える。キャラの行動が現在進行形になる。

イタリア語では、文章、特に物語では遠過去という過去形を使うので、意識の中でキャラのやることが遠くなり、遠く離れて見ている感じになるのではないだろうか。

それに思い至ってからは、生徒に「第一人称単数、現在形で文にして見て」と何度も言う。でも癖はなかなか変えられるものではない。

イタリア人生徒にマンガ言語を理解してもらう授業、課題を作るには、日本語とヨーロッパ語の違い、メンテリティの違いの人類学的考察も必要なのかな、と思ってしまう。

●絵を読み取る

もう一つ、生徒に欠けていると思うのは、「絵を読み取る」力だ。

「絵」というのは、広義に「画面上にあるすべての構成物」の意味。それは図形の外の空間も含む。

空間がキャラや小道具より、どのくらい大きいのか、小さいのかでニュアンスが変わる。空間が大きく、キャラがうんと小さい構成だと、キャラの孤独感とか絶望感とかを表現できる。そしてそれが黒いのか、白いのか、グレーなのかでニュアンスが変わる。黒ければネガティブ感が出る。

空間の形が丸っぽいのか、鋭角を持ったものなのかでもニュアンスが違う。鋭角があると、気持ちが荒んでいたり、怒ったりしている感じが強まる。

昨年度はこの件を取り出して、一回だけ現代美術の鑑賞と解説をおこない、かつ宿題として生徒に作品を作らせた。イタリアの作家、フォンターナとブッリの作品を例に出した。

ルーチョ・フォンタナの「切り裂かれたキャンバス」
https://guchini.exblog.jp/24089679/


アルベルト・ブッリの「燃やしたプラスチック」
https://www.analisidellopera.it/alberto-burri-grande-rosso/


https://ja.wikipedia.org/wiki/アルベルト・ブッリ


「意味がわからない」と敬遠していた、こういう現代美術の抽象画に近づいたのは50代の時に通った、グラフィックデザインの授業の一環にあった「視覚伝達の歴史」の講師のおかげだ。その講師自身が抽象画家で、抽象画の見方というものを教えてくれた。

要するに、作品が何を表してるのか悩むのではなく、その形、材質、大きさ、色などを見て何か感じるはずで、その感じることを増幅していく、というのが鑑賞のしかたなのだ。

さらに、その作品が生まれた社会的状況や、作家の生い立ちや考え方などのデータがあると、鑑賞の深さや方向が出て来ることになる。

人間の脳みそは、見たものに意味をつけて理解しようとする。ある物体は何も伝達しようとしていないのに、人間側は伝達を受け取る。

フォンターナの切り裂き作品は、カミソリで皮膚を切られたような痛みと、その形の持つ鋭さに「お主、できるな」という気分になる。ブッリのドロドロと溶けた赤い化学性物質は、醜く、どうにもならないやるせなさを感じる。

フォンターナの材料は油彩用のキャンバスで、誰でも日常に持っているものではないので、ちょっとエリートの哀しみ、というニュアンスも感じる。

ブッリが使う材料は一般人がよく目にするものだ。だから一般人の、君も私もこういうドロドロってあるよね、という気分になる。

あるものを見た時に、自分がどんな気分になるのか、その気分はどの色、形、大きさ、材質から来るのかを意識できるようになると、mangaのコマ割りや構図を見て、なぜこの感情が沸き起こって来るのか理解できて、自分の作品を作る時に大いに役に立つ。

昨年は、後期の3月にロックダウンになって学校が休止し、その分学年末が一か月延び、かつ卒業考査は対面でやりたいと、例年の6月末ではなく9月初めまで延びたので、時間的な余裕があった。

それで、manga制作に直接関係のない、現代美術への寄り道ができた。

今年は、視覚伝達の歴史の授業でやった「過去・現在・未来」を抽象的に描く、という宿題をクリスマス休暇に出そうかな。

「サイレントマンガオーディション」のストーリーボードを進めさせる必要もあるので、あまり宿題は出せない。ささっと、子供の落書きのように、あれこれ悩まずに無意識につながってグシグシ描いてみてほしいな。

manga制作には、いろんな要素が必要だから、授業も広げるとあてどもなく広がってしまうので困る。そこをまとめるのが講師の能力なんだろうな。

と、人ごとのように言ってみる。


【Midori/マンガ家/MANGA構築法講師】

日本のマスコミもイタリアのマスコミも汚染されている、しみじみそう思うのが米大統領選だ。

ネットでニュースを拾っていると、中共とディープステートがじっくりと仕込んだ、アメリカ乗っ取り作戦の重要なコマだったが、2016年に選出されて以来、トラさんもあれこれ準備をしてこの選挙戦に臨んだ、という結論に導かれる。

マスメディアのみ見ている人は、彼らが作り上げた粗野な人物像として現大統領をみている。やっと降りてくれてよかった、とまで言ってる。実は、最後の盾となって、今まで表に出てこなかった自由社会の敵と戦っている、勇気ある人なのに。

こうした情報は、ユーチューバーとかブロガーの間接情報だけではなく、トラさんはじめ、パウエル弁護士、ジュリアーノ弁護士らが自ら発している直接情報から得ることができる。

米在住の日本やイタリアのジャーナリストは、それらを一切無視? 米国および国際政治組織、情報組織、経済組織、軍事組織を巻き込んでの戦いで、どれも無知なのであまりにも複雑に、深く、大きく大きくうねうねと絡まっている事柄に理解が及ばない。トラさんが再選されずにあちらが大統領になると、自由社会の終わりの始まりなのだということはわかった。

本当は、人ごとじゃないのだけれど、なまじな映画やmangaよりエキサイティングな展開で、毎日スマホチェックが半ば楽しみでもある。

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