ローマでMANGA[83]MANGAは日本のメンタリティから生まれたという証拠
── midori ──

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90年代に講談社のモーニングが、海外の作家の書き下ろし作品をのせるという前代未聞の企画を遂行していたときにローマで「海外支局ローマ支部」を請け負って、そのときのことを当時のファックスをスキャンしつつ、それをもとに書いているシリーズです。

イタリアのマンガ雑誌「linus(リヌス)」1995年6月号の、我らがイゴルトとヨリの特集記事を紹介してから、その中からお二人の意見で「これは」と思うものを取り上げて、MANGAとマンガ(日本のMANGA以外のコミックス)の違いを掘り下げようと試みている。

前回はここで終わった。

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何を語るのか、という大筋を効果的に読者に伝えるには、主人公はどのような感情を持っているのかを決め、それを強調するシチュエーションのアイデアを出して行けばいいのだ。

そして、まだ子供である次男の誕生日を冒頭に持って来た。大きな屋敷の描写と高価な贈り物で富豪な家庭である事を示し、贈り物にシチリア独特の品を持って来て物語の場所を示し、同時に伝統を重んじる土地である事も示す効果的な選択をした。

料理をしているのが料理人ではなく、ボスの妹でマフィアの家庭も一般家庭と同じ日常を生きていることを示した。同時に、若々しく美しい妹とふざける手下が持っていたピストルを、その妹が台所にこういうものはだめよ、ととりあげるシーンを入れた。一般家庭には相応しくないピストルが、この家では日常であることを示す秀逸なエピソードだ。

主人公のマリオが家業に家族に全く興味を持っていないことを示すのに、弟の誕生日に遅れて帰宅させ、父親に口ごたえをさせた。



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編集者との、翻訳を介したファックスでのやりとりだけでは、なかなか互いの空気を読むことができない。空気を読むというのは曖昧な言い方でいかにも日本的なのだれど、言い直すと、発する言葉の土台が違うので、受け取る側のニュアンスが変わっていく。

MANGAという庶民文化も日本の風土、歴史で形成された日本人のメンタリティから生まれている。イタリア語に訳されたMANGAのセリフの意味は、もちろん読めばわかるけれど、MANGAの「文法」は日本人のメンタリティを知らないとなかなか把握できない。

イゴルトは日本に来て、電車の中でMANGA雑誌を読む姿を見て驚いた。スマホが出てくる前は、通勤、通学中に雑誌や本を読むのが普通だったのだ。そしてヨーロッパでは余り見ない姿だ。本や雑誌や新聞を読む人はいても、マンガを読む人を見ることはまずない。

ヨーロッパのマンガは、キャラのアクションをベースに話が進み、アクションの速度と読みの速度は一致しない。つまり、実写で5秒のアクションシーンを読むのにもっとかかる。

MANGAでもそうする場合もあるが、その場合はキャラの心理的な認識速度と読者の読みの速度が一致する。アクションシーンをスローモーション再生で構成する感じだ。

例えば、交通事故はほんの何秒かの出来事だ。交通事故を外から見て表現するのだったら、読みの速度が早くなるように構成する。事故に遭っている人を主体に驚きを描くのだったら、読みの速度が遅くなるように構成する。

ヨーロッパのマンガはアクションをベースに構成し、MANGAほどキャラクターの感情を直接描かないので、読者はキャラの感情を想像していく(実際のところ、キャラの感情がどうなのか、読者はあまり気にしていない。殴ったから怒ってるんだろう、くらいの感じだ)。

想像するためには多くの情報が必要なので、背景をきっちり描き、セリフやト書きが多くなっていく。ページの隅々に目を通して、描かれた情報をなるべくたくさん得るように読む。つまり、1ページを読むのに時間をかける。降りる駅を気にしながら読むものではないのだ。

ここからイゴルトは、「ヨーロッパのマンガは安楽椅子で読むもの、MANGAは通勤、通学で途中の交通機関で読むもの」と定義した。いかにも唯物論的ヨーロッパ人の発想だと思う。つまり、目に見えるものを思考の基にするのだ。

日本のMANGAがイタリアに入ってきて大分経つ。

キャラに感情移入して読み進むようにできているから、MANGAは読者対象を年齢層と性別で分けて、登場人物とキャラの年齢などの性格を読む人とほぼ一致させる。おかげで若い層にMANGAが浸透していった。

MANGAは比較的シンプルな線で構成されているので、見ながら描くと結構上手くコピーできてしまう。そして、読み手から描き手へと移行していく者がたくさん出てきた。

そういう若者の作品を見る機会が多いのだけど、MANGA読者であってもキャラの感情をベースに構成することがなかなかできない。顔の感情表現はできている。「カメラ」の位置が常に頭の高さに置いているので構図が単調になる。ズームアウトやズームインが少ない。

「カメラ」位置を変える、主に高さを変えるという発想は、日本人でもアマチュアだとなかなかたどり着けないけれど、少なくもここぞという時にはズームインを自然に使うケースが多い。

つまり、顔の表情だけで感情を表現して、あとはヨーロッパマンガ式に行動の羅列になってしまうのだ。

ここでも、MANGAは日本のメンタリティから生まれたという証拠を見る思いだ。日本の「空気を読む」「あ・うんの呼吸」という、つまり相手の思惑を慮るという習慣、つまり感情を気にする、というあり方からMANGAは発展していったのかな、とも考えている。

では、次のイゴルトの御意見。

「日本人は通常、通勤途中にMANGAを読む。行きは仕事前にあまり疲れちゃいけないし、帰りは疲れてる。テキストは滑らかで主要なものだけである必要がある。複雑にもつれていてはいけない。これはテキストを貧弱にするという意味ではなくて、できるだけ平易であること。」

イゴルトは日本で電車の中でMANGAを読む人が多いのに驚いた。ヨーロッパマンガはすでに述べたように電車で読むようにはできていない。じっくりと時間をかけて読むものだから。

イゴルトは「MANGAは電車で読むもの」と定義つけたが、「電車で降りる駅を気にしながらでも読めるもの」としたほうが正しい。

「テキストは滑らかで主要なものである必要がある」のは、読んで疲れないようにするためではない。

イゴルトはエンターテイナーでもあるから、答えでウケを狙ったのかなんて考えてしまう。当時、MANGAは電車で...、と当時何度も言っていたので、本気だったのかもしれない。

テキストをなるべく短く、必要なものだけで、というのは読みのリズムを保つために大事な要素だ。MANGAの一コマは映像にすると10秒も20秒ものアクションにはならない。

キャラの動作と読者の読みのリズムが一致することで、読者はキャラに感情移入して、一緒に物語を生きることができるのだから基本とも言える。

例えば、誰かを追いかけようとダッシュをする瞬間の1コマがあるとする。映像にすると一瞬のはず。だから、そのコマでダッシュ寸前のキャラになにか喋らせると、コマで表現していることと読みのリズムが一致しなくなる。

例えば、「くそう! ここでお前を逃すわけにはいかないんだ!」というセリフは、ダッシュ寸前の時間的に合わない。次のコマで走りながら言ったり考えたりするなら良い。ダッシュ寸前のコマではせいぜい「!」とか「くそ!」ぐらい。これはもちろん、読む側が疲れないためにではなく、アクションと読み時間を一致させるためだ。

映画の場合は、ヨーロッパでも登場人物に感情移入する作り方をする。なんでだろうと考えていたけど、簡単なことだった。動画だと時間軸がベースになるから、見る側と登場人物のアクションが一致せざるを得ない。マンガは二次元上だから、時間の制約は受けず一コマ上でいくらでに話させることができてしまう。

「テキストをなるべく短く、必要なものだけで」というのは、実は日本語にうってつけのやり方なのだ。

日本語は「ハイコンテクスト」だということを最近知った。
< http://www.en-culture.net/context.html
>

同一民族で同一言語の国だから共通項が多く、みなまで言わなくてもわかる。言外の意味も汲める。

一方、欧米圏はローコンテクスト文化。異なった文化を持つ者達との交流が多いので、思い込みではなく、理論的に発された言葉を解釈してコミュニケーションを取る。

自明と思われることも逐一説明する必要がある。構文は主語+動詞+述語が必要。というわけで、概して日本語に比べると同じことを言うのに長くなりがちなのだ。

イタリア人向けに「MangaBook」というMANGAの構築法の6冊シリーズを書いているのだけれど、友人にちゃんとしたイタリア語に直してもらうと、たいてい文が倍になってしまう。私はイタリアを用いながら、日本風のハイコンテクスト思考で書いてしまうのだ。理論の飛躍もあったりする。

つまり、MANGA/マンガの台詞にもその違いが現れざるを得ない。

井上雄彦氏の大ヒットMANGA「Bagavond」第1話に、主人公の狂気じみた強さを表現するページがある。襲ってきた侍に主人公のタケゾウが反撃するシーンだ。

一コマ目で「俺を殺す気なら...」と言い、4コマ目の大ゴマで横顔アップとなり「殺してやる」と太字大きめのフォントで五文字。

これをイタリア語に直すと、主語+動詞+述語が必要なので「...お前を俺が先に殺すであろう」と長くなってしまう。

https://bn.dgcr.com/archives/2008/05/13/images/hikaku

(以前にこの事を書いた投稿先の画像を活用します。同じ画像の日本語版とイタリア語版の比較です)

おまけに、イタリア語の書き方のお決まりとして一つのフレーズを分けて、前文が「...」で終わるので、次の文は「...」で始めなければならない。このお決まりもローコンテクストで、前の文の続きですよ! と「...」を示さなければならないのだ。

大雑把に発音してみると「殺してやる」だと1秒半(もっと早く発音できる人もいるかも)、「... お前を俺が先に殺すであろう」だと3秒(イタリア語の"... TI UCCIDERO' PRIMAIO"で発音してみました)。1秒と3秒の差は大きい。

しかも、実際は声に出すのではなく、頭の中で読む。日本語の場合、漢字があって、「コロ」は一字の「殺」で表現され、読まなくても見ただけで意味がわかってしまうので、黙読の場合は1秒切るかもしれない。

1秒でテキストを読んで絵を見るのと、3秒かかってから絵を見るのでは、絵から受けるインパクトが少々違ってくるのではないかと思う。1秒の方は、言葉のインパクトと絵のインパクトがほぼ同じか、絵のほうが強いように感じる。3秒かかるとテキストのインパクトが1秒の場合より強くなるように思う。ごちゃごちゃ「お前を」とか言ってるし。

こうなると、MANGAの構築法というのは、日本だからこそ生まれたのではないかと考えざるを得ない。手塚治虫氏の存在は別にして。

講談社のモーニングで海外作家とのやりとりで起きた困難というのも、言葉の性質の問題も大いに関連していたのだな、と今更ながらに思っている。

次回、編集者に言及したイゴルトの発言を取り上げて、この「イタリアのマンガ雑誌「linus(リヌス)」1995年6月号の「我らがイゴルトとヨリの特集記事」は終わりにします。

【Midori】midorigo@mac.com

1月8日に起こったパリの風刺雑誌襲撃事件は大きな大きな衝撃でした。

この稿で取り上げているイゴルトはパリ在住で、殺された4人の漫画家達と知り合いでもあり、イゴルトのFBでの書き込みや、やりとりで自分事と感じているのがヒシヒシと伝わってきました。

まずは卑劣なやり方で無残に殺された犠牲者の冥福をお祈りします。

この事件の後ろにCIAが...という陰謀説まで飛び交っています。単純に頭のおかしい人に殺されたというより、大きな陰謀に巻き込まれたとしたほうが、まだ死にがい(?)があるような気がして、陰謀説を取りたくなってしまいます。

たくさんの問題を抱えた事件ではあります。

過去、植民地として欧米がアフリカ、中近東を都合のいいように機械的にわけてしまったこと。植民地支配によって支配された側が発展を閉ざされたこと。

支配者側は被支配者側に教育を施さなかったので文盲が多いこと。だから、コーランも読めず、言い伝えで女性を封じ込めたりしてしまうこと。

近年になって植民地が廃止された後も、産業がなく教育の機会もないので、言葉が通じるかつての支配国へ多くの移民が発生したこと。

その移民の子や孫は祖国のことを知らず、国籍は「外国」の国籍(アイデンティティの欠如)。居住地では差別を受けることが多々あり、問題も多いこと。

ISIS(イスラム国)の煽動で、こうした子や孫が、自分の人生がうまくいかないのは欧州の植民地支配に根があると不満を爆発させていき、また生きる目的をそこに求めてしまうこと。

日本は2600年以上もずっと一つの国で、おかげさまで日本人はそれだけでアイデンティティに揺るぎがない、というのはすごいことなのだ、としみじみ思います。

でも、ISISのせいで「個人テロリスト」があちこちで発生して、単独でテロ行為を行うようになる、実に恐ろしい事態に直面してるのだと思うとしみじみばかりもしていられません。でもどうしたらいいのだろう??

一日一日を大事に、できること(課せられたこと)をしっかりとやって行く以外にありません。

MangaBox 縦スクロールマンガ 「私の小さな家」
< https://www-indies.mangabox.me/episode/18803/
>

COMICO 無料マンガ 「私の小さな家」
< http://www.comico.jp/manage/article/index.nhn?titleNo=1961
>

「イタリアで新しい漫画を作る大冒険」
< http://p.booklog.jp/book/77255/read
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主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/
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