ローマでMANGA[128]待ち望んでいた中間講評の日
── Midori ──

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ローマ在、マンガ学校で講師をしているMidoriです。私の周辺のマンガ事情を通して、特にmangaとの融合、イタリア人のmangaとの関わりなどを柱におしゃべりして行きます。

●大雪と中止と調整と

イタリアの学年度は10月(小、中、高校は9月半ばから)から翌年の6月までの8か月間。だから、始まって4か月後の2月は中間講評の時期となる。

ローマのマンガ学校で講師を始めて20年。でも今まで私が講義をしていたのは成績に関係のないセミナーだったので、講評をしたことがなかった。

今学期から私のセミナーが最終学年三年生の正式コースとなり、2月の講評が執り行われたのだった。

私がいかにこの講評を待ち望んでいたか、以下のエピソードでわかっていただけるはずです。





どのコースも講師は二人いる。週に二回の授業を一回ずつ担当する。私は火曜日の受け持ち。もう一人の講師パオロ君は木曜日の受け持ち。中間講評は、その日に当たった講師が担当する。

2月の講評は、同月の最終授業日となっていて、その日はたまたま火曜日だった。私が講評をするんだ! よーし! と手ぐすね引いて待っていたら、22年ぶりの大雪になって、ローマ市は私立を含めた全ての学校の休校を決めた。つまり、この日の講評会は中止だ。

私はすぐに教務課長に連絡を取って、こういう場合はどのようにするのか聞いた。何しろ初めての経験だから、学校側の習慣的な対処の仕方を知らない(学校側から、流れた講評日についての連絡がないのはイタリア的)。

同じ週の次の授業であるところの木曜日にまわす(もう一人の講師が担当するから、私は講評をしない)のか、と。お答えは、木曜日でもいいし、次週の火曜日にしてもいいとのこと。

是非とも講評というものをしてみたいので、次週私の担当日に回して欲しいとお願いした。

日本の皆さんは「えっ、そういう適当なことでいいの?」と思ったりするかな。どちらかと言うと、言われるのを待ってしまう性癖の私が、自分からやらせてほしいというのは相当なことなのだ。

もう一人の講師、パオロ君にも礼儀として「私がやりたいので、来週の火曜日に講評を回すことにしたよ」と伝えて、その日を迎えた。

●教務課長のジョルジャ嬢の眼力

教務課長は校長の娘で、39歳の美女だ。公私にわたり、何か問題が起こると、ちゃんとまな板にあげて分析し、それに対処する方法をさぐる人。

ジョルジャが学校に入ったのは、もちろん校長の娘だから、というのが大きい。でも、彼女の聡明さと分析力の鋭さで、その存在感を示していった。ジョルジャが入ってから、面白いイベントやゲスト、ワークショップなども増えた。

娘のような年齢(実際にジョルジャの母上は私の一つ下)の彼女とは気が合い、友達付き合いをしている。こういう人とオトモダチになれるのは、人生の至福だと思う。

あ、ちなみに、私の担当日に講評を回す事に同意してくれたのは、オトモダチだから忖度(日本の報道で知った言葉)ではありません。

この年齢のイタリア人のほとんどがそうであるように、日本のアニメを見て育ち、日本の文化に興味を持っている。映画が大好きで、暇つぶし的に見て愉しむだけはなくて、監督や演出やストーリーの深さなど分析して愉しむ。

さて、講評である。授業をする教室ではなく、入学希望者のオリエンテーションをする別室で、私とジョルジャが並ぶ。テーブルを挟んで、生徒を一人づつ呼んで、今まで制作した作品を見せてもらう。

ジョルジャは丁寧に作品を見て、白黒原稿の場合は白と黒の割合の有効性とか、カラーの場合は全体のバランスや絵全体のトーンを決めるベースになる色の有無など、的確に指摘していく。

自分では絵を描かないけれど、長年たくさんの生徒の作品を見てきた蓄積と、映画やmangaやマンガやアニメを分析する頭でじっくり見てきた成果だ。

生徒の話にも耳を傾け、心理的な部分まで解析してアドバイスを与える。これ以上の講評者は望めないんじゃないかな。

こうしたジョルジャの講評の姿勢を間近に見たかったのも、講評をぜひともしてみたかった理由の一つなので大いに満足だった。

●私の講評

ユーロマンガコース在籍8人の講評をしてみて気がついたこと。

「絵が上手い人ほど、きちんとプレゼンテーションの体裁を保っている」

制作した原稿をリング式のクリアファイルに整理したり、課題ごとにバインダーにまとめたりしてきた。講評する方も見やすい。

要するに、人に見せることを考えている。人に見せることを考えるということは、人に伝えるということを意識するということだ。

人に伝えるという事を意識するというのは、自分の絵も何を伝えるために描いているのか、ということを無意識のうちにでも考えているということだ。

つまり、絵を描きながら、描いているものを客観的に見られるということではなかろうか。

8人の中で、特に描けない生徒がふたりいる。ふたりとも、コマの人物の周りによけいな線をいっぱいに描き込む。

地面のデコボコだったり、壁だったりするのだけど、コマの中で重要な人物や小道具と同じ太さの線でコマ一杯に描くので、見にくいことこの上ない。

二人とも口を揃えて、描き込まないと白っぽすぎるように感じる、と言う。

思うに、あるコマを描いている時は、近視眼的にそのコマしか、というより、描いているその隙間しか見ることができないのではなかろうか。

描いている物からちょっと離れて、客観的に見ることができないのだ。

ジョルジャと一緒に、何分かに一度立ち上がって原稿を遠くから全体を見てごらん、とか、原稿用紙を片手で持ってなるべく遠くに離して見てごらん、とサジェスチョンした。

●私の課題

私はペンでの原稿制作ではなくて、その前のストーリーボードの段階を授業する。ケント紙の原稿用紙ではなく、A4のヘラヘラの紙に鉛筆描きだ。

ネーム(フキダシにセリフも書き込んだストーリーボード)だから、人物の細かいところまで描いていない。

ネームって、見慣れないと読めない。見てもよくわからない。ペンでインクを入れた原稿と比べると、当然見劣りがする。そこで気がついた。

学年度が終わると、もう一度、教務課長と担当講師とで講評をする。期末試験のようなものだ。そして、三年生は在籍するコース以外の講師も交えて卒業試験に当たる講評を受ける。

コース担当講師以外の講師がネームを見てもわからない。ということは、プレゼンテーションに工夫をしてもらう必要がある。

構築法の授業というのは他ではやっていないから、なんで鉛筆書きのスケッチなんか持ってくるのだ? と、マイナス評価の対象になりかねない。

さらに言うなら、せっかく正式コースになったのに、構築法の授業という特殊性が無視されるのは困るのだ。

つまり、「人に伝える」、「見せることを意識する」というのを視野に入れて、生徒に準備してもらうように伝えねば、ということなのだ。


【Midori/マンガ家/MANGA構築法講師】

本文でも書いたけれど、2月の終わりにヨーロッパはロシアからの大寒波に襲われて、ローマも5年ぶり、積雪量でいうと22年ぶりの雪が降った。零下にまでなったからね。野菜が凍って農家は大打撃。

アスファルトがツギハギだらけのローマの道は、大雪で凍ってその後大雨で、モザイクが欠けていくように、継ぎ接ぎしたアスファルトが剥がれていった。その上を車が通っていくから、モザイクはさらに剥がれていく。

深さ10センチほどで、座布団ほどの大きさの穴があちこちに開いている。走りながらその穴を避けようとして、ハンドルを切る車やバイクが多くなって危ないったらない。

雨が降って、その穴を水が埋めてしまうと見えなくなって、まともにツッこんでパンクする車が増えているそうだ。雪降ってタイヤ屋さん儲かる。

夏暑く冬寒いというとげもメリハリのある気候が普通になって行くそうな。

↓ローマの穴ぼこを伝えるニュース



[注・親ばかリンク] 息子のバンドPSYCOLYT


MangaBox 縦スクロールマンガ 「私の小さな家」
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主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
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