すでに書いたように、サークル蟻天嶽は1997年12月「鳴神」の公演終了後、楽屋として使っていた北寮二階、オブスキュアギャラリーの真上の部屋に移転しました。
以降、1998年10月初旬に駒場寮を立退くまで、蟻天獄はこの部屋を使っていました。
私は、蟻天獄が中寮二階にあった時には数えるほどしか通わなかったのとは対照的に、北寮二階に移ってからは足繁く通うようになりました。
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ここで、この部屋の名称についてコメントしておきます。
蟻天獄がこの部屋に移って間もなく、部屋の扉に「蟻天国」という文字が書かれました。
それは、単に「蟻天獄」を「蟻天国」と書き間違えたのかもしれないし、サークルは「蟻地獄」ではなく「蟻天国」であるというつもりだったのかもしれません。
いずれにしても、私を含めて、ここに出入りしていた者の多くが、この部屋を「蟻天国」だと思っていたはずです。
なので、以降、この部屋のことは「蟻天獄」ではなく「蟻天国」と記すことにします。
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女形の中村しのぶさんは、「鳴神」の公演を終えると、歌舞伎の海外巡業のため、しばらく日本を離れることになっていました。
しのぶさんは、部屋の中ほどに畳を敷き、大量の布団や毛布を用意して、蟻天国に来た人が寝泊まりできるようにしました。
また、巡業中に皆が食べ物に困らないように、大量の食材も用意しました。
これは、しのぶさんが蟻天国に出入りする人たちを、家族のように思っていたからでした。
また、蟻天国は誰が来ても構わない部屋にしたかった、としのぶさんが話していた記憶もあります。
ところが、しのぶさんが置いていった食材目当てに、大勢の人が蟻天国に押しかけて毎晩パーティーを開きました。
そして、しのぶさんが二、三か月は食いつなげると思って用意した食材は、わずか一週間で食べ尽くされてしまった、と聞いています。
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しのぶさんが用意した食材がなくなった後も、皆は酒や食材を持ち寄ってパーティーを開きました。
今回紹介する写真は、1998年1月に撮影したパーティーの様子です。
この頃、都内に大雪が降ったらしく(同じネガの後のコマに雪が積もった駒場の写真がある)、この時私は家に帰るのをやめて、蟻天国に泊まることにしたのかも知れません。
ミュージシャンのノブナガくん(右側)と、当時大川興業にいたヒデさん(蟻天獄の発起人の一人)。
同じ構図でシャッタースピードを遅くした写真。奥の方で寝ている人が写っています。
絵描きのユミコフさん。写真に写っているように、しのぶさんは畳敷きのスペースの周囲に紗を吊るしました。
1997年の11月にオブスキュアギャラリーで写真展を行った小山くん。
オブスキュアギャラリーを運営していたコーキくん。
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パーティーの写真を撮ったのはこの日だけでした。
後に、私は個人的な事情から蟻天国に連泊するようになるのですが、その頃にはこのような写真は撮らなくなっていたようです。
【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
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1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔