ショート・ストーリーのKUNI[36]引き出し
── やましたくにこ ──

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いつからか思い出せないが、私の家の机の引き出しの一つが開かなくなっていた。何かがはさまっているようなのだ。

当初はさまざまな手段を試みたものの、しまいにめんどくさくなって、もうその引き出しにはさわらないようにしていた。あきらめたというか。なのにあるとき、そういったいきさつをすっかり忘れて、私はその引き出しをつい引っぱった。しかも、やや強く。そうだ、この引き出しは開かないんだったと気がついたときはすでに遅い。私の耳に声とも音ともつかないものが聞こえた。しいて表現するなら「ああっ」というひとの声と動きの鈍そうな小動物の鳴き声、それにプルトップ式の缶詰の蓋をぎしぎしと持ち上げるときのいやな響きを混ぜたような。


私は一瞬ひやりとして硬直し、にわかに動悸が高まるのを感じた。何か取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。でも、そのまましばらくたっても何も起こらないようだ。私はほっとして、気をゆるめた。

引き出しを開けることはあきらめ、その晩は早く寝ることにした。

翌朝、家を出て満員電車に揺られて仕事場に行き、数十本のクレームの電話に応対しながら書類を打ち込み、疲れ果ててアパートにもどった私はびっくりした。

居間のソファに見知らぬ男が座ってテレビを見ている。男は私に気づくと軽く会釈してまたテレビに視線を戻した。おい、君は。そう聞こうとして私はやめた。男の頭のてっぺんに真新しい、まだ血の滲んでいる擦り傷があったからだ。ちょうど、引き出しにはさまって、無理矢理引っ張られたかのような。

私はどぎまぎし、男に遠慮しながら着替え、ひとりの食事をすます。なにか問いただそうとして逆にやばいことになってもいやだ。男はお笑い番組を見ながら機嫌良く笑っている。私は見たいドラマがあったが、あきらめた。

その日から男はごく自然に私の部屋に住みついた。普通にテレビを見て新聞を読み、トイレに行く。冷蔵庫を開けて牛乳を飲んだり、缶詰のコーンをスプーンを使って食べたりする。それも私のすぐ前に座って。私と目を合わせることはほとんどなく、まるで私が見えていないかのようだ。

私はなんとなくその男に名前をつけてみる。ジョン。いや、これでは犬だ。いや、でも、いま名前をつけようとして一番最初に浮かんだ名前がジョンだから、それでいいだろう。私は直感を大事にするのだ。どうせ実際にジョン、と呼ぶことはない。私の心の中だけの呼び名なのだし。

ジョンはものを言わない。静かだ。口が聞けないのかもしれない。生まれつきの障害なのだろうか。これまで苦労してきたのだろうかと思うと、ちょっと心が痛む。

時々うつむいたりすると頭の傷がよく見える。痛かっただろうか。でも、日がたつにつれ、かさぶたができて、経過は良いようだ。私がまじまじと見ていても気にしない。見せているつもりかもしれない。何か言いたいのか。しかし、私だって普通に引き出しを開けようとしただけじゃないか。だいたい私の机なのだ。

ある日私が外から帰ってくるとジョンはあわててものかげに隠れるような仕草をした。なんと、ジョンは携帯でだれかと話していたようだ。なんだ、口がきけるじゃないか! 私はなんとなく気分を害される。しかし、文句をいう理由も見あたらない。私が思いこんでいただけなのだ。

土曜日の午後、私の携帯が鳴る。女友達からだ。
「元気? どうしてるの?」
「元気だよ。ひさしぶりだな」
「うん…ねえ、ちょっと会わない? 明日、ひま?」
「え、ああ。いいよ。ひまだ、ひまだとも」
「ちょっと見たい映画とかあるし」
「ああ、ぼくもだよ。えっと、その、何の映画?」

私は映画のタイトルや俳優の名前を口にしつつ、頭の中は彼女と会う算段でいっぱいになる。映画はまあいいとして、そのあとはお茶をして、それから当然、ああ、その、なんというか、ムードのあるところがいいな。私の頭の中では、まだ見ぬ彼女の白い乳房のイメージが出現し、どんどんふくらみ、もう映画の題名すら入り込む余地がない。でも、ちょっと待てよ、いま何日だっけ?

財布の中はどうだっけ? 昼にコンビニで弁当を買って、そのときに見た……3000円ちょっとしかなかったような気がするが、えっと、それじゃまずいぞ、でも、彼女とはこの前のデートでいいとこまでいったから、これは絶好のチャンスなのだ。いきなりこのぼろアパートってわけにもいかないし、えっと、その、ああ、まさかそんなシチュエーションで割り勘ってわけにも。

肩をとんとんとたたかれ、私はびくっとして振り向いた。ジョンが1万円札を二枚、無言で私に差し出す。私はあわてて携帯を手でふさぐ。
「ええっ? まさか、これは、その…?!」

そうだ。引き出しにあったのだ、だからジョンが持っているんだ!

ジョンがうなずく。私は二枚の札をひったくるように受け取る。小さな声で「ありがとう」と言い、一瞬後に取り消したくなる。引き出しにあったということは、どうせ私の金じゃないか! たまたま忘れていただけだろうが!

「ねえ、どうしたの?」
「あ、いや、……なんでもないよ、ベベ、ベランダから隣の猫が」
「ああ、そうなの? 猫ってかわいいよねー」
「う、うん、ぼくも猫は大好きさ。じゃ、じゃあ明日、2時に」

電話を終えてさっそく、そうだ、明日着ていく服があったっけ、と洋服ダンスを開けたり閉めたりしてふと気づくとジョンがいなかった。トイレかな? いや、違うようだ。ベランダ、浴室、寝室。どこにもいない。

いなくなるとなんとなくさびしいものだなあ。そう思って見ると、テーブルの上に置き手紙があった。汚い字だ。

ではこれで
   ジョン

い、いつの間に私がそう名付けていたことを?! 私は猛烈に腹がたった。覚えていろよ、ジョン!

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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