ショート・ストーリーのKUNI[267]大森くんとクモ
── ヤマシタクニコ ──

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あるところに大森くんという人がおりました。

大森君は高校生の頃は「ゴーゴー」というあだ名でした。フルバージョンでは「大森貝塚いびきゴーゴー」ですが、略して「ゴーゴー」といわれておりました。

「大森」と聞いてクラスの誰かが「大森貝塚」を連想し、さらに「カイヅカイブキ」という木の名前を連想した誰かがおり、そしてイブキがいびきになって、いびきごーごーで、「ゴーゴー」になったのでした。

──ああ、あの頃はまだよかった。おれの周りにはまだ、ほんの少しでも教養のあるやつがいたのだ。その後、社会に出て職を転々とし、今の会社でも前の会社でも「おおもり」といえば「無料」としか連想してもらえなく、いつの間にか「おい、無料」などと呼ばれるようになってしまいました。

──なんだか寂しいなあ。

などと考えながら、大森くんは、ぼろマンションの我が家への帰り道をだらだらと歩いていました。歩きながらどうでもいいことをだらだらと、考えるというほどでもなく、考えておりました。





そろそろ米が切れるなあとか、さっきすれ違ったおっさんが歌ってた歌は聞いたことあるんだが、何だったかなとか、雨が降ってもすぐに乾く舗装は何ていうんだっけ、インター…インターネットではなかったよな…とか。(正解はなんでしょう?!:by筆者)

そして、帰宅後、大森くんは途中で買った弁当を食べて晩ご飯を済ませました。

台所で水を飲むとき、シンクの内壁に何かいることに気づきました。小さなクモのようです。シンクの底から2センチくらいのところに。まあそういうこともあるだろう。風呂を沸かして、入って、大森くんは寝ました。

次の日。大森くんはまただらだらとどうでもいいことを考えながらマンションまでの帰り道を歩いていました。いや、どうでもいいこと、でもなかった、仕事のことを考えていたのですが。

帰宅してコンビニで買ってきたおにぎりとカップ麺で晩ご飯を済ませます。シンクの内側の壁面に、昨日のクモがまだいることに気づきました。

──またびみょうなところにいるもんだなあ。うっかり水をじゃんじゃん使ったら、しぶきがかかりそうだ。

大森くんは用心深く水を使いました。クモが流れてしまわないように。

大森くんは悩んでいました。何を悩んでいたかというと、掃除当番の表の作成です。話せば長いことながら、大森くんの会社では長年、掃除当番のことでもめまくっておりました。

総務部と営業部で「なんでうちばっかり。どう考えても私ら総務の負担が大きいわ!」「営業は外回りで疲れてるのよ!」「それがどうしたのよ!」等々、圧倒的に女性が多い職場なのですが、当番をめぐって険悪な雰囲気が続いていました。

そこへ大森くんが入ってきたもので、責任をなすりつける、じゃない問題を解決するための掃除当番表の作成が命じられたのです。

「ね、無料くん、お願い!」
「男ならできるわよね! ね、無料くん!」

──男ならって、あの発言はセクハラだよなあ。

そう声に出して言い、ふとクモのいるほうを見ると、そのかたちが、なんだか…なんかの形に見える。なんだろう…なんだったかな…。

あ、そうか!

それは\(^^)/のかたちでした。正確にいうと、\(^^)/を背中合わせに二つくっつけたような。

──なんだ、お前! それって、もしかして、同意ってこと?!

大森くんは急に楽しくなってきました。このクモ、小さな、どうでもいいクモだけど、なんかいいやつだな…気のせいか…いや、そんなことないよな。

大森くんは一瞬、クモを至近距離で見ようとして顔を近づけかけ、あわててやめました。

大森くんはかなりの近眼で、小さなものはよほど近づかないと見えません。しかし一方、虫が超苦手でもあります。別に憎しみはないのでやたらと駆除したいとは思わないのですが、苦手です。間近で見れば卒倒するかもしれません。

以前、どこかのサイトでクモの顔の超クローズアップ写真をうっかり見てしまったことがあるのですが、あまりのグロテスクさににわかに鼓動が激しくなり、喉がカラカラに乾き、もうちょっとでひっくり返りそうになりました。

その写真には「かわいい!」のコメントがたくさんついていたのですが、大森くんには信じられませんでした。近眼でよかったとしみじみ思うのです。

なので、大森くんが今クモを見て楽しくなったとか言っておりますが、だいたいの感じでしかわかってないのです。「だいたい」以上わかりたくないのです。怖いので。怖いけど、このクモはちょっといいやつかもしれないとか思っているのです。大森くんはそんなやつなのです。よろしいでしょうか。

とりあえず大森くんはちょっと元気が出た気がしました。

──クモでもなんでも、話を聞いてくれるやつ、同意してくれるやつがすぐそばにいるのはありがたいものだな…。

なぜか当番表作成の糸口さえ見えてきたように思えたのはわれながら不思議でした。

──えっと、あ、そうか。掃除当番といっても、床掃除からトイレ、給湯室、外回りとかいろいろあるから、それらを細かく割って、難易度とか所要時間で分けて、ポイント制にして…それらのトータルで平等になるように…あ、できそうな気がする! おれ、天才!

大森くんは作業を完成させ、すやすやと眠りにつき、翌朝スッキリした気分で会社に行きました。女性従業員たちの前で、ゆうべできたばかりの「掃除当番表」を披露します。

「これこれこういうわけで、みなさんの負担が平等になるように工夫してみました」

「すごい!」

「無料くん、天才!」

「天才無料! あ、そんなことわざあったね! ダンボールに書いてあるやつ!」

「それもいうなら天地無用だよ。だから営業は頭悪い、つーの」

「なんだと!」

「だいたい天地無用はことわざじゃねーわ」

「ことわざをダンボールに書かないしー」

「勝手だろ!」

たちまち収拾不能な状態になり、大森くんはおろおろしながら成り行きを見守っておりましたが、双方慣れたもので、ひとしきり罵りまくったところでもう飽きたとでもいうように事態は急速に収束に向かいました。

ホッとしていると総務部の時田さん、通称「トキちゃん」からの依頼が。

「ねえねえ、今度は総務部内のお茶当番表を作ってくれない? あれもいつももめるから」

「え? は、はい、承知しました」

トキちゃんというのは、さっき「だいたい天地無用はことわざじゃねーわ」と言ってた女性です。断れるわけがありません。

「明日までにね!」

大森くんはまた悩みましたが、今回もクモに助けられました。

会社の机の前で悩んだりため息をついたりしているうちにあっという間に5時になり、すっかり疲れて帰宅後、買い置きのカップ焼きそばと冷凍のチャーハンのどちらを食べるべきかとしばし悩んだのち、冷凍のチャーハンで晩ご飯を済ませたのですが。

──ああ、どうやったらいいのかわからないよ、お茶当番表なんて。なんの方針も浮かばない。おれはアホかもしれない。

そう思いながらどんよりとした気分でお皿をシンクに運んで、何気なく見るとまだクモがいたのです。\(^^)/のかたちのクモが。

──あは、おかしなやつだなあ。どういう意味だ? ああ、そうか。「そうとも、お前はアホなんだ、だから深く考えるな」、てか?

大森くんはちょっと笑いました。悩んでることがばかばかしくなったのです。

──気楽にいこう! そうだな、お前はそう言ってるんだな。

変な力が抜けたせいか、アイデアが湧いてきました。そして翌日トキちゃんに見せるとものすごく喜ばれたのです。

「すごい、無料さん! どうしてそんなに頭いいの?!」

「…」

「今度、私のための週間計画表作ってよ!」

「ええっ???」

なんということでしょう。これまで女の子と付き合ったことのない、それどころか女の子にほめられたこともない大森くんに突然こんな状況が訪れるとは、筆者ですら予想もしていませんでした。本当です。

ですから、大森くんが舞い上がってしまって、話がえらく大胆な方向に展開、次の日曜日にトキちゃんがぼろマンションの大森くんの家にやってくることになったなんて、もう何が何だかわかりません。

とにかくそういうことになりまして。

それはちょうどお昼どきでした。大森くんはドギマギしながらもトキちゃんにお茶を出し、ぎこちない会話を続けておりましたが、時計を見て突然、お昼ご飯の時間だ! と気づいてパニックになりました。

お昼ごはん。お昼ご飯。お昼ご飯ってなんだっけ。わ、全然用意してなかった! 大森くんは動転し、立ち上がり、そこら中で蹴つまずきながらも、何か食べるものをとあれこれ考えました。そして

「カップ焼きそばあるんだけど、食べる?」と言いました。意外なことにトキちゃんの返事は「うん」でした。

「私、あれ作るのうまいから、無料さんの分も作ってあげるよ!」

「そ、そうなんだ!」

そんなものを作るのにうまいとかうまくないとかがあるのかどうか知りませんが、確かにトキちゃんが作ったカップ焼きそばはおいしかったのです。

大森くんは「おいしい、おいしい!」を繰り返しながらペロリと完食し、次の瞬間、ハッ! として台所にダッシュしました。

「トキちゃん…」

「なあにー」

のんびりした声がリビングから聞こえます。

「湯切り、したよね…」

「うん! あれが好きなの。だーっと思い切り勢いよく湯切りするのが。シンクがポコッ! というよね! 今日は2回もできてうれしかった!」

「そうだろうね…」

クモの姿はシンクのどこにも見当たりませんでした。

「それがどうしたの?」

トキちゃんが不思議そうに言いながら台所にやってきました。

「ごめん…今日は帰ってくれ」

「えーっ!」

大森くんは自分でも不思議なくらいショックを受け、泣きながら布団をひっかぶって寝てしまいました。昼間なのに。

──おれはもうだめだ…。

それから夕方近くになって起き出し、水を飲もうと台所に行ったとき、発見したのです。シンクの排水口のそばに。orz の形になってしまったクモ。

「あー、こんなところに!」

大森くんは虫が大の苦手のくせに、その、orz になったクモをふるえる指でつまみました。そして、わかったのです。

それはクモでもなんでもなく、単なるナイロンたわしの切れっ端だったのです。焦げ茶色の。

大森くんはトキちゃんに電話して謝りました。

「今日はごめん。ちょっと勘違いして」

「そうなの? 別にいいよ。無料さんだから許す!」

「ありがとう。ところで、おれ、『無料』じゃなくて『ゴーゴー』っていうあだ名もあるんだよ。本当は『大森貝塚いびきゴーゴー』っていうんだけどね」

「えー、そうなの? 長いねー。あー、なるほど、なるほど、そういうわけなのね。でも私だったら『ケン』さんにするなー」

「ケン?」

「だってほら、『おおもりけん』てあるじゃない? 北海道のすぐ下の、なんか変な形の県」

「あれは青森…まあいいけど」

とりあえず大森くんはその後、久しぶりにメガネを購入したそうです。


【ヤマシタクニコ】
koo@midtan.net
http://koo-yamashita.main.jp/wp/


・某インテリアの店をうろついてたとき、近くで客が店員に「あのー、○○って、出てる分だけですか」。聞かれた店員は「あー、どの分ですかね…」。

というやりとりを聞いていて、あ、このやりとり、これまでに何回も聞いたな…と思った。店も業種も違うところで、「○○って、出てる分だけですか」「あー、どの分ですかね…」という。

この定型って、全国どこでもだろうか? どこでもこういうときは「出てる分」「どの分」というのだろうか、と考えてしまった。「ほな他にどういう言い方があるねん!」と言われそうですね。すいません。

・定期的に世論調査の結果が発表されますね。内閣の支持率とか。そのとき、選択肢にいつも「他よりよさそう」という、笑かしてるんかと思われるような選択肢があるんですが、みなさん気になりませんか? ならない? 気にくわんなら対案を出せ? すいません。