ショート・ストーリーのKUNI[262]赤ん坊が飛ぶ日
── ヤマシタクニコ ──

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赤ん坊ができるやいなや彼らの生活は一変した。世界は急にカラフルになってそれまで見えていなかった色が見え、聞こえていなかった音や声がくっきりしたふちどりつきで聞こえるようになった。

赤ん坊はよく笑い、よく泣いた。ミルクをたくさん飲み、毎日顔が変わった。昨日はロールパンのようだと思っ
ていたら今日はブリオッシュだった。一体どうなってるんだと、二人は毎日飽かずに赤ん坊を眺めた。

赤ん坊はどんどん成長する。うつ伏せにすると頭を起こそうとするようになったが、うまくいかないようだ。どう考えても頭が大きすぎる。泣いてくやしそうな顔をする。

そのうち、あおむけに寝かせると自分で寝返りを打とうとするようになった。自分の頭の重さにもだんだん慣れてきたようだ。やがて、なんとか寝返りが打てるようになる。

「なんてかわいい! そして、なんておかしいんだ!」
「あたしたちもこんなだったの?」
「そりゃそうさ!」

信じられない。だれもが赤ん坊だったこと。そのことを忘れてしまっていること。そして今、それを思い出そうとしていても、やがてまた忘れること。思い出そうとしたことすら忘れること。





赤ん坊はあっという間に、はいはいをするようになった。

「すごい、すごいぞ!」
「自分の力で移動できるようになったのね!」
「これは革命だ!」
「ということは、あたしたち、部屋の片付けをしなくちゃ!」
「そうだ。これからは大変だ! うかつに床にものを置いとけないぞ」
「立つようになったらもっと大変!」
「そうとも。そして…飛ぶようになったらもっと大変だ!」

二人は顔を見合わせた。まったくその通りだった。赤ん坊は自力で立つようになると、次の段階として、歩く前にまず飛ぶ。飛ぶ時期はごく短く、中には飛ばずに終わる赤ん坊もいる。だが、対策はしっかり取っておかないといけない。

「あたしたちもいよいよ、そのことを考えないといけないのね」

二人のあいだに緊張感がみなぎった。無理もない。初めての子育てなのだから。

二人は調べようとした。赤ん坊が飛ぶとき、それはいつ、どんな状況で、なのか。前兆はないのか。飛距離はどれくらいなのか。親はどうすればいいのか。

ネットで検索をかけたり、自分たちの両親に聞いてみたりした。だが、ネットには載っていないし、親は「そんなことがあったかしらねえ」とあいまいに答えを濁す。市の子育て教室のプログラムにもないようだ。

不安は増すばかりだ。どうすればいいのか。親としてどのような態度をとるべきなのか。飛ぶことはすばらしいことに違いない。親は可能な限り、子の能力を生かすべきだ。そう考えない親がいるだろうか?

しかしまた、親は子の安全をなにより優先すべきでもある。我が子がすくすくと育ち、無事に成人することを望まない親がいるだろうか?

二人はもう、毎日そのことばかりを考えた。そうこうしているうち、赤ん坊はつかまり立ちをするようになった。まだあぶなっかしくて、すぐにしりもちをついてしまう。二人はそれを見ては大笑いしたが、ふとわれに返るのだ。

──もうすぐだ。

その日は朝から曇りがちだった。控えめに吹いていた風は午後になって少し強さを増し、時折びゅうっと勢いよく吹きつけては庭のヤマボウシの枝を揺すった。赤ん坊は風の音を聞くときゃっ、きゃっと上機嫌な声で笑い、庭に面したガラス戸をたたいた。

「風が気に入ってるみたいだな」
「なんだか…不安だわ」
「だいじょうぶさ」
「だいじょうぶかしら」
ヤマボウシはますます揺れた。
「あのさあ」
「うん?」

「赤ん坊が飛ぶって…うそなんじゃないかしら。うそ、というかその…伝説? そんな気がしてきた」
「ぼくもちょっと信じられないな」
「ねえ? そうでしょ? だって、赤ん坊が飛べるならどうしてあたしたちはいま、飛べないの? おかしいわよね」
「それはさあ」
「それは?」
「みんなが飛べたら航空会社は倒産するじゃないか」
「あは、そうね!」
「それに」
「それに?」
「バットマンやスーパーマンの存在意義もなくなる」
「そうよね!」

二人は笑った。そうだとも。くわしいことはわからないけど、とにかく、赤ん坊は飛ばないかもしれないじゃないか! 心配しすぎかもしれないじゃないか、自分たちは!

外では風が強弱をつけて吹き続けていた。赤ん坊はますます楽しそうに笑い、まるで酔っ払いみたいに足元をふらふらさせながらも、目を輝かせてガラス戸をたたいていた。

「ひょっとして、外に出たいのかな?」
「そうかもしれないけど」
あー、あー、と赤ん坊は声を出した。何か訴えているつもりなのか。
「やっぱり外に出たいんだ」
「でも…」
「やっぱり心配かい?」
「うん…」
「そうだ。いい考えがあるよ」

夫は物干し用のロープを持ってきた。そして自分の腰にそれを結びつけ、もう一方は赤ん坊にくくりつけた。痛くないように、白地に月の模様の柔らかいベビー服の上にタオルを巻き、その上から用心深く。

そして、ロープで結ばれた赤ん坊を抱いて、風がひゅうひゅうと吹く庭に出た。妻もついてきた。赤ん坊はものすごく喜んだ。風をつかもうとするように両手をあげ、むちゃくちゃふりまわした。

妻はつい、冗談を言った。

──今日は赤ん坊が飛ぶのに最適な日かもしれないわね。

すると、一瞬、強い風が吹いた。そして叫び声を上げる間もなく赤ん坊は飛んでいってしまった。ロープのくくりかたがゆるすぎたのだ。二人はぽかんと口をあけ、ただ見つめていた。赤ん坊が手を広げ、はばたき、風に舞い、その姿がどんどん小さくなるのを。

それはごくごく短い時間だった。二人は恐ろしい絶望の中でかすかに感じてもいた。こうなることは知っていた。でも自分たちは忘れる。すべてを忘れる、と。最初からそんなことはなかったかのように、忘れるだろう、と。

やがて別の方角から風が吹いた。そして夫の腕の中にどさりと、重量感のあるものが降ってきた。赤ん坊だった。夫はもう少しで倒れそうになったが、かろうじてこらえた。自分の腕の中の赤ん坊を見て、大泣きした。妻も泣いた。

いつまでも二人は泣いていた。泣くのに夢中で気づかなかった。その赤ん坊が白地に星の模様のベビー服を着ていたことに。


十数年後のある日、夫は仕事の関係で立ち寄った街でふと、奇妙な感覚に襲われる。こじんまりとした建売住宅の前だ。門扉の向こうに狭い庭がある。その庭で、ゆっくりとほうきを使って落ち葉を集めている女と束の間、目が合う。女は特に関心を示すこともなく目をそらす。

何の特徴もない地味な普段着姿で、かなりの年齢であると思われる。不思議なのは、自分がその女やこの家に見覚えがあるような気がしたことだ。でもそんなはずはない。これまでの人生で、この街には来たこともないはずだ。単なる錯覚だろう。

彼はそのまま歩み去った。自分がはるか昔のある日、ここから空に飛び立ったかもしれないこと、もしそんなことがなければそのままこの家で暮らしていたかもしれないことを思うはずもなく。


【ヤマシタクニコ】
koo@midtan.net
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最近、ラジオ体操をしています。といっても、夜中に家の中でYouTubeの動画を参考にしながら、しかも時々さぼったりもしていますが。

今年は入院したり、退院後も薬をきちんきちんと飲まないといけない、そのために三度の食事をちゃんととる必要があったりしたので「この機会に早寝早起き人間になってみようか」と邪念が芽生え、しばらくはがんばっていました。朝からサンドイッチを作ったりしていたのも、まあそんな関係で。

それが、最近は薬もほとんどのまなくていいようになり、一方で「やっぱり早起きしんどいわ」ということでだんだん夜型に戻ってしまいました。

とにかく何かにつけ「やる気が出てくる」のが夜なんで、別にふざけたりおもしろがって夜中にラジオ体操やってるわけではないんです。

で、改めてやってみると、「第一」はともかく「第二」はものすごくテキトーにしか覚えていなかったことに気がつきました。めちゃ新鮮。だいたい、あまり好きじゃなかったんですね、第二。

冒頭の跳躍運動(団地なので、ここは省略してます。夜だし)に続いて変な動作をしますよね。あれが子供の頃はなんだかすごく恥ずかしくて。今やってみると「おもしろい動きじゃないか」と思えて、けっこうここで力が入ります。人生、何がどうなるかわかりませんね。

ちなみに、朝から料理をするのももうやめました。コーヒーと菓子パンとかドーナツとかですませております。すみませんすみません。