ショート・ストーリーのKUNI[261]脱出の日
── ヤマシタクニコ ──

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──あら?
とまどうような声があり、それから
──聞こえるの?
と、確かめる呼びかけがあった。
私は
──ええ?
と答えた。
──いるんだ。あたしの声が聞こえる人が!
声の主は心からうれしそうだった。私も思い切り笑いたい気持ちだったけど、実際にはほんの少し、声が出たか出ないかというくらいだった。と思う。
──あたし、山際きりこ。よろしく。
きちょうめんそうな言い方で、相手は改めてあいさつした。私も返した。
──私は小松よしの。よろしく。
会話はすべて、ふつうの人間には聞こえていない。こんな偶然があるなんて。テレパシーを使える人間が二人、同じ病室に入院しているなんて。消灯時間を過ぎた闇の中で、私達はすぐにうちとけ、「きりこ」「よしの」と
呼び合うようになった。二人ともうれしくて、興奮して、なかなか寝られなかった。それが最初。私ときりこのはじめての会話だった。





──さっきの看護師さん、採血がすごく下手。何回も失敗して。
──ああ、あの人。そうみたいね。私も失敗されたことある。
──でも、一生懸命で、なんだかかわいい。
──髪、染めたみたいだね。
──似合ってる。若いっていいね。あたしもあんなだったのよ。
──私だって! ずいぶん前だけど。
他愛ない噂話やその日にあったこと。私たちはなんでも話した。

「小松さーん。今日は顔色がいいですね。はい、血圧測りますよー」
看護師が私の腕に布を巻いて締め上げる。指先を血流計に挟ませる。
「はい、終わりましたー」
私は無言でうなずく。声を出してみたところでたぶん、聞き取ってもらえないだろう。年々発音が不明瞭になり、耳も遠くなる一方の私にとって、他者との対話は疲れることしか意味しない。でも、きりことならいくらでもしゃべれる。

私達の部屋は6人部屋だ。ベッドが3つ並んだ列が2つある。入口を入って右の列の手前が私のベッドで、きりこはひとつ置いた向こう。きりこは窓際にいる。
──もうすぐ春ね、きりこ。
──そうよ。窓から見下ろすと木々の枝がうっすら萌黄色の衣をまとうようになってきてるのがわかるわ。真下に見える駐車場の桜もそのうち咲きそう。
──咲いたら見に行く?
──どうかしら。いまはちょっと歩いても息切れするんだけど。
──車椅子に乗せてもらえばいいじゃない。
──やだ、そんなの。病人みたいじゃない。
──病人なのよ、私たち!
二人で大笑いする。

きりこが何かの検査を受けに行くために車椅子に乗せられていくのをカーテンのすきまからちらっと見たことがある。私の目に映ったのは、やせ細ったおばあさんが壊れた人形のように体をくたっと折りたたんで運ばれていく姿だった。とっさに私は目をつぶった。私もみんなからはあんなふうに見えているのか。

私たちはおたがいの病名を知らない。きりこ以外の同室の人も、知っているようで知らない。どんな治療をしているのか。治る見込みはあるのか。

──今日は結婚記念日だった。思い出したわ。
ある日の夜遅くになってやっと思い出した私はつぶやいた。忘れていた自分が気に入らなかった。
──そうなんだ、よしの。おめでとう。
──もう死んじゃったけどね。
──でも結婚記念日には変わりないじゃない。
──そうだけど。
──私も思い出したわ。プロポーズのとき、彼は「ハイデ ダ セ ビエンチャモ」と言ったの。
──え、なにそれ。

──クロアチア語で「結婚しよう」という意味なんだって。よく知らないけど、彼、その頃はそのへんの政治史を研究してたの。といっても、クロアチア語がペラペラというわけじゃないの。語学的センスがまったくない人でね。単に…日本語で言うのがてれくさかったのね。
──おもしろい人。それで、きりこはどうしたの? どう答えたの? はるか昔、何十何年か前のおおむかし~。
──うるさいわね! もちろん「イエス」と答えたわよ。何言ってんのか全然わからなかったけど、彼の真剣な表情で、言おうとしてることは見当ついたから。そろそろ言うかな? と思ってた頃だったしね。あ、いま気づいたけど、それなら「はい」でよかったのに、なんで英語で言うかな、私?! クロアチア語ならともかく! きりこは豪快に笑った。少なくともテレパシーの世界では。私も笑った。私の気持ちはすっかり軽くなっていた。きりこはそういう人なのだ。

でも私たちは、そんなにいつもしゃべっているわけではない。入院患者の日々は規則正しくみえて、そうではない。早すぎる消灯時間にどうしても体がなじまず、なかなか寝付けない。やっと眠くなって来た頃に看護師が夜の巡回に来ては懐中電灯で照らしながら確認していく。だいじょうぶですか、と誰かに声をかけていく。点滴台をごろごろと引きずりながらトイレに行き、また戻ってくる人がいる。闇の中で声をひそめ、残してきた家族に長電話する人がいる。どこからか泣き声がもれ聞こえる。

夜に熟睡できない分、昼間はうとうとしていることが多い。細切れの眠りと覚醒。絶えず誰かが眠っていて誰かが起きている。今日が何月何日だったか、あれは昨日のことだったのか、それとも一昨日だったのか。境目もわからないあいまいな時間の中を患者たちはたゆたっている。

「小松さーん、血圧測りますよー」
「小松さん、採血しますからね。腕、ちょっと出してください。え? 昨日もした? いえ、昨日はしてませんよ…」

どうかすると自分の中に閉じこもってああでもないこうでもないと堂々巡りに陥ってしまう私と違って、きりこは常に外界にアンテナを張っているようだ。おそらく過去に脳疾患系の病気を経験したようで、リアルの会話能力は私以下なのに、どうやって情報収集しているのか不思議になるくらい、彼女は何でも知っていた。
──私、最近気づいたの。
──何に?
──ここの病室にはいろんな人がいること。
──いろんな人って?
──たとえばさあ…。

そのとき、にわかに隣のベッドまわりに人が行き来し始めた。私ときりこの間の、空いていたベッドに人が入るようだった。私たちはなんとなく沈黙した。間もなくカーテンの入り口に「峯本和子」と書いた名札がつけられた。本人のものらしい声が聞こえた。ちょっとかすれてるが、よく通る大きな声だった。

──たとえばさあ。
──うん?
──よしのの真向かいの杉田さん、現役の美容師さんなんだって。スタッフを7人も使って、コンクールで優勝した経験もあるんだって。
──へー。

──その隣の北向さんは手芸が大得意。かわいい人形とか袋物とか、いくつか作品を持ってきてるし、いまも時々、道具を広げて何か作ってるわ。
──ここで? 元気なのね。
──体調のいいときしかできないだろうけど、それでも手ぎわがいいからどんどん進むようにみえる。じっとしてられないのね、ああいう人は。それと、その隣、私の向かいの大迫さんは営業職。
──何か売ってるの?
──新聞社で広告を取ってるんだって。営業成績もいいらしいけど、わかるわ、それ。人懐っこくて相手を緊張させないの。そして話が上手だし、聞き上手でもある。あれは天性ね。
──いいなあ。うらやましい。

──でね。あたし思ったの。みんなで力あわせたら何かおもしろいことができるんじゃないかって。
──おもしろいこと?
──お医者さんには内緒で、どこかへ出かけるの!
──どこかって…どこ? 

──うーん。そんなに遠くじゃなくていいけど、楽しいとこ! ここからどこかに、脱出するの! みんなで!
──それ…何か思い出す…何だっけ…映画の…「大脱走」!
──そう! みんな普段は病人のふりして、秘密で準備するの。
──ほんとに病人だってば!
笑いながら、私もだんだん本気になってくる。
──補助員さんなら、制服さえ調達すればいけるかも。ニセ補助員?
──大迫さんに調達係をまかせよう!
──私たちがいないことに気づいたら大騒ぎになるわ。
──時間稼ぎが必要ね。あたしたちの代わりに人形を寝かせておけばいいわ。パジャマを着せて。
──その人形を北向さんにつくらせるのね?!
──正解!
──美容師の杉田さんは?
──もちろん、あたしたちのヘアとメイク担当。顔なじみの看護師さんに見破られないよう、変装メイクするの。
──変装! おもしろそう!
──あたしはたいしたことできないけど、ご飯を多めにもらってお弁当のおにぎりを用意することくらいできるかな。おにぎりの具や調味料はばっちりそろってるから。長期入院患者ならベッド脇の小型冷蔵庫に、食が進まないときのためのちょっとしたおかずや調味料をいっぱいそろえているものなのだ。
──うん、まかせる!

私は興奮した。きりこの「脱出計画」に。なんて楽しそうなんだ。そんな冒険ができるだろうか? 私たち病人に。もう若さも体力もない、やせた白髪だらけのおばあさんに。いや、きっとできる。できそうな気がするのだ。ああ、楽しすぎる。脱出だなんて、いったいどこへ? 脱出して、それからどうするの? 私たちは何も決めていなかった。ただ、脱出したかった。ここから、この状態から。ああ涙が出る。どうしてだか知らないけど。

──よしの。例の計画だけど。
──はい、隊長!
──ぷっ。いつから隊長になったの、あたし。
──だって進行管理もろもろまかせるから。もちろん私は隊員1号よ。
──そうか。よしわかった、隊員1号・よしの。
──はい!

──またいろいろ考えてたのよ。あたしは車椅子に乗せてもらってニセ補助員に押してもらおうかな。よしのは歩ける? 歩けるならいいんだけど。もっと体力がある人は、なんなら窓からロープを伝って脱出するってどう?
──ロープ?!

──出入りのクリーニング屋が受け取りに来る使用済みのレンタルパジャマを入れておくボックスがあるじゃない? あそこからちょっと失敬して、それを裂いて作れそうって思ったのよ。
──それ、完全に楽しんでるよね。一度やってみたかったんでしょ! 何かを裂いて結んでロープを作るっていうの。
──ばれた?
私は笑った。笑いすぎておなかが痛くなりそうだった。すると突然声が響いた。

「くっだらない!」

私もきりこも凍りついた。声は私ときりこの間のベッドの主、峯本和子だった。

「よおくまあ、そんなあ、ばかなこと考えるもんだよお、まったくう」

私はごくりとつばを飲んだ。なんで? なんで聞こえたの?

「そんなことがあ、できるはずないだろお。死にかけの、ばあさんたちが!」

それだけ言うと、峯本和子は黙った。私はベッドで身を固くしていた。だいじょうぶ、だいじょうぶ、私は。きりこは、どうだろう? 窓際のベッドからは何の気配もしなかった。

幸い、峯本和子の突然の大声の内容は同室の患者たちには単なる寝言、または妄想と思われたようだ。声は大きいものの発音にやや難があるので細部まで聞き取れなかった可能性があるし、聞き取れても、それだけでは何のことだかわからなかっただろう。峯本和子は私やきりこより10歳以上若いと思われるが、軽い認知症があるらしいとも言われているし。

──うかつだったわね。まさかもうひとりいると思わなかった。あたしたちの会話を聞くことができる人が。
──そうね。

──もっとも、たぶん…あのひとが出来るのは『聞く』ことだけじゃないかと思うんだけど。
峯本和子のいないすきに急いでささやき交わしたとき、きりこはそう言った。そうかもしれない。
だが、それ以来きりこは黙り込むことが多く、私にもほとんど話しかけてこなくなった。
私もつまらなかった。きりこと自由に会話できなくなって。
毎日はふたたび、きりこと出会う前の日々に戻ってしまった。体のあちこちの痛みが急に増したような気がした。痛みや発熱、10メートル歩いただけで呼吸が荒くなるしんどさで、一日一日が塗りつぶされる。

「小松さーん。最近なんだか元気がないですね。はい、血圧測りますよー」
「小松さん、お食事食べられました? どのくらい? 半分くらい? がんばって食べてくださいねー」

私はふとんにもぐりこみ、カーテンを引いて天井の虫みたいな模様を眺める。峯本和子の言葉が頭の中に響く。

「そんなことがあ、できるはずないだろお。死にかけの、ばあさんたちが!」

なんだか、くやしい。

1週間後、大迫さんが無菌室に移った。
──隊長、優秀な人材を失いました。
私が言うと、きりこは力なく返事した。
──とても残念ね。
その3日後には杉田さんがもうすぐ退院らしいとのうわさが流れてきた。情勢はどんどん悪くなるように思えた。私たちの計画にとって。峯本和子はごうごうといびきをかいて寝ていた。
──なんだかくやしい。
きりこがつぶやいた。

とてつもなく重い空気の中を歩いているような、胸苦しさを感じて目がさめた。目がさめてからも心臓がどきどきしていた。頭がひどく痛い。夢の中で自分が何をしていたのか、思い出せそうで思い出せない。何かを必死で押さえつけていたような。その感触だけがまだ残っている。ふと気づくと隣のベッドが空になって、カーテンが開け放たれていた。私はぼうぜんとした。峯本和子はどこに行ったのだろう。たまたまやってきた清掃係らしい人に聞くと「ああ…お亡くなりになったそうですね」
私は息を呑んだ。

「くわしいことは知らないんですけど、夜中に枕で窒息されたとか。ここの枕は重いですからね。特殊な砂が入っていて、頭の形にはよく沿ってくれるんですけど。ナースコールのボタンもたまたま運悪く手が届かないところにあったそうで…ずいぶん大騒ぎになったはずですけど、お気づきにならなかったんですか?」
私は思わず自分の両手を見た。冷や汗が流れた。

──よしの。心配しなくていいのよ。
──きりこ?
──だいじょうぶ。あなたひとりでしたことじゃないから。
──何を言ってるの?
──あたしたちふたりが、同時に願ったことだから。
──きりこ、何を言ってるのかよくわからないんだけど…。

──だから、心配しなくていいのよ。峯本和子のことは考えなくていい。すぐにまた新しい人がやってくる。それだけのこと。大迫さんのあとも、杉田さんのあとも、また誰かがやってくる。どんな人かしら。使える人だといいわね。
──それって。
──よしの、あたしはまだあきらめてないのよ、秘密計画のこと。
──きりこ!
──今度は早めに進めよう。そして絶対、成功させるの。邪魔者がはいらないうちに。胸のあたりが熱くなった。
──はい、隊長。

私の声はへなちょこで、わけもなくふるえて、きりこに届いたかどうかわからなかった。
私はただ願った。早くその日が来ますように。私たちの脱出の日が。


【ヤマシタクニコ】
koo@midtan.net
http://midtan.net/

http://koo-yamashita.main.jp/wp/


団地の階段の踊り場にヤモリが。と思ったら次の日、そのヤモリはお亡くなりになっていた。あおむけに横たわったまま。困った。だって団地の階段は業者も掃除しない場所。ゴミやクモの巣でかなりひどくなったら、たまに住民が自主的に掃除したりするが、どうも最近私以外の人が掃除している様子もない。てことは、ヤモリのご遺体も私が処理することになるのか? 虫とかヤモリとかミミズとか大の苦手の私が?!しかし、夏場なのでいつまでも放置してられない。吐きそうになるのをがまんして、なんとか処理した。古新聞で大きな袋を作って、そこへ収めさせていただいて、あとはまあ、ゴミ収集のコンテナへ(雑な処理で申し訳ありません、ヤモリさま)。

と思ったらそれから一週間くらい後、同じ場所にまたヤモリのご遺体が! なにこれ?! 仕方なくまた同じ方法で処理したが、次、もう一回あったら完全に「ヤモリの墓場」認定されるところだった。今のところ、3回目はまだないが。「あのときお世話になったヤモリの遺族です」とか言ってそのうち現れ……ないでくれ!