ショート・ストーリーのKUNI[264]でこ女房
── ヤマシタクニコ ──

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ある朝のこと。
「げんさん、ねえ、げんさんってば」
そう呼ばれて、げんさんこと源次郎は目を覚ました。
「むにゃむにゃ……なんだよなんだよ、げんさんって、なれなれしく呼ぶその声は……え、その声は、もしや、おまえかい?」
「そうだよ、あたし。梅、梅だよ! あんたの女房の梅!」
「こいつは驚いたな。梅かい! いや、ええっ?! 梅は死んだはずだが? ていうか、おまえ、どこにいるんだい?」
「それが問題なんだよ」



「問題って」
「あたし、ひと月ほど前に突然倒れただろ」
「そそ、そうだよ! あんなにびっくりしたことはないぜ。急にぶっ倒れてそのまま死んじまいやがった」
「それが手違いでね。あたしゃ死んでなかったんだよ。あの世に行ったら『申し訳ありません。どうも手違いのようで、あなたはまだ生きてます。寿命が残ってます』って言われてさ」
「ええっ!」
「それで急いで帰って来ようとしたんだけど、なんだかこういう時の手続きって大変でね。あまり例のないことみたいで、担当課をたらい回しにされたり何枚も書類書かされたりして、すっかり遅くなっちまったよ……と、あたしの体はどこなんだい?」
「そういうわけか。つまり、体がないのに魂だけが戻ってきたと。どうりで見えないはずだ。声は聞こえるのに」
「ふっ。あなたの心に直接ささやきかけていますってやつさ。どうでもいいからあたしの体は?」
「いや、それは……燃しちまったよ」
「え、やっぱり!」
「うん。現代の日本では義務ではないというものの、人が死ぬとほとんどの場合は火葬にされることになっております。一部、土葬もあり」
「じゃあ、あたしはどうすりゃいいんだい!」
「と言われても」
「んもー! いいよ、この際どこでもいいから、あんたの体をちょっと貸しておくれ」
「ええっ」
「だって仕方ないだろ! なんかこんなふわふわした状態だと落ち着かなくてさ。それとも何かい、そこらの薄汚い猫とか犬とかハムスターとかミシシッピアカミミガメの体でも借りろってのかい? そんなのひどいと思わないかい! そもそも勝手に人の体を燃しちまったほうが悪いんだろっ!」

連絡もなく戻ってきたお前が悪い……とは、源次郎も言わなかった。戻ってきてくれたのは素直にうれしかった。うれしいに決まってる。死んだと思ってた女房が戻ってきたんだ。すごいじゃないか。

思えば34年前、運命の出会いでもって一目惚れ、結婚式だとかめんどくさいこと一切省略して、いきなり一緒に暮らし始めた最愛の女房なんだ。葬式のとき、梅の死に顔を見ながらおれの脳裏には、あれやこれやの思い出が、ネットで見た東京駅のプロジェクションマッピングみたいに駆け巡って、胸がいっぱいになったもんだ。その女房だ。うれしいに決まってる。だが、その、おれにもね。都合ってものが。

「なんだいその煮え切らない顔は。さっさとしなよ。うーん、と、ここでいいかい?」
源次郎は右耳をふわっと撫でられたような気がした。
「あ、そこは……ちょっと困る」
「なんだ。じゃあこっちかい?」
左耳を撫でられた。

「いや、右とか左じゃなくて耳はちょっと」
「え、なんで?」

どきりとした。なんでって、そんなこと、言えない言えない。実はお前とは別に女がいて、その女がおれの耳を撫でるのがことのほか好きで、それはそれはもう、とかとても言えるものじゃない。ましてや女に、おいおい、そこはちょっと気をつけてほしいんだ、なぜならそこはおれの耳のようで実は女房なのでとか、どう説明したらいいんだ。とにかく、無理っ。

「変な人だね。耳くらいがちょうど手頃じゃないかと思うんだけどねえ」
「いや、耳ってのはあの、なんだ、ほれ、えー、だいたい忙しいじゃないか」
「忙しい?」
「ああ。眼鏡をかけるにもイヤホンをつけるにも赤鉛筆挟むにも耳を使うだろ。それに最近じゃマスクをつけるのも耳だろ。中耳炎になるにも耳が必要だし」
「何言ってんだよ」
「とにかく耳は忙しいんだ。お前はよくわかっちゃいないかもしれないが、大変なんだぞ、耳は。おれの大事なかわいい梅ちゃんがそんな忙しい部署に配置されるなんて、かわいそうで耐えられないんだ。ああ心配で涙が出てきたじゃないか。頼む。おれの気持ちもわかってくれ」
「ふうん。そうなんだ。じゃあどこがいい? 手の指はどう?」

ふわりと右手の指を撫でられた。いやいや、手の指ってのも、困るんだなあ、それが。うふ。なんでって……言えない言えない! 絶対言えない!

「悪いが、手の指もだめなんだ」
「えーっ! 一体どこならいいのさ! もー、げんさん!」
「あ、は、はい!」
「もうあんたの意見を聞くのはやめた。勝手にするよ」

え、と思うまもなく「つん!」と小さな感触があり、次の瞬間には梅は源次郎のおでこに居場所を定めた。

「ちょ、ちょっと待てよ。人のでこに勝手に住み着くな!」
「いいじゃない。あー、ここ、気分いいわ。見晴らしがいいし、なんだかあんたを自由に操縦できる感じで」
「おれはモビルスーツか!」
「いいじゃない。あたしたち、夫婦なんだよ。ふたりでひとつの体を共有するなんて、これ最高のシチュエーションじゃない」
「そうかねえ」
「ほらほら、ぶつぶつ言ってないで、前進するんだよ! そうそう、はい、止まれー」
「おいおい」
「ちょっとちょっと、どこに向かってるんだよ、あ、冷蔵庫のほうに行こうとしてるんだ。あ、ドアを開けてビール飲もうとしているね?! また飲みすぎてんじゃないだろうね! つまみはイカの塩辛に明太子? 塩分取りすぎだって前から言ってるだろ!」
「うるせえなあ」

言いかけた源次郎のでこにガツーン! と衝撃が。
「痛えな! 何するんだ。でこの内側から」
「何度言ってもわからんちんだからさ!」
「いいじゃないか、このくらい」

その時玄関ドアがバーンと開き
「げんさん、いる~? あ、そこにいたんだ、何、ビール飲むとこ? ていうか、今誰かとしゃべってた?」
たちまち、でこの内側から
「誰、この女。いまどき流行らない弓形の細い眉の、リキッドファンデーションの塗り方下手くそでまだらになっててぶさいくな、バッグにミッキーのバンダナなんか結んで得意げだけどそんなもん、ダイソーで売ってるやつじゃないかー! な女。まさか、あたしがいないと思ってこんなのとつきあってんじゃないだろうね!」

げんさんはあわてて手を高速で左右に振るが、目の前の女は
「なんかおかしいわー! そんなにあわてて、誰かと秘密の電話でもしてたの?」と眉間にしわを寄せるし、でこの内側からは
「何黙ってんのさ、答えないと、こうだよ!」とガツン、ガツンと連続パンチ。困った。痛い。困った。痛い。どうすんだ、おれ史上最大のピンチ。

目の前では「ひどい、ひどいわ。どうせ、どうせ私はぶさいくだし、あんたより年上のばばあだよ。だけど一生懸命つくしてる。なのに、あんたはいい年していつまでもモテたいんだ、このろくでなし!」
でこの中からは「なんだって、あんたより年上なのかい、この女。道理で老けてると思ったよ! 自分になびく女ならどんなのでもいいのかい、いい加減におし、このろくでなし!」

両者意見が一致してる。いや、そんなことに感心してる場合か。目の前の女はさらに一歩前に踏み出した。そして、パーン! と源次郎のでこをはたいた。ものすごい勢いで。あまりの衝撃に源次郎はぶっ倒れた。


次に源次郎が目を開けると、部屋は薄暗く、誰もいなかった。もう夕方なのだ。ゆっくり立ち上がり、照明をつけた。テーブルの上に女が置いてったらしい紙切れがあった。パチンコ屋のチラシの裏にマジックで「げんさんの ばか」と書いてある。

「そうか……」源次郎はつぶやいた。
「裏が白いチラシってパチンコ屋のくらいしかないんだよな……」
いや、そこじゃなくて!
やがて源次郎は気づいた。部屋がしんとしている。だけじゃなく、でこの内側もしんとしてる。

「あれっ? おい、おい! 梅?!」
あわててでこをぺち、ぺちとたたくが何の反応もない。でこが痛いだけだ。
「やばい! あの女がでこをたたいた拍子に梅がどっか行っちまった! 梅、梅! どこにいるんだ、聞こえたら返事してくれ! 梅!」

部屋は静まったままだった。源次郎は床にへたりこんだ。

そのままぼんやりと部屋を眺め回すと、急に一人住まいのわびしさがこみあげてくるようだった。さっきは梅がいた。ひさしぶりに梅の声を聞きながら、ああ、いいなあ、梅がいるだけでこんなに楽しいんだと思ってた。肩こりも腰痛も胃もたれもいっぺんに軽くなるようだった。万能薬か、梅は。なのに、また、どっかに行っちまいやがった。

気がつくと涙がつつーっと頬を伝っていた。それからもう、なんだかたまらなくなり、源次郎はわあわあと声を上げ、子どもみたいに泣き出した。

「げんさん、げんさん」
声がする。
「どうしたんだい、そんなに泣いて」
「これが泣かずにいられるかい。大事な女房がいなくなって、でこにぽっかり穴が空いたような気分……ええっ? その声は、梅?!」
「そうだよ、あたし。ああ、きょろきょろしたって見えないってば。それに今、あたしはあんたの体の中の、奥のほう~にいるから。あの女がパーンとでこをはたいたもんで、でこから中のほうにめりこんじゃったんだ」
「めりこんだあ?」
「よくわからないけど、なんか暗いところをどんどん落ちていってね、ようやくあんたの体ん中をひとめぐりして戻りつつあるところさ。ふー、疲れた」
「いや、マジかい!」
「マジだよ。言っとくけどさ、前から注意してるのに全然言うこときかずに不摂生ばかりするから、あんたの体、ぼろぼろだよ、もー。あちこち見て、よくわかった」
「そ、そうなんだ?」
「内臓脂肪多すぎ。血管内壁も、ありゃ油まみれでギトギトだね。掃除してやりたかったけど、あたしには無理かも」
「しなくていいよ、そんなの!」
「換気扇の掃除で培ったスキルが生きるんじゃないかと」
「生きないよ!」
「そうそう、胃にポリープがあったから取っておいたよ。たぶん良性」
「それはうれしい、ありがとう、って、えーっ!」
「病気になられたらあたしも困るからさ。ま、とにかくもうすぐ元の場所に到着できそうだよ。あんたのでこに」
「そうか」
「ねえ、げんさん」
「なんだい」
「これで本当にあたしたち、一緒になれたね」
「ああ。ずっとおれの中にいろ。おまえの体、燃してしまってよかったな」

そう言いながら、さて、でこに女房くっつけた状態で、おれはこれからどうやって浮気すればいいんだ、でこに分厚いマスクでもしとくか。などと思案をめぐらす源次郎だった。


【ヤマシタクニコ】
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血液検査の結果を見ると、アルブミン値(ALB)がいつも基準値を少し下回っている。といってもそんなにものすごく低いわけではないし、特になにか指導されたわけでもないが、自分でなんとなく気に入らない。なんとかしたい。

アルブミン値を上げるにはもちろん、タンパク質。1日に成人女性で50グラム、成人男性で60グラム必要らしい。ごはん1膳(150グラム)のタンパク質は3.8グラムだが、6枚切り食パン1枚で5.6グラムもあるそうだ。おお、じゃあごはん食べるよりパンだな。ごはん150グラムってけっこう多くて、それだけでかなりおなかいっぱいになるのでしんどい。なるべく楽に食べられてタンパク質多いのがいいもんね。麺類の中ではスパゲッティが効率良さそう。よし、うどんはやめてスパゲッティにしよう! とか。

よくよく見たら、市販されてる食品にはちゃんとタンパク質量が表示されてるのだけど、今まで気をつけて見たことなかった。この小さなプリン1個で3.9グラムか。優秀だ。おやつを食べるならプリンに決まりだな、とか、いや、それよりいっそのことかまぼこでも食べといたらどうだろう、おいしいやん。いや、食べ過ぎると塩分が……いや、かまぼこの塩分ってどのくらいだ……とか、最近、スーパーでいちいち数字をじーっと見るので、買い物に時間がかかって仕方ないヤマシタです。