ショート・ストーリーのKUNI[120]漂着/ヤマシタクニコ

投稿:  著者:  読了時間:9分(本文:約4,200文字)


2022年6月。

湿気を含んだ空の下で、古い団地はひっそりと静まっている。壁にはひび割れの補修跡が縦横に走り、窓枠は塗装がはがれてまだらになっている。ニュータウンと呼ばれたのは遠い昔だ。自転車置き場には壊れたベビーカーがほこりをかぶって転がっている。

「ただいま」
買い物から帰った妻が声をかけると、浴室から「おかえり」と声がした。
「何やってるの」
浴室をのぞき込むと、夫は浴槽の前にかがみこんでいた。妻のほうに顔を向け
「ここ、ペコペコしてただろ」
「ええ」

琺瑯引きの浴槽は、いつからか前面のパネルが今にもはがれそうにふらふらしていた。築50年を超える団地だし、夫婦が住みついてからでも30年になる。その間一度も取り替えていないから、そういうことが起こっても不思議はない。家のいたるところで同じようなことが発生していた。

「どうしたら直るかと思ってたけど、ほら」
夫は浴槽をこんこん、と手で軽くたたいた。昨日まではそうしただけでふらついていたパネルが、びくともしなかった。
「あら、すごい」
「だろ」
夫は自慢そうに笑った。

「どうやって直したの?」
夫は答えず、ベランダに向かった。そして物干し用の金具を指さした。竿を通すために天井から下がっているかぎ型の金具だが、さびついてぼろぼろになっていた。それが、薄い銀色の膜でおおわれている。

「これも?」
「ああ、おれが直した」
「すごい。助かるわ。洗濯物を干すたびに手にサビがつきそうでいやだったの。管理事務所に言っても『ここの団地は近いうちに取り壊すことが決まっておりますので』と言うばかりなのよね。気が滅入るわ」
「仕方ないさ」

「でも、どうやって直したの?」
「魔法の素材があるのさ」
「魔法?」




夫がうなずき、いま帰ってきたばかりの妻の手を取って外に出た。なんだか楽しそうだ。いい年をした夫婦が何をやってるんだと思われるだろうな、と妻が気にしたくらいに。夫が連れて行ったのは老人会の会長をしている男の住む家だ。二棟隔てた棟の二階。

「静かねえ」
「ああ、むかしは子どもの声がうるさいくらいだったが、いまは半分以上空き家だからな」

夫婦はぼうぼうに伸びた草を踏み分けながら進んだ。最近は雑草刈りの間隔も遠のく一方だ。この団地に振り当てられる予算が減っているからだろう。もっとも、文句をいうような住民もいない。高齢化がおそろしいスピードで進んでいる。

会長は10年くらい前に妻に先立たれ、元々子どももいないからひとり暮らしをしている。2DKの一室が物置がわりになっていて、そこにそれはあった。

金属のような光沢を持っているが、やわらかそうだ。餅をちぎったような不定形のものが多いが、比較的きちんとした直方体に近いものもある。大きいので枕くらい。小さいものは消しゴムくらい。それが団地の一室で山を成している。

そっと触れるとなまあたたかい。少なくとも金属のような冷たさはない。
おそるおそるさわって、持ち上げてみたが、意外に軽い。
「手でちぎれるし、ぎゅっと押さえているとそのままの形で固定できる。ごく薄くのばして物の表面を包みこむこともできるんだ」

「こんなの......見たことない」
「ああ」
「不思議だろ」
「どうやって、これを?」妻が聞くと会長が答えた。
「落ちてたんだ」
「これが、みんな?」

「集会所の裏の陰になったところに落ちてた。最初は何だろうと薄気味悪かったけど、別に害はないようだ。あのあたり一帯、かなり広い範囲に散らばってるようだった。どこかから風で飛ばされてきたんじゃないかと思うけど、わからない。集会所の裏はだれも通らないし、草刈りも何年もしてないから、いつからあったかもわからない」

「団地の中に秘境があるんだよな。秘境には秘宝があるってわけだ」
夫が言った。
「そうかもしれない。そうだ。まったくこれは秘宝だよ」
夫はその日もバケツに一杯くらいのそれを分けてもらって帰った。
「ベランダの手すりの補修に使えそうだ。いや、ポストのこわれた扉のほうが先かな」

夜になるとまた雨になった。ひそやかな雨の音はかえって静けさを際だたせる。真下も、隣も空き家だ。取り壊しはいつとは決まっていないものの新規入居は受け付けていない。

「テレビもおもしろくないなあ」
最近は地上波のチャンネルが減ったし、放送時間が短くなっている。おもしろい番組も減っている。有料で楽しむ分には選択肢が増えているのだろうが、そうまでして見たいと思わない。

雨の音に交じってきゅ、きゅ、という音がかすかに聞こえた。

「あれはなんだ」
「自動販売機よ。すぐそこにあるでしょ、掲示板の横。買う人もいるのね」
「前からあんな音がしたっけ」
「最近、変わったみたい。硬貨を入れると音がするの」
「でも、変な音だな」
「そう? いまどきのはやりかと思ったわ」
「そうなのかな」

「そうよ、きっと」
「おまえ、自動販売機で買ったりするのか?」
「買わないわ。甘いのは好きじゃないし、お茶なんか家で飲めばいいじゃない」
「そうだな」
「それに、こんなさびれた団地の中だからあまり買う人もないでしょ。入ってる商品も古そうな気がする」
「確かにな」

実際は、妻は最近何回か買っていた。あの音が気がかりで。

硬貨を一枚入れると、少し間があって「きゅ」と音がした。もう一枚入れるとやはり「きゅ」と音がした。それも、そのたび違っているような気がする。音の大きさとか間合いとか。機械仕掛けなら、いつも同じだと思うのだが、それともランダムに変化する仕掛けなのか。

数日後。夫が興奮した面持ちでかえってきた。会長の家に行ってきたのだ。
「今度はこんなものが落ちてたそうだ」

そう言って差し出した手の中にはネジがあった。といっても、見たことのない形の、たぶんネジだろうと思えるものだ。先端が曲がっているし、さわってみると柔らかい。生き物の尻尾のようだ。そしてやはりなまあたたかかった。少し汚れているのは、使用されていたからだろう。多分これは何かの「部分」だ。

「何かに使えそうだろ」
「何に使うの」
「わからないけど、きっと何かに使える。ほかにも、少しずつ形はちがうが、色々落ちていた。それを集めて、おれたち、おれと会長で売ろうと思うんだ」
「売るって。どうやって」

「それは今から考えるんだ。あの素材もいろんなことに使える。これだって、絶対いろんな役に立つ。まだわからないことが多いが、とにかく他のだれかに先を越される前に手を打たないと。さっさと集めて、ほかのだれにもわたさないようにする。それから、売る方法を考える」
妻は何か言いかけて、黙った。

「どっちにしても、ものを保管する場所とか、いろいろ必要だ。金を用意してくれ。会長とおれと折半で会社をつくる」
妻は唖然とした。
「どこにそんなお金があるの」
「定期預金があるだろ。解約すれば」
「そんな...」

「だいじょうぶだ。絶対もうかる。人生最後のチャンスなんだ」
「年金だけじゃ生活できないのよ、あたしたちの世代は。昔の高齢者と違うんだから」
「わかってるさ、そんなこと!」
夫は声を荒げた。妻は息をのんだ。
「だから、言ってるんじゃないか!」

さびれた団地の自動販売機でも、蒸し暑い季節はそれなりに売れるようだった。「きゅ」「きゅ」という音は時々聞こえた。その音が少し変わった、と思った。どういえばいいのだろう。なんとなく重くなった、ような。

ベランダで洗濯物を干していると、何かがぽとり、とサンダルばきの足の上に落ちた。あのネジとよく似た、もっと小ぶりのやつだった。どこから? 妻はそれをつまみあげ、空を仰いだ。

妻はしばらくぶりに自動販売機でコーラを買った。硬貨を投入すると「ぐっ」という、変な音がした。もう一枚投入すると、もう鳴らなかった。出てきたコーラとおつりを取り、家に向かった。

そのとき、ふと自販機の後ろを見た。叫び出しそうになった。何かが、自販機の金属板の継ぎ目からはみ出ていたのだ。何かはわからないが、たぶん、内部で育ちすぎたものが。

「みなさん、覚えていらっしゃいますか」
テレビでアナウンサーが言った。

「今から11年前、日本で大きな地震と津波がありました。たくさんの人が犠牲になり、街が破壊されました。そして翌年、太平洋を隔てた海岸に、被災地から津波で運ばれたものが漂着し始めました。その後も数年にわたってさまざまなものが流れ着きました。今日はその特集です。長い年月をかけて流れ着いたものには、さまざまなドラマが隠されています。第三者からみると何気ないものでも、ひょっとして、それを胸の痛む思いで探し続けている人もいるかもしれないのです......」

ああ、そんなことがあったなあと妻は思い、それからばくぜんと思った。日本から太平洋をわたって対岸に流れ着くのに早くても一年かかった。もっともっと遠いところで大きな災害があったとしたら、そこからいろんなものが流れ着くのにはどれくらいかかるのだろう。つまり、流れ着いたものたちは、いつのころのものなのだろう......。

はっとした。自分は何を考えているのだろう? 何が流れ着いたというのだろう? 会長の家から戻ってきた夫がドアを開けるなり言った。
「まいったよ。暑いのでたまには缶コーヒーでも買おうと思ったら、なくなってるじゃないか。自動販売機が」

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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ある集まりで隣の席になった女性は、結婚するまで大学の助手を務めていたという理科系の人だった。専門はと聞くと「高分子がどうとかこうとか」でちんぷんかんぷんなのでまあそれはいいのだが、とても謙虚な人で自分は文章もうまく書けないし、そういうのが得意な人がうらやましいという。

「私なんか理科系と聞くとそれだけでうらやましいですよー」と私がいくら言っても「いえいえ」「いえいえ」としつこく謙遜される。しかし、不意に思い出したように「道を聞かれたときに『そこを曲がって西に何メートル』とか、具体的に数字を出して説明をすると『すごくわかりやすい!』と感心されることはありますね」と言う。

「私、目視はできるんです」とも。あー、それ、私、全然できないんですよね。50メートルだか100メートルだか、見当もつかなくて......って、それが理科系文科系の違いなのかどうかは知りませんが。