ショート・ストーリーのKUNI[160]スナック「リリイ」のママの涙袋
── ヤマシタクニコ ──

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街はずれの路地の奥にショウガ色の壁と深緑の屋根を持つ一軒のスナックがあった。名前は「リリイ」というが、リリイといえば百合の花であり、それはどう考えても似合ってなかった。

「ミドリムシとかチョウチンアンコウのほうがよっぽど似合っている」「どうしても植物というならオオオニバス」というのがごくふつうの見解だった。


マゼンタ100%に塗られたドアを開くと、にっこり微笑むママはカウンターの中で巨乳を揺らし、ついでに三段腹も揺らせながら、上はばりばりに固めたつけまつげと、下は豊かな涙袋とで縁どられた目をこっちに向ける。

「いらっしゃーい」

その目で見入られると客は文字通り吸い寄せられるように-----まるで強力な掃除機が奥のほうでぶんぶん唸ってるみたいにね-----あらがうこともできずに椅子に座るってわけだ。

ママは特におもしろい女でもなかったが、店はそこそこ繁盛していた。客はつまみがまずいとか内装の趣味が悪すぎるとか言いながらも、そこそこいい気分になって帰って行った。

たったひとつの、そして奇妙な問題点は、スナック「リリイ」に行くたびに記憶を抜き盗られるような気がするということだ。

盗られた本人も何の記憶を盗られたのかわかっていない。ただ、何かをなくしたという欠落感だけはある。何がどこからなくなったのかわからないけど、体のどこかにすきまができて、落ち着かないんだな。

客たちは、昼間ふとそのことを思い出し、はていつ盗られたのだろう、そもそも何をおれはなくしたんだろうと仕事の手を止めて考えたりしたが、結論が出るわけもない。

気にはなるが、妻たちに打ち明けるわけにもいかない。それでなくとも「なんであんな店でお金を使うのよ」「あんたがそんなに趣味が悪いとは思わなかったわ」とさんざんだからだ。

客のひとりである海岸通3丁目の住人にしてタクシー運転手の男はある日妻が突然怒り出して面食らった。

「ひどいわ!」

「ど、どうしたんだ」

「いつもこのブラウスを着ると、いっしょに行ったときのことをあれこれ話してくれたじゃない。なのに、どうして知らん顔してるの」

目の前には見るからに流行遅れなうえに、年齢不相応な大きな襟のついたピンクのブラウスを着た古女房が立っていた。でもタクシー運転手であるその男は、そのブラウスに何の記憶もなかった。

「もういいわっ!」

すでに50の坂を越えてぶよぶよに太った妻はブラウスを破り捨てた。もともとキツキツで破れそうだったけど。

また別の客、公園通り5丁目の住人にして高校教師である男は、夕食のテーブルで妻が焼き魚の皿を2つ自分の前に置いたので、何も考えずに2皿とも食べたところ妻に泣き出された。

「いつも私の分を食べやすいようにほぐして、『はい、きみちゃんの分』とよこしてくれるじゃない!」

そんな記憶はまったくなかったが、妻はそれ以後約3時間にわたっておんおんと泣き続けた。

そう、このように記憶をなくした本人はなんともなくても、それを共有する人にとっては大問題であったりする。そういう記憶を、人は思い出と呼ぶんだ。

スナック「リリイ」のママは、おれたちから思い出を抜き取っては大切に収集しているらしい、ということが客たちのもっぱらの話題だ。

だがいったい、どうやって盗むのか。うわさでは、ママは酒のグラスにほんのひとしずく、酔い薬を垂らすのである。

「酒なんだからもともと酔うけど?」

「ただの酔いじゃない。頭の奥のほ〜に効いて、ゆるゆるになるんだ。そのための特別な、酔い薬」

「そうそう。そしてママがあのでかい口で吸い込むんだ」

「何を」

「おれたちの脳さ。まるごとのみこんで、いらないところを吐き出すんだ」

「そりゃばけものだ」

「違うね。おれは見たんだ。おまえの記憶が盗まれるのを。ママがストローをおまえの頭に突き刺してチューチュー吸い取ってたさ…」

「そういうおまえの脳天が缶切りで開けられ、済んだあとは木綿針で縫い合わされていくところもな」

冗談を言いながら、客たちはそれからもだらだらとマーガレットに通い続けた。
なんでと聞かれたら困るけど、たぶんあの目で吸い寄せるのだ。

ひょっとしたら、ママみたいなひとを魔女というのかもしれないな。

そして何年もがたち、ママの三段腹もたるみがちとなり、マゼンタ100%のドアもやっと色あせて落ち着いてきた頃、客たちのひとりひとりに手紙が届いた。

「拝啓。みなさまがた。このたび店を閉めることになりました。つきましては皆様方からお預かりしていた記憶をお返ししたいと思います。某月某日に店まで、全員お越し下さい。敬具」

客たちはびっくりした。そして大挙して店に詰めかけた。

ママはいつものようにカウンターの内側いっぱいに巨乳と三段腹を押し込み、でんと座っていた。そしてママの前にはずらりと小さな瓶が並んでいた。

「ごめんなさいね。いままで預かってたんだけど、ゆうべ全部出したの。ひとつひとつ瓶に入れといたわ」

「いや、預けた覚えはないけど」

「どこにしまってたんだ?」

「どこでもいいじゃない。持ってって。もう、いいから。閉店のごあいさつよ」

「持ってってと言われても…」

「なあ…」

客たちは途方に暮れていた。なぜなら、自分がなくしたのがどんな記憶かわからないのだから。

客であるタクシーの運転手や高校教師や銭湯の大将やパン屋のおやじ、植木屋にパティシエにやくざにブリーダーに大工に証券マンに元絵描きでいまはただのアル中男その他大勢は一様に困り果てた。

「適当にもって帰りましょうか?」

「いや、それも気持ち悪いだろ」

「そうですよねえ」

するとそのとき、どどっと女たちが店に入って来た。客たちの妻だった。

「どいてどいて!」

「あたしたちにまかせなさい!」

「自分の亭主の記憶くらいすぐに見分けられるわよ!」

女たちは本当に、あっという間に自分の夫の記憶が入った瓶を探し出した。驚いたね。みるみる小さな瓶はなくなり、とうとう一本もなくなってしまった。

ところが、店にはまだひとり客が残っていた。その男はひとりもので、つまり妻はいなかった。2年前に死んじゃったんだ。ああ、そうとも。おれがその最後の客、元絵描きで今はただのアル中男だ。おれはママに抗議した。

「おれの記憶はどうなったんだ? 全員の分があるんだろ?」

「おかしいわねえ。うーん…まだあたしの中に残ってるのかしら」

「たよりないなあ…まあ別にどうでもいいようなもんだけど」

そのとき、店の奥から子どもかと思うような小柄な男がひとり、ちょこまかとした足取りで現れた。

「あら、あんた。いたの?」

「もちろんいたさ。どれ、私に見せてごらん」

男はそう言うとママの目をじっとのぞきこんだ。

「まだひとつ残ってるじゃないか。お客から預かった記憶」

男がのぞきこんでいるのは涙袋だった。そうか、ママは「預かった」記憶をその巨大な涙袋にためこんでいたのか!

「そうなの?」

「私にはわかるさ。ずっといっしょに暮らしてきた女の記憶と、そうでない記憶の区別くらいつくってもんだ」

なんと、その男はママの亭主だった。おどろいた。ママから亭主の「て」の字も聞いたことなかったから。ママは亭主からそう言われると泣き出した。あとからあとから涙がこぼれ、しゃくりあげた。

「あたしのことなんか…いつも知らん顔してたくせに」

「そんなことあるもんか」

亭主はママの背中を、体の割りには大きな手のひらでぽん、ぽんとたたいた。

あとで知ったことだが、ママは亭主が自分をかまってくれないので寂しかった。ふたりの共通の思い出がほとんどなかった。それで客のみんなから思い出をこっそり盗んでは、あたかも自分の思い出みたいに頭の中で転がし、味わっていたのだそうだ。

ママは気を取り直し、さっき亭主がのぞきこんでいた涙袋の端をぎゅうっと押さえた。すると涙がひとつぶ転がり落ちた、とみえてそれがおれから預かった、いや盗んだ記憶らしかった。おれはそのひとしずくを自分の目に入れた。それでたぶん、記憶は元の場所に収まったのだろう。


奇妙なスナック「リリイ」の閉店後まもなくおれも街を離れ、ママとその亭主がどうなったのか知らないが、たぶん幸せに暮らしているような気がする。あの日、泣いていたママは、泣きながらも子どもみたいにかわいい表情を浮かべていたから。

ああ、そういえば夫婦は互いの人生の証人である、というよなあ。

いかん。おれとしたことがまともなことを言ってしまった。アル中男が言うことかい。

とりあえず高校教師は以前のようにきみちゃんの魚の身をほぐしてやっているだろうし、タクシー運転手はなんだか知らないがピンクのブラウスの話を夫婦で楽しくおしゃべりしてるんだろうし、めでたしめでたしだ。

おれに戻って来た記憶がどんなものだったかって? それは秘密だ。ただ、あのとき……おれの中に戻ってきたとき、どんな酒よりほっこりあったまったような気がした、とだけ言っておく。

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Magic Mouseがしょっちゅう「接続が切れました」となってめちゃくちゃストレス。いらいらするので古いMacで使っていたマイティマウスをまた取り出して使っている。しかし、これもスクロールが不調。めーっちゃいらつく!私の小説の出来が悪いのはマウスのせいだっ(ということにする)。