ショート・ストーリーのKUNI[183]Are You Happy?
── ヤマシタクニコ ──

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奇妙なことが起こる。

ある日、彼は街を歩いていて眼科医の看板に気づく。その看板が前からあったのかどうかわからない。だが、看板を見たとたん、その日の朝、目覚めた時にしばらく目がごろごろしていやな感じだったことを思い出した。それでなんとなく医院のドアを押し、診察を受ける。

医者は彼の両目のまぶたをひっくりかえしたり戻したり、しばらく診ていたが、唐突に言う。

「人工レンズがあるのですがね。試してみませんか」




「はあ?」

「ある大学の医学部が開発したものです。いまはまだ世間で公表されていませんが、とてもよく見えるようになります。信じられないくらいにね」

「実験、ということですか?」

医者はあいまいな表情だが、彼はあっさり承諾する。彼はもう長い間、仕事にもつかず、特にやりたいこともなく、毎日を無為にすごしていた。たまには変わったことがあってもいいだろう。そう思った。

彼の両目にはその日のうちに新開発の人工レンズがはめこまれる。

「カメラのレンズみたいなものです。目の端に指先で軽く力を加えてやることで焦点距離やピントが操作できます」

医者はそう言った。家に帰るなり、彼はバルコニーに立つ。彼の住居はマンションの16階で、バルコニーからは街がそっくり見渡せた。

医者に言われたように目の端を指先で軽くとん、とんとたたく。すると、まるでズームレンズのように、彼の目がどんどん遠くのものをとらえていくのがわかった。

すぐ手前の住宅地からその向こうの公園の木々、またその向こうの住宅地の家並み、さらに向こうの駅前の光景がぐいぐいと近寄せられる。

まばたきひとつでピント位置は移動し、はるか先の道路を歩く人々の顔がまるですぐそこにいる人のようにいきなりくっきりと飛び込んでくる。ひげを生やした男が笑う。赤ん坊が泣いている。おそらく数百メートルは離れているだろうに。

彼はほとんどめまいを覚え、あわてて目の端を指でタップすると、たちまちそれらの人びとの姿はぼやけ、縮み、遠ざかっていった。気がつくと彼はとんでもないことをしたかのように心臓をどきどきさせていた。

「このことは口外しないでください」

医者の言葉を思い出して不安になる。だが、なんと魅力的なレンズだろう。

思いもしなかった日々が続く。彼は、見知らぬ街区のあちこちを、自宅のバルコニーにいながらにして散策しているようなものだった。

人々は遠くのバルコニーから見られているとは知らず、歩いたりおしゃべりしたり、立ち止まって何か思案にふけったりしていた。声は聞こえないものの、笑ったりうなずいたり、眉間にしわを寄せて必死で抗弁しているらしい人も見えた。

もちろん、何かに遮られているところは見えない。人工レンズを入れても透視できるわけでも鳥になれるわけでもない。だが十分だ。

ほんの少し視線をずらしただけで、簡単に別の街区に移動することができる。慣れないうちはその都度視界がぐらぐらして気分が悪くなったが、毎日見ているうちにレンズ操作にも慣れて、そんなことはなくなった。

遠くばかり見ているせいか、時々自分のまわりのものがぼやけて見えるときがあるが、別にかまわないと思った。特に見るべきものもない。食べて、寝るだけなのだ。

そのようにして見ていたあるとき、およそ400メートル先─たぶん─の地点にいる一人の女と視線が合った。髪の長い、まだ若い女だ。彼を見て笑いかけた。

──まさか!

すぐに勘違いであることに気付く。手前のほうから、女のもとに走り寄る友人らしき人物が現れたからだ。女はその友人のほうを見ていただけなのだ。なんだ、と思う。

だが、それ以来、その女が気になって仕方ない。女の髪の色や着ていたTシャツの「Are You Happy?」と書かれた文字を、何度も思い浮かべる。

漫然と見ていただけの日々が変わる。彼は絶えずその女を視界に探し求めてしまう。見つけると何かの陰に入って見えなくなるまで追い求める。

それで、女が川のそばのアパートに住んでいること、週のうち四日間は雑貨店に行くこと、そこでパート勤めをしているらしいことなどを知る。買い物は街の中心にある大きなスーパーより駅前の小さいほうのスーパーが多い。時折、公園のベンチでぼんやりしていることもある。先週から歯医者に通い始めた…。

がまんできなくて、彼は女の住む街区に出かけていく。マンションを出て、道路を渡り、曲がり、進み、果物店の角を曲がり、川沿いに歩き、信号を渡り、古い雑居ビルの横を通り、行かないほうがいいのじゃないか、見ているだけでいいじゃないかと自分に問いかけつつ、脚がひとりでに動き、彼はそれを止められず、ずんずんずんずんと女のいるところに近づく。

ふと、アイスクリームの店を見つける。女が時々買う店だ。彼は女がいつも買うラムレーズン味のアイスクリームを買い、それを手に提げて歩く。

予測した通り、女の後ろ姿を見つける。今日は勤め帰りにスーパーに寄ってきたのだ。彼はどきどきしながら足を速め、近づいていく。かなりそばまで来たと思うと前を横切る人がいてまた離れたりしながら、それでも少しずつ近づく。

10メートルほど前を歩いていた女が不意に立ち止まる。友達と出会ったようだ。ひとしきり歓声をあげていたが、やがておしゃべりを続けながら並んで歩き出す。その声の印象は予想していたものとかなり違って、彼は少々面食らう。

女は楽しそうだ。でも、歩みが遅くなった分、彼はどんどん近づいてしまう。女のすぐ後ろに来た。すると、女がくるりと振り向いた。

「何なのよ、いったい」

女の連れも不審そうな目をこちらに向けている。

「これを…」

彼はおずおずとアイスクリームを差し出す。

「あなたの、好きなラムレーズンです」

女が一瞬ぎくりとした後、勢いよく彼の手をはねのけ、ラムレーズン味のアイスクリームは道路に叩きつけられる。女の連れが女と彼を交互に見ながら言う。

「何こいつ。ストーカー?」

「知らない。さっきからつけてたの。気持ち悪いと思ってた」

その日も女はあのTシャツを着ていた。Are You Happy? アーユー、ハッピー?
まわりに人がいっぱい集まってきた。

「ちょっとあんた。何かしたら警察呼ぶからね!」

「あっち行ってよ、ヘンタイ!」

誰かに後ろから蹴られ、倒れ込みながら彼は思い出した。前にもこんなふうな扱いをされたような気がする。どこでだったか。ああ、そうだ。それで彼は勤めをやめたのだった。気持ち悪いひと。何考えてるの? 近寄らないで! そうだ。どうして忘れていられたのだろう…。

彼はうずくまったまま遠くを見た。数百メートル先、自分の住むマンションが見える。16階のバルコニーに人の姿が見えた。まるで彼の姿を見て哀れんでいるようにみえたがそんなことはないはずだ。それは彼の妻だった。

夜になって、彼はマンションに戻った。遅くなったのは眼科医院に寄って人工レンズをはずしてもらおうとしたからだ。

「元の退屈な目に戻すんですか。もちろんかまいませんが、近くのものが見やすいレンズに変えることもできますよ。近くのものが本当に、びっくりするくらいよく見えるレンズです」

考えるのがめんどくさくなって、とりあえずそのまま帰ってきた。家では妻が待っていた。妻がいることを長い間忘れていたと思った。

テーブルにつくと妻が、「今日はバルコニーに行かないの?」と言う。

「毎日、何を見ていたの?」

彼はどう答えていいのかわからなかった。


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思い出したが、私の友人で一時マンションの16階に住んでいた人がいた。16階から地上の移動販売車に向かって「お豆腐やさーん、ちょっと待ってー」と呼び止めてから降りていったりしたものだそうだが、声がよく通る人だったからできたのだろうか。私では無理な気がする。