ショート・ストーリーのKUNI[205]右手と左手みんな違ってこれでいいのだ
── ヤマシタクニコ ──

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でんでん山博士は売れないもの書きである。博士と書くが単に名前であって、「ひろし」と読む。決して難しい論文を書いて博士号を取得したわけではない。

そのでんでん山博士が、この日は一日中、博士にしてはまじめに仕事をして、今まさにぬくぬくとした布団の中で眠りに落ちようとしている。博士はこのひとときをこよなく愛している。眠りが自分をとらえ、夢の国へと引きずり込む。

ああ、だめだ、まだだ、まだだ、いや、もういいかもしれない、でも、でも、お願いだからもう少し、ああ、たまらない、いっそ身をまかせようか、いやもう、なんというか、あっはん…このどっちつかずの状態をもう少し楽しませておくれ…とわずかに残った理性で踏ん張ろうとするが、やがて抗いかねて落ちていく、その落ちていく自分自身を見ている、もうひとりの自分がいるような感覚。

と、そんなふうに博士がもにゃらもにゃらしていると、どこかで話し声がするではないか。




──まったくもう、今日という今日はがまんできないわ

──なんなんだよ、うるさいなあ

おどろいて聞き耳を立てる。

──うるさいじゃないわよ、ほんとになんであたしだけがこんなに働かなきゃならないのよ。ちょっと、聞こえてるの、左手!

──聞こえてるから、そんなに大きな声を出すなよ、右手さん。

どうやら博士の右手と左手が会話しているようなのだ。

「今日は博士がめずらしくまじめに仕事してたわ。午後からさっきまでずっとパソコンの前に座って書いてた。まあ中身はどうあれ、ていうかろくなもんじゃないことはわかってるけど量的にはたいしたものだった。おかげであたしはまた腱鞘炎が悪化しそうよ」

「そうかい。ぼくはそれほどでもないけどね」

「あたりまえよ! あんたの働きが悪いからほとんどあたしが打ってるんじゃない。博士は過去何度かタッチタイピングの練習をしたことあるけど、みごとに挫折。結局『わしにはわしのやりかたがある。ほとんど右手の人差し指と親指でしか打ってないとしてもそれが何なんだ! だれに見せるもんじゃなし』と開き直ったおかげでほとんどあたしが打つことになってしまった。

あたしが必死でキーボードの上をばりばり動き回り、かつマウスを操作しているのにあんたはたまに人差し指でちょん、と打つだけ。クールファイブのバックコーラス以下。せいぜい餅つきのときに横から水をつけるひと、オーケストラのシンバル」

「それ、どっちも大事な役割じゃないか」

「世の中まじめにやっても報われないことが多すぎ。あんたなんか最低賃金にも相当しない働きしかしてないのに」

「いや、給料もらってないし」

「博士も博士よ。カナ入力にすればいいのに、なんとなくかっこよさそうという理由だけでローマ字入力にするからよけいたくさん打たなきゃならない」

「博士がみえっぱりのばかであることは認める」

認めるなよ! と博士はおぼろな意識の中でつっこもうとするが、なにしろ半分寝ている状態なので無理だ。

「ぼくにいわせると君は少々おせっかいだ」

「なんですって」

「たとえば『私はそう考えたのであった』と打つとき、君はぼくが打つのを待ってりゃいいのにTやG、D、時にはSにまででしゃばって打ってしまう。越境行為がはなはだしい」

「あんたが遅いから見てらんないのよ!」

「勝手にやっといて『あんたはたまにAを打つだけ』だなどと言わないでほしいもんだ。隅っこに追いやられて小さくなってるぼくの気持ちもわかってほしいね」

「もっとさっさと打てばいいじゃない。博士が書くのは一応小説だから、どうしても『だった』『なかった』『なのだ』『だから』とか、AとかDが多いでしょ。あんたがもたもたしてるといら〜〜っとする、てか、こっちにも影響がおよぶのよ!」

「別にゆっくり打ってもいいじゃないか。売れっこ作家ならいざしらず。売れないもの書きのいいところはのんびり書けるということだろ。遊びをせんとや生まれけむ。人生、楽しんでなんぼ。ぼくはあくせくしたくない」

「あんたといるとのらくら体質がうつりそうだわ。おお、いやだ!」

そのあたりで博士はごうごうといびきを立て始めたので後は知らない。

次の夜。

博士が飽きもせずに、ああだめだめ、いやん、あーん、もーと寝落ち前の甘いひとときを楽しんでいるとまた会話が聞こえてきた。

「前から言ってるでしょ。タオルをしぼるときにあんた全然力入れてないじゃない。あたしばっかり」

「ぼくとしては十分に力を入れてる」

「どこが」

「ぼくは力が弱いんだ。君の6割くらいだろうな。弱いものの立場に立ってものごとを考えるべきだ」

「がんばればできるわよ! さぼってるだけじゃない」

「あのさ。ぼくたち左手が力も弱く不器用でもあるのは、ぼくたちのせいじゃない。なんでも右手中心にできてる社会のせいじゃないか。ぼくたちだって華々しく包丁を使ったり、ピンポンで鋭いレシーブを打ちこみたいもんだが、ほったらかしにされたおかげでこんなふうになったんだからな。ぼくたちは社会の犠牲者なのさ」

「犠牲者ですって。甘ったれないでもらいたいわね」

いいぞいいぞ、もっとやれ〜という声が聞こえた。博士は半分寝ながら、どこだろうと訝っていると

「あんたたち、黙っててちょうだい、右足と左足!」

ああそうか。足か。

「いいじゃないか、言わせておけよ」これは左手。

「足の場合は右も左もあんまり関係ないでしょ!」

「そんなことないぞ〜」

「利き足でつい踏ん張るしな〜」

「靴のかかとの減り具合も全然違ったりするぞ〜」

「水虫になるときもばらばらだしな〜」

「椅子の上に靴下脱いであぐらかいてたら脱いだ靴下が床に落ちて、それを足の指でつまんで拾うときは〜」

「右足左足どっちでもいけるけどな〜」コーラスで来た。

でんでん山博士は依然もにゃらもにゃらと夢うつつの境をさまよっていたが、つられてつい言葉を発してしまった。

「右手と左手、交替してみりゃいいじゃないか」

一瞬、しーんとなった。

まずかったかな、と思ったのもほんのつかの間。やがて本格的な眠りに背後から猛タックルされてかすかな抵抗を試みるもむなしく、すとんと意識がなくなった。


次の日。博士は朝の牛乳を飲んでいて、いやにカップが重いと感じた。カップを持つ右手がしんどくて耐えられない。わしも年かと悲しくなった。確かに年だけど。

昼にラーメンをつくってテーブルに運ぼうとしたときは丼が傾いて、もうちょっとで熱いスープがこぼれるところであった。

右手が「重っ」と感じて、つい下がってしまったようだ。さらに、いざラーメンを箸で食べようとすると麺がろくにはさめない。ラーメン食い歴50年、日本のインスタントラーメンの歴史はすなわちわが人生と言っても過言ではないわしが何としたことか。と思って気がついた。

ははーん。交替したか。

さすがに違いは歴然だった。突然現れたゴキブリを、右手にはえたたきを持って叩こうとしたときは狙いがはずれまくり、二度三度と失敗したあげくパニクったゴキブリがぶわーんと飛んできて、もうちょっとで博士の顔面にぶつかるという恐怖の体験をしてしまった。

鼻くそをほじくろうとした指は間違えて口の中に入り、仕方ないので歯に挟まったものを無理矢理探してほじくった。

博士はあきれはて、むしろおもしろくなった。メールを打つにもいつもの倍の時間がかかり、もたもたぶりに自分で吹いた。

すると、途中から打つのが速くなった。なんと、左手が右手の領域まで進出してくるのだ。左手は「U」や「I」までどんどん指を伸ばして打ち、右手の分までさっさと仕事をしてしまった。右手は左手になってもやっぱり右手で、左手は右手になってもやはり左手なのだった。

「もう、ほんとにあんたって、見てらんないから。はらはらするばかりでいつもの5割増しで疲れちゃった。交替は今日一日でおしまいだからね! あたしがいかに毎日、苛酷な労働をこなしているかわかったでしょ!」

「君は忙しくしてるのが好きなようだからそれでいいじゃないか」

「ご、誤解よ!」

「それにしても君は相変わらずおせっかいだ。ぼくをまたいで『:』や『@』を打とうとしたときにはびっくりしたよ。あんなことしてたら、腕がひきつれるぜ」

「だから…遅すぎるからつい手を出したくなるの! 博士だってもうこりごりと思ってるわよ」

「そうとは限らないぜ。それに…」

「それに?」

「今まで遠いので気づかなかったけど、マウスとぼく、なんか気があうみたいなんだよね。向こうもぼくのこと、まんざらでもないような。うふっ」

「何それ! かんちがいよ、きっと!」

「そうかなあ」

「そうに決まってるって! だれがあんたのこと!」

右手と左手の会話を、博士はまたしても、もにゃらもにゃらしながら聞くとも
なく聞いていた。

うーん。左手にも困ったもんだが右手にも問題があるし、なんというかこれはその、あっちを立てればこっちが立たず。

のんびり屋の左手と、基本忙しいのが好きだが文句の多い右手。

わしにとってはどっちも大事であるし、どっちがいいということはない。それぞれの個性というものだ。ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワ〜ンとSMAPも言ってたではないか。解散するけど。

ここはひとつ、どちらもが今のままで日々楽しく暮らしていけるよう、仕事を配分するのが親心というものだろう。

翌日、博士はまたろくでもない小説を書き始めた。

「ふと思う。東京でもっとも古い店。地図、ひろげる。雪の降る日に。そして見つける。ふと、イチョウの木に妹と弟とともに、交響曲のむちうちに」

──意味不明だ。

博士が何を考えていたかというと、なるべく右手の領域の比率を上げる、左手はあくまでものんびりさせたいということだ。甘やかしすぎだろうか。

「A」はたまにしか打たなくて済むように、過去形は避けることにした。過去の話なのだが。登場する地名も「大阪」だと「A」を2回も打たなければならないので、くやしいが東京にする。「那覇」とか「金沢」は論外だ。Aの連続で左手がうろたえ、右手がいらついてしゃしゃり出るに決まっているから。

人物の名前は「福本由起夫」にするか。「笹田大三郎」はやめよう。いや、それだけか。

これで配慮したといえるのか。いえないような気がする博士であった。


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今年の大河ドラマは三谷幸喜脚本ということで珍しく毎週見ている。歴史にうといもので、このドラマで初めて、真田幸村とか後藤又兵衛がどういう人かわかった(ちょっとだけ)。大阪城の堀がだまされて埋められたということは子どもの頃にかすかに聞いた記憶があるが、改めてドラマで見て、いまごろ「徳川家康むかつく〜」と思ってる私。遅すぎだよ。