ショート・ストーリーのKUNI[232]小説家・棧田ヒロシの憂鬱
── ヤマシタクニコ ──

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私の名前は棧田ヒロシ。小説家を名乗っている。

とある会社に長年勤めていたが、ほとほといやになったので辞めた。そして、昔から憧れていた小説家になることにした。

といっても、別に本を出版したわけでもないし、何かの賞をもらったわけでもない。それどころか、まだ小説を書いたことがない。原稿用紙3枚程度の、遠足に行ったことを書いた経験がある程度だ。

それは小説ではなく作文だといわれそうだが、だいじょうぶだ。作文のはるか先に小説がいるのだろうが、道はつながっている。歩いていればいつかたどりつくに違いない。おお、われながらいいことを言った。

そうだ。私はこれからの人生を小説に捧げるのだ。私の本当の人生はこれから始まるのだ。そもそも小説というものは

ガッシャン!





浴室のほうで大きな音がした。一瞬考えて、ははーんと見当がついた。吸盤で固定する方式の歯ブラシホルダーが、タイル壁からはがれ落ちたのだ。

やわらかいプラスティック製なのだが、落ちたときに歯ブラシが抜け落ち、それがどこかにぶつかったり転がったりすると、意外と大きな音を立てる。それに違いない。それにしてもしばらく落ちなかったのに。めんどくさいなあ。

私は浴室におもむき、現場を見る。やっぱりそうだ。

わずか数センチほどの歯ブラシホルダーはクマのかたちをしている。クマが脚を投げ出して座り、両手を前であわせている。そこへ歯ブラシを差し込むのだが、そのクマは今、シンクの中で横になり「てへっ」というような表情をしていた。口角が上がって、わざとらしく笑ってみえる。それになぜか横目使いだ。私を見ている。

何が「てへっ」だ。私はもとのタイル壁にそいつをぐにゅ〜〜〜〜っと思い切り力を入れてくっつける。まあこれでしばらくはだいじょうぶだろう。浴室を出てパソコンデスクに戻る。

何を考えていたっけ。そうだ。そもそも小説とは人生を

ガンッ!

また浴室で音がした。行ってみる。またしてもクマがシンクの中で「てへっ」と笑ってこっちを見ている。いやな予感がした。

読者諸氏もおそらく経験がおありのことと思うが、この手のものは剥がれないときは剥がれない。がれ出すとしばらくは、何度も何度も剥れまくって手に負えなくなるのだ。

それでも一応、また吸盤をぎゅ〜〜〜〜っと押しつけてみる。しばらくじっと見つめる。ついたか。ついたな。ついた、と思う。念のため歯ブラシは差さないでおこう。よし。

そもそも小説とは人生を写すものであるからして

ボンッ!

またクマが落ちたようだ。浴室に行く。クマはうつむいてシンクの中にいた。拾い上げると「てへっ」と私を見る。だんだん腹が立ってきた。そうか。おまえの魂胆はわかったぞ。私はクマの吸盤を思い切り押しつけて浴室を出た。

私は椅子の上にあぐらをかき、テレビをつけた。司会者がニュースを読み上げ、タレントが思い思いのことを言う。

「私は、そんな制度はなくしたらいいと思いますね」
「ほー、○○さん、そうですか」
「はい、もうだれでもやりほうだいに!」
「やりほうだいですか!」

何の話かわからないが、とりあえず見る。見ているうちに腹が空いてきた。冷蔵庫からつまみを取り出し、ビールを飲み始める。

「しかし、そんなことになると困る人も出てきますよ」
「いや、そこはあれですから」
「○○さん、それはなんぼなんでも」
「ここでコマーシャルです!」
「♪肉肉にく〜〜肉といえばなんたらかんたら〜」
「肩こりにはこれ! ♪ワ、ワ、ワワ〜〜」
「部屋干しのにおいが〜〜〜」
「さて今日はスタジオに豪華なゲストをお招きしています。権田原よし子さん
です!」

権田原よし子、老けたな……。ぐびっとビールを飲む。

あれ? 私は何を考えていたっけ?
そうだ。そもそも小説とは人生を写すものであるからして、これまでの人生経験が

ゴロッ!

やっぱりそうか。もう間違いない。クマの歯ブラシホルダーの分際で。おちょくりやがって。怒りでくらくらしてきた私は浴室に行き、壁から落ちて「てへっ」と笑っているクマに思い切り毒づいた。

あほぼけかす! あほぼけかす! かす! かっ、 す〜〜〜っ!!!!

はあはあはあ。

私はクマの息の根をとめるため、ネットで調べまくった。

吸盤式の……クマ、いや、吸盤式のクマでは出てこない。吸盤式のクマが人里近くに出没したりしたらコワイのかコワくないのかわからない。

吸盤式の歯ブラシホルダー……でいいのかなあ。タオル掛け、でもいいか。なんでもいい。落ちない方法。絶対落ちない方法、金輪際、二度と、一生、落ちない方法……はないようだ。

つけるまえに汚れをしっかりふいて、とか壁面のほうもきれいにして、とかあたり前のことしか出てこない。

よく水気を取ってから、と書いてるサイトもあるし、ちょっと水をつけるとしっかりつく、という正反対のことが書いてあったりする。その他は特にないようだ。

いっそのこと、接着剤でつけてやるか。いや、あのクマのことだから意地でも落ちるかもしれない。そして「てへっ」だ。むかつく。

とりあえず今まで乾燥した状態だったわけだから、ちょこっと水をつけてやるか。私は少しだけ吸盤の裏をぬらし、タイルの壁にむっぎゅと押しつけた。

右手で押し、左で押し、両手で押し、息を止めて押し、ふと考えて姿勢を正し、今度は息をすーーーーーっと吐きながら押した。呼吸法が関係するとも思えないが。

それから私は、しばらくクマのことを意識の外に追いやった。クマは忘れるのだ。すでに読み終わっていた朝刊を改めてひろげ、声に出して読み始めた。

それから勢いで「おお牧場は緑」を歌い、「ドレミの歌」を歌い、「天城越え」と「365歩のマーチ」を歌った。歌い終わっても浴室からガシャッともボコッとも聞こえてこなかった。よし。

クマもそのうちばかばかしくなって、自分が何をしているのかわからなくなるだろう。って、クマが何をしているというのだ? いや。ここで疑念を抱いてどうする。私はまたテレビをつけた。

天気予報だ。明日はよく晴れるらしい。わーい楽しみだ。って、今日も昨日も、ここんとこずっと晴れじゃないか。仕方ない。波の高さか。へー。明日は1メートルくらいか。なるほどなー。なるほどなー。波の高さが1メートルか。勉強になるなー。聞き漏らしたが奈良県の波の高さ情報って、ないんだろうな。猿沢の池くらいしかないもんな。

浴室は静まっている。いい感じだ。そのとき、チャイムが鳴った。

「はい?」

「あ、おじゃまします。棧田さん、ですか。わたくし、読産新聞のものですが」

「ああ、新聞はけっこうですけど」

「そんなことおっしゃらずにお話だけでも」

「お話だけだよ」

「はいはい」

なんとなく玄関に入れてしまう。

「失礼ですが、いま、どちらの新聞を」

「新聞は取ってないんだ。いま貧乏で」

「そうなんですか。でも、読産でしたら他紙よりお安くなっておりますが。おまけに今ご契約いただくとすてきな景品もございますよー。コシヒカリ10kgとか、日清焼そばUFOを一か月分とか」

「それは魅力的だ。でも、いまだけじゃなく今後も貧乏の予定なんだ。なぜかというとね、おほん、私は小説家なので」

「小説家?!いいじゃないですかー」

「よくないよ。小説家といっても私の場合、ふふっ。いわゆるその、売れない小説家でね」

「そうなんですか」

「うん。まあ、売れる売れないだけが小説家という存在を決定するわけではないがね。私はそんなことに一喜一憂する輩とは違うのだ。自分の人生は小説の神に捧げたつもりでひたすら書き続ける、これはもはや天命であってあらがおうとしてもあらがえ」

ドンガラガッシャーン!!!

これまでにない派手な音が浴室から聞こえた。実は浴室にある「吸盤式」のグッズはクマの歯ブラシホルダーだけではないのだ。タオル掛けも、その横の、ちょっとしたものを載っけておけるプラスティックの小さな棚も吸盤式なのだ。

今の音はおそらく、それらが同時多発的にはがれて落下したのであろう。クマめ。私の内奥から絶望と怒りの固まりが湧きあがってきた。それらを無理矢理抑えようと、顔をゆがませつつぷるぷる震えていると、読産新聞の勧誘員が言った。

「今の音は……。ちょっと上がらせていただいていいですか」

「あ、はい、どうぞ」

勧誘員は迷うことなく浴室に向かい、現場を見た。私も後ろからのぞく。シンクに落っこちているのは棚で、そこに載せてあったコップや歯磨きが散らばっている。その手前の床にはタオル掛けが横たわり、落下時にぶちあたったらしい洗面器が浴室の端にまで転がり、クマはシンクの一番下で「てへ」笑いをもらしていた。

「やっぱり、これですね。まかせてください」

私が何も言わないうちに、勧誘員はさっさとそこにあったお風呂ブーツをはき、落下したものを取り出し、くっつける作業を始めた。

「私、実はこういうの得意でして」

「そうなんですか?」

「ええ、今の仕事に就く前はいろんな職業を転々としましてね。手先は器用なので便利屋をやってたこともあります。ちょっとした修理とか、めっちゃ得意でして」

「へえ」

「何にでもちょっとしたコツがありましてね。いろいろやってると、そのコツを見抜くのも早くなるんですよ」

「へえ」

「しかし、この手のやつは当たり外れがありましてねえ」

「はあ」

「どうかするとこれを何回もつけなおすことで一日終わってしまうことがありますよね」

「ま、まったくです!」

「私、ときどき思うんですが、これも何かの陰謀かもと……」

「陰謀?」

「ええ。国民の貴重な時間をこういうことに浪費させるという当局の……」

そこで勧誘員はゆっくりと首をねじ曲げ、私のほうを横目で見て、にった〜〜〜と笑った。

何者だおまえは!

「さ、これでだいじょうぶでしょう」

「これで落ちませんかね」

「落ちません。私を信用してください」

勧誘員はきっぱり断言した。なるほど。腕に技術のある人はこういう自信を持つことができるのだ。

「すいませんね。新聞の勧誘にきていただいたのにこんなことしていただいて」

勧誘員は靴を履きながら

「いえいえ。嫌いなことじゃないんで。あ、そうだ」

「なんですか」

「クマの、えっと。歯ブラシを差しこむやつですね。あれ、ちょっと汚れていたので、ついでにナイロンタワシでみがいてきれいにしておきました」

「そんなことまで。ほんとにいろいろお世話になりまして」

「では失礼します」

「ども」

私は浴室に行ってクマを見た。

なんてことだ。クマの人相(クマ相か)がすっかり変わっていた。どんな強い力でみがいたものか、口の両端がごりごりと削り取られ、傷だらけになり、その傷のせいか口角上がり気味だったのにむしろ下がってみえる。

いまやクマは「てへっ」と笑ったりしていなかった。恐ろしい形相で(横目だし)にらみつけ、その口の両端から血を幾筋も流しているようにみえた。私は思わずあやまった。

ももも申し訳ありませんでした。私が悪うございました……。

なんでやねん!


【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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昨日(5月16日)のまつむらまきおさんのテキストがセルフレジの話だったが、そうそう、うちの近所のツタヤにひさしぶりに行ったら、セルフレジになっていてびっくりしたのだ。

といっても、客はほとんどいなくて(そうだろうなー)スタッフのお姉さんがつきっきりで説明してくれたので、セルフなのか何なのか人手が少なくて済んでるのかどうかよくわからん状況だったけど。

おかげで生まれて初めてバーコードの読み取り機を使って「へー、私、スーパーのレジの人みたい!」とおもしろがったり。

しかし、次回行ったときにすっかりやりかた忘れてたら「もー、こないだ何聞いてたんですか!」と怒られるんじゃないだろうか。それが心配だ。