ショート・ストーリーのKUNI[21] 海
── やましたくにこ ──

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昔も今も、恋人たちはなぜか海に行きたがるものだが、これはある意味危険である。

なぜなら、海は聞いているからだ。甘いささやき、笑い声からなきごと、ののしりあい、抱擁の際の衣擦れの音、さりげなくはずした眼鏡をことりとそばに置く音まで、海は何食わぬ顔ですべてを聞き、そしてのみこむからだ。

そう書くとたちまち声が聞こえる。海辺に限らないのではないか。人の営みというものはやがてすべて海に排出されるものだから、と。おそらくその通りだ。海は川につながり、川は湖につながり、そして世界中の海はつながっている。われわれはどこへ行こうと、海から逃れられない。


私はある人から聞いたことがある。人がこの世に生きたという「事実」はその人が死に、その人のことを記憶しているすべての人が死んだ後でも消えることはないのだと。事実が残るとはどういうことだろうか? それはわれわれ人間を超えた存在、いってみればこの世界というものが記憶しているということだろうか?

私はそこでまた、海のことを思うのである。

あるところに年老いた夫婦が住んでいる。夫のほうは近くの海岸を散歩するのが毎朝の日課だ。

ある日の散歩中、ふと足元に目をやると波に打ち上げられた海草や木くず、空き缶などに交じって透明なゼリィのようなぷるぷるしたものが落ちている。これまでも落ちていたのに気づかなかったのか、そんなものが打ち上げられたこと自体初めてだったのかどうかはわからない。

なにげなく手で持ち上げると、それは思いのほか充実した重さを感じさせ、しかも生きもののようにかすかに温かみを帯びている。大きめの丸パンくらい。表面はさらさらしている。自然と、抱きかかえるかたちになる。

「こんなものを拾ったよ」
家に帰り、妻にそういう。
「どこに入れたらいいだろうね。そうだ。水槽があったね」

物置から古い水槽を引っ張り出してきれいに洗い、なんとなく塩水を張ってみる。やはり生きもののような気がするからだ。水槽の縁からすべらせると、それは静かに底に向かって落ちていき、ふわりと着地すると、もうそれきり動かない。透明なからだはかろうじて水との境目がわかる程度で、見る角度によっては、そこにあるのかどうかもわからない。

「なんだろうね、これは。生きもののように見えるがそうではないのかもしれ
ないね」
彼のそばで妻はそっと微笑むばかりだ。

夜半、夫婦のどちらからともなく目をさます。何かが聞こえるのだ。遠い遠いところから。いや、そうではない。それは部屋の隅に置いた水槽の中から聞こえるのだ。月明かりがかすかに照らす水槽の中。そこからひそやかな話し声が、細かな泡の粒のように立ちのぼってくるのだ。

(そうだろ? ねえ、きみも)
(ああ、これだったのね)
(ぼくはいつだって、きみを)
(どうかしら)
(なぜ)
(あ、見て、あそこ)
(水色が好きだ)
(私、知ってるの)
(なにを?)

夫と妻はものも言わず聞いていた。まだ若い男と女のたわいもない会話。背後できいきいと海鳥が鳴く。ぴちゃ、ぴちゃ、と波が桟橋に打ちつけるかすかな音も聞こえる。雲間から射す陽光が室内にさんさんと降り注ぎ、潮の香さえ満ちてくるようだ。

夫の目から涙がこぼれた。その声は若いころの彼の声に違いなかった。ベッドに横たわったままそっと妻のほうを振り向くと、妻と目が合った。妻は何も言わず微笑んだ。夫はたまらなくなり、妻を抱き寄せた。

「こんなことがあるのだねえ。なんと不思議なことだろう。これは僕とあなた
じゃないか。こんなことがあるのだねえ」
水槽の中からはいつまでも、声と水音が聞こえていた。

あくる日、妻はゼリィのようなその物体を水槽から出し、両手にかかえてひとりで浜辺に向かう。はだしで水の中に入っていき、腿まで浸かったあたりでその物体を水に放つ。物体は沈むかとみえてまた浮かび上がり、ひと揺れ、ふた揺れすると、もう、広大な水の堆積の中のどこにいるのかわからなくなった。

その中に、若い日の夫と、自分ではないほかの女の声を閉じ込めたまま。
彼女は若いころに海辺など行ったこともなかった。

海は今日もさまざまなものをのみ込み、ひたひたと膨張し続けている。近年、海面が上昇しているのはこの星が暖かくなっているからだと科学者は言うが、そうではない。やがて海はこの星のすべてを覆う。そのことははじめからきめられていた。われわれは遅かれ早かれ、自らの記憶の底に沈むべき存在なのだ。

・この作品は計良モトヒロ氏の作品「Vacant House」に触発されたものである。
氏の作品サイト↓(Gallery → etc-01 →ET-001)
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