ショート・ストーリーのKUNI[23]酒
── やましたくにこ ──

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あるところに呂という男が住んでいた。彼は小説家で、その書いたものは庶民に絶大な人気を博していた。とはいってもそれはもはや過去の話で、ここ数年は才能も枯渇したのか新しい物語も思いつかず、かつてはしつこく新作を催促してきた版元にもあきらめられ、彼は急速に忘れられた小説家になろうとしていた。このままではいずれ蓄えも底をつき、困窮するのは目に見えているが、いまさら物書き以外の何ができよう。

呂は毎日、目覚めるとまず机の前に座ってみるが、紙をいくら見つめていても物語が浮かんでくるはずもない。呂は自暴自棄になり、酒を飲んで現実を忘れようとした。あるいは溺愛している若い妻の肌を愛で、交わることで。だが、ことが終わり、酔いから醒めれば何が変わっているわけでもなく、それどころかあたかも美しい絵が日に日に色あせ、料紙は傷み、顔料は輝きを失なって朽ち果てる。それを早回しにして見せられているようだ。


呂がそのような日々を送っていたとき、男が現れた。男は楊と名乗った。青みがかった眼をした美しい若者だ。

「あなたの書くものをこよなく愛するものです。もう一度あなたの小説を読みたくてまいりました」

「そうはいっても書けないものはしかたない。私はもう一生分の能力を使い果たしたのかも知れぬ。紙を前にして一言一句も浮かばぬ」

「私は酒を造るのが得意です。私のつくる酒を飲めば書けるでしょう」

楊はそう言って小屋にこもり、幾日かすると小さな瓶を持って現れた。「これをお飲みください」

瓶からこくこくと音を立てて酒が注がれると呂は半信半疑で盃を取り、飲み干した。不思議な味だった。だが一杯ではわからない。二杯。三杯。四杯。何が違うのかわからなかった。気がつくと呂は筆を執り、新しい物語を書きつづっていた。これまでなかったほど熱中して仕上げ、版元に渡すとそれは絶賛され、ただちに出版されて瞬く間に巷の評判となった。

「おまえのおかげだ」呂がそばに妻を侍らせながら感謝の言葉を口にすると、楊はうれしそうにほほえんだ。

「あなたの書いた物語がふたたび読めると思うとこれ以上の喜びはありません。あなたを信じておりました」

楊は酒をつくるだけでなく、家に住みついて呂の身の回りの世話もするようになった。食べるものから身につけるもの、仕事の計画や人と会う手はずまで楊はすべててきぱきとこなしてくれた。呂はすっかり楊を信頼してまかせていたが、不思議に思って聞いてみた。

「なぜおまえはそのように私に尽くしてくれるのだ」

楊は呂を見つめながら静かに言うのだった。「私にできることは酒をつくることだけです。あなたのようなすばらしい才能のかけらもありません。私のような人間は才能のある人間に尽くすよう運命づけられているのです」

楊は呂の酒がきれることのないよう、小屋にこもってはつくり続けた。呂は酒を飲んでは次々と小説を書いていたが、あるとき、ぱたりと筆が止んだ。

「どうしたのだろう。また書けなくなった」

沈み込んだ呂が言うと、楊は心配そうに眉根をひそめたが、すぐに小屋にこもった。次に現れたとき、楊の手には新しい酒があった。これまでより幾分大きな瓶に満たされたそれを渡すと、呂は飢えた子供のように酒を飲んだ。それが喉を通り、胃の腑に届いたか届かぬうちに、早くも以前に倍して書く力がむくむくとわいてくるのを感じた。じっとしているのが惜しい、一刻も早く、胸の内にある物語を書き付けないではおれない気分だ。

「ああ、書ける。おれはまた書ける。いままでよりもっとおもしろい小説を。なんとおれは幸福なんだ。おれはまだまだ書けるのだ」

呂は笑い出したい気分で、傍らの妻を抱き寄せ、胸をまさぐりながら言った。妻は小鈴のような声を立てた。楊が長いまつげを伏せ、悲しそうにほほえむのに呂は気づきもしなかった。

そのようなことが何度か繰り返された。呂は幾度か苦境に陥ったが、その都度楊の酒が救ってくれた。

ある日、楊が小屋にこもって酒を造っているとき、呂は戸の隙間からそっとのぞいてみた。酒が入っているらしい甕の前に楊が神妙な顔をして立っている。その手に何かが握られ、ついでそれが酒の中に投じられるのを、呂は見た。鼠くらいの大きさの生き物、だった。そばには何かの尻尾や骨も落ちていた。

呂は何も気づかない風を装い、楊の出す酒を飲んだ。酒はうまく、その味は呂の筆をもっては表しがたい魅力に満ち、尽きせぬ創造の泉に呂を誘った。その酒が何でできていようとかまわなかった。

やがてまたしても、魔力が切れるように、呂は行き詰まった。楊はまた新たな酒を造るため、小屋にこもった。呂は今度も隙間からのぞき見た。

薄暗い小屋の中、甕の前に立った楊は絵になるくらい美しかった。やがてそのほっそりとした指先が何かを取り上げ、するりとなで上げるような仕草をした。それから楊が唇をすぼめ、ふうっと息を吹きかけると、それはまるで自らの意志であるかのように、すうっと甕の中に入っていった。ちゃぽりというかすかな音が呂の耳に残った。甕の中に投じられたのは猫のようにみえた。その光景が何度か繰り返され、呂は木戸の前から離れた。

呂は書き続けた。酒を飲み、書き、妻を抱いた。それ以外何もほしくなかった。本が売れ、金はたまる一方だったが、特に何に使おうとも思わなかった。ただ、書けなくなることだけが以前にも増して怖かった。

その後も酒がなくなるたび、楊は新たな酒をつくったが、もう、呂はのぞかなかった。恐ろしくてのぞけなかったのかも知れぬ。

そうしてまた、書けなくなる日がやってきた。頭の中が白紙になる。何を書いていいのか、手がかりさえつかめない恐ろしい日々の訪れ。世評が高まるにつれ、書けなくなったときの苦しさは幾倍にもなることに今さらながら気がついた。呂は脂汗を滲ませ、机をかきむしり、大声をあげて叫びたいのを抑えつつ、楊を呼んだ。

「頼む。酒をつくってくれ」

「前の酒がまだ残っておりますが」

「あれではだめだ。もう、あれでは効かない」

楊はいつもの控えめな口調で言った。
「お気づきかと思いますが、ただの酒ではあなたには効き目がありません。ものをお書きになるには、それも多くの人をうならせる力を持ったものを書くには、やはり力が必要なのです。命の持つ力が」

「わかっている」

「すでにさまざまな『命』を私は試してみました。それがもはや効力がないとすると……」

呂はやつれて急に老けたようにみえる顔を楊に向けて言った。
「おまえの、考えている通りでいい」

数日後、楊は新たな酒を手に、小屋から現れた。呂は泣きそうな顔でそれを受け取り、がまんできないというふうに飲み始めた。酒は独特の香気と味わいに満ち、ねっとりとした濃度を持っていた。しばらくすると呂は紙を取り出し、書き始めた。いつもそばに侍っている妻はもういなかった。

呂は何かに憑かれたように書いた。その小説は絶賛され、本は売れに売れた。呂はいまでは国で一番の小説家であり金持ちであり、成功者であった。楊は自分のことのように喜んだ。彼はこの上なく幸福だった。自分の愛する呂がすばらしい小説を次々に生み出していく。そして自分がそのそばにいること。この家の中で、呂とふたりきりなのだということ。これ以上何を望むことがあろう。

呂は自分が自分でなくなっているような気がした。内からわきあがってくるものを片端から紙に書き写していく。それらがことごとく、自分の眼で見ても傑作ぞろいだ。たとえていえば恐ろしく速い乗り物に乗り、空中といわず海中といわず自在にかけめぐってでもいるような心持ち。だが、まるで何者かに操られているような、しかもそれを振り返って確かめる余裕さえない。呂は思い出そうとした。妻の顔。てのひら。乳。耳。思い出せなかった。

ある晩、楊がふと見ると、呂は書きながら泣いていた。涙がはらはらとこぼれ落ちるのもかまわず、泣きながら、それでも書く手は止めていないのだ。

「どうなさいました。何かお困りでしたら何なりとおっしゃってください」

楊がそう言うと、呂はすすり上げながら言った。
「おれに、かまうな」

「え?」

驚いた楊が問い返すと呂は喉の奥から絞り出すような声で何やら言った。聞き取れず再度問い返した楊に、呂は繰り返した。

おまえが、酒に、なるべきだった

楊は打ちのめされたようにみえたが、半ば予期していたかも知れない。ふらつく足で立ち上がった。それから、ゆっくりと、小屋に向かった。

歴史に記されたところでは、これ以降も呂は超人的な筆力で書き続け、夥しい数の作品を残したことになっている。にもかかわらず、それらはまったく残っていない。散逸したのか、最初から存在しなかったのかは不明である。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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