ショート・ストーリーのKUNI[28]ふとん
── やましたくにこ ──

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私は大和田保夫の所有するところのふとんであり、大和田保夫とはかれこれ19年ものつきあいである。喜びも苦しみも、私は彼とともにしてきた、と信じている。

それがある日、気持ちよくベランダの手すりで日光を浴びていたところ、折からの強風によって、私は手もなく吹き飛ばされてしまった。その日に限って大和田保夫は私をふとんばさみでとめておくことを忘れたからだ。でも、私はそんなことで大和田保夫をうらんだりしない。我々の間には19年にわたる信頼関係があるのだ。たった一度の過ちがなんだろう。

のみならず、私は大変に前向きな性格だ。風が私を手すりからひきはがし、空中に投げ上げたとき、私の胸に去来したのは不安でもなんでもなく、さあこれで知らない世界が体験できそうだという一種の高揚感であった。それに、大和田保夫の居室は16階にあったから、その高さは半端なものではない。空高く舞い上がり、そしてふたたび降下を始めるまでには十分すぎるほどの時間があり、私は少しもあわてず、空中で来し方行く末を思ったり、空飛ぶ絨毯の気分とはこんなものかもしれないと夢想したりした。自分の下に湿った畳ではなく、空気があるとはまったく不思議で、それだけで何かすばらしいパワーを授かった気分なのだ。


あ、言い忘れたが私は敷きぶとんである。

私はそれで、アラビアの美しい姫をわが背に乗せて命じられるままインドの宮殿に行ったり砂漠のオアシスの上をゆったり旋回してはらくだにウインクする場面を想像してうっとりしたが、それは実際にはコンマ数秒のことだったかもしれない。たちまち風向きが変わり、私はまっすぐ降下したと思うと横に投げつけられた。はっと気づいたときには9階のベランダにひっかかっていた。

ものすごい声が内側から聞こえた。夫婦げんかの真っ最中なのだ。物を投げつける音、びりびりと何かが破れる音がして、急にドアがばん! と開いた。けばけばしい化粧をした中年女が出てきて私を見ると、ぎゃーっと叫んだ。

「あんた…あんた! 何よ、こ、こんなとこに…汚いふとんが!!」

私は驚いた。汚いふとん? 私が?

「なによ、その不満そうな顔は! 自分が汚いふとんじゃないとでも言いたそうね」

私は驚いた。その女は私の表情が読めるらしいのだ。それともこれはあたりまえのことなのか。私は大和田保夫しか知らないから判断のしようがない。

「そこをどきなさいよ、気持ち悪いったら!」

ひどい言い方だが、一刻も早くその場を離れたいのはこっちのほうだ。好きでそんなとこにひっかかったわけじゃない。すると、またしても一陣の風が私を吹き上げ、あっけなく小汚い中年女のもとを離れることができた。それどころか風は私を軽々と空中でもてあそび、私はくるりと一回転して今度はどこに飛ばされるのかとはらはらしていたところ、みごと6階のベランダにひっかかった。

どさっと音がしたため、その家の中の子供が気づき、がたん、とドアを開けた。そして私を見るやいなや
「ママー! きたないふとんが〜!」

私は見た。その子供の背後の部屋のそのまた奥の部屋でこちらに背を向けて座り、いましも化粧直しに余念のない母親の前の三面鏡、その中に写っているのは本当に汚いふとん…私なのか? あれが? あのずず黒く汚れ、しわくちゃで、どこのゴミ捨て場から拾ってきたのかと思える、あの、汚いふとんが私なのか?!

私の受けたショックはあまりにも大きかった。全身から力が抜け、ずるずるっと私は手すりから落下した。今度は風も吹かなかった。私は一直線に地面に落ちた。かすかに湿り気を帯びた枯れ葉や犬の糞、ごみの散在する地上に。そして、私は本当に、汚いふとんになった。

私は悲しかった。晴れ渡った空が一転して雲におおわれたその下、午後の団地の湿った土の上で、見捨てられ、うち捨てられ、ひたすら悲しかった。私はこんなところで終わりを迎えるのか? いや、そんなはずはない。大和田保夫が迎えにくるはずじゃないか。私がベランダの手すりにないことに気がつくやいなや、すぐさま飛んでくるはずだ。そうに決まっている。

早くも日は傾きだし、私の胸に不安が満ちてきた。大和田保夫が現れる気配はなかった。

いや。

まさか。

私は思った。大和田保夫との日々、数え切れないほどの夜々。私の上で、いや、正確には私の上の女の上で果てた夜もあったではないか。いや、そんな夜より、女抜きで、まさに私の上で果てた夜もあった、どころかそっちのほうが圧倒的に多かったじゃないか、大和田保夫! 私はなんだって知っているのだ。君が長いことへそのゴマをため込んでいること、カップラーメンを食べるときにふたを全部めくってしまわず、くっつけたまま食べること、寝過ごした日はさもしんどそうな声色を使って会社に電話してずる休みすること、時々その声色の練習をしていることまで、全部知っているのだ!

なのに。

夕暮れが迫るころ、だれかの手が私にふれた。私をあちこちひっくり返したりしながらじろじろ見た後、ややためらいながらではあったが、その手が私を肩にかつぎ、団地のエレベーターホールへと向かった。やがてエレベーターが着き、扉が開き、閉まり、上昇し始めた。エレベーターは16階で止まった。

私をかついだ人間は大和田保夫のドアの前でインターホンを鳴らした。出てきた大和田保夫はいつにも増して貧乏くさかったが、私を見るとぎくりと顔色を変え、見開いた目で私を見たかと思うと部屋の奥をちらっと見たり、また私を見てはしばしぼうぜんとした。私がベランダからなくなっていることに全然気がついていなかったようだ。

「これ、お宅の、ですよね?」

私を運んできた男がそういうと信じられないことに大和田保夫は
「いえ…ちち違います」と答えた。

「え、そんなことはないでしょ?」
「いえ…違います、知らないっす!」
「おかしいなあ。あのね、このふとんにはあなたの名前と住所が書いてあるんですよ、ほら、シーツのここに、マジックで!」
「いや、あの、その…とにかく、おれのじゃないっす、知らないっす!」

ばたん! と目の前でドアが閉められ、私を運んできた男は舌打ちをした。それから仕方なく、私を肩にかけたまま、また来た通路を戻りエレベーターで一階に下り、団地の裏庭のクスノキの枝に私をひっかけるとどこかへ立ち去った。

私は深く、深く傷ついた。ひどい。ひどすぎる。この仕打ちはなんなのだ、大和田保夫。君と私との友情はどうなるのだ。それともそんなものは最初から存在せず、私の幻想だったというのか。この19年間を、君は否定するのか。こんなことなら、空を舞っていたほうがよかった。あの16階からの落下が永遠に続けば、私はどんなに幸せだっただろう。

世間がすっかり寝静まり、団地のあかりもまばらになった頃、大和田保夫は足音をしのばせてやってきた。だれかに見られていないか、あたりをきょろきょろと窺いながら。

「そんなにすねるなよ」

私をそっと肩にかつぎながら大和田保夫はひそひそ声で言った。

「恥ずかしかったんだよ。だって、おまえは…なんというか、おれ自身みたいなもんだからな」

私は不覚にもほろりときた。この貧乏くさい薄情者のろくでなしからそんなことを言われて。だが、もう遅い。私の深く、深く傷ついた心はそんなことくらいで癒えはしないのだ。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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