ショート・ストーリーのKUNI[35]野良犬
── やましたくにこ ──

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通勤客であわただしい朝の駅前で、おれはいつものように奈保子と会う。奈保子はキュートな肢体をはずませ、おれを見ると小走りでやってくる。

「おはよう、ジュンちゃん、元気?!」

そしてバッグからショコラティエ・エリカのチョコを取り出しておれにくれる。そうとも、おれは野良犬ジュン。おれはチョコのお礼に彼女の手を、そしてなめらかなふくらはぎからももの裏側までぺろぺろなめてやる。おのぞみならもっともっとなめてやってもいいぜ。

「あら、ジュンちゃんったら。いやん。電車に乗り遅れるじゃない、だめってば」

きゅふん。おれは悲しげな声を出し、いかにも残念そうになめるのをやめる。そして、改札口に消えて行く奈保子の後ろ姿を見送る。奈保子は何回も振り返る。おれは小首をかしげ、目一杯悲しそうな表情をつくる。おれは奈保子のために歌わずにいられない。


♪君の笑顔が僕は好きだよ
 僕はとっても愛しているよ
 君のその手にそっとふれたい
 僕は君だけ愛しているよ
 (井上陽水「愛は君」:井上陽水作詞)

その30分後、おれは公園で和子からパンをもらって食べている。

「ほれ、パンやで、クロ。今日はあんたの好きなカレーパンと違うて焼きそばパンやけど」

そうとも、おれは野良犬クロ。和子の前では。和子は毎朝公園にくる女だ。年は50代後半か。年下の亭主がいるがあまりうまくいってない。最近まで近所のスーパーのレジをやっていたが、リストラされていまは無職だ。そんなことは和子が勝手にべらべらしゃべるので知った。野良犬のおれにだ。人間はさびしいものなのだ。

「あんたの犬?」

おばさん仲間が和子に話しかける。

「いや、野良やねんけどね、しやけど、まあ私の犬みたいなもんやな。ほら、おいしそうに食べてるやろ。おなか減ってたんやなあ。ほんまに私がおれへんかったらこの子、どないなるかわからんのやわ」
「そうやろねえ」
「クロ、明日はカレーパンにしたるわな」
「クロ? この犬、茶色やのに?」
「昔つきあってた男の名前が黒田で、みんなからクロって呼ばれてたんよ。いまの亭主よりよっぽどましな男やったわ…ええやないの、そんなこと」

♪昔のことは忘れろよ 今のおまえがいればいい
 しあわせをしあわせを 今日からふたりで
 (五木ひろし「おまえとふたり」:たかたかし作詞)

さびしい女のためにおれができることは歌を歌うことだけだ。
泣くなよ和子。

おれはひとしきり街をぶらつき、あちこちで子供たちから「あ、犬!」と言われたり、犬の苦手な人間からは「きゃっ、犬」とびくつかれたりしながら時間を過ごす。それから夕方になると光代のアパートの近くに行く。暗くなってきた頃、まるで夕暮れにとけこみそうな地味な身なりの光代が帰ってくる。でも、おれを見たとたん、光代の目に星形とハートマークがいくつもきらめく。

「ピーター、来てたのね」

光代は非常勤で図書館に勤めている本好きな女だ。くわしいことはわからないが、もう40半ばは過ぎていると思われるのに独身だ。あたりをきょろきょろ確かめながら光代は「ペット厳禁」の張り紙のあるアパートの玄関から堂々と入り、自分の部屋におれを招き入れる。地味な外見の割にやることは大胆だ。

「ねえ、ピーター、男と女って結局はわかりあえないものなのかしらね」

おれは玄関に座り、彼女はすぐそばのローチェア。おれと彼女の前には同じコンビニ弁当。おれと彼女ののディナータイムだ。

「私、最近、神の存在ってやっぱり認めるべきなのかなと考えるようになったわ。ピーターはどう思う?」

おれは小首をかしげ、「?」という顔をしてみせる。難しくて困っちゃったというしぐさだ。

「そうねえ、ピーターにはちょっとむずかしいかもね。私ったらどうかしているわねえ。ごめんなさい」

人間はさびしいもんだぜ、本当に。
「ピーター、ずっと私のそばにいてね」
いてやるとも。おれの歌を聴け。

♪ララバイ なんにも考えちゃいけない
 ララバイ 心におおいをかけて
 ララバイ おやすみ涙をふいて
 ララバイ おやすみ何もかも忘れて
 (中島みゆき「アザミ嬢のララバイ」:中島みゆき作詞)

おれはこのように、野良犬としてはけっこう安定した毎日を送っている。奈保子、和子、光代のほかにもたまに会えば必ずうまいものをくれる女が何人かいる。仲間の中には野良犬暮らしがいやになり、子犬でもないくせにぶりっ子して人間に愛想を振りまき、どうにか番犬の座を得たやつもいるが、老後を考えるとそれも賢明な方法だろう。でも、おれの性には合わない。おれは縛られるのがいやなのだ。多少リスキーでも自由と引き換えなら仕方ないってことだ。

おれが女たちを利用している? とんでもない言いがかりだ。
おれは女たちを愛している。奈保子も和子も光代も他の女たちも、それぞれにふさわしいやり方で愛している。奈保子の前ではジュンちゃん、和子の前ではクロ、光代の前ではピーター、そしてその他の人間の前ではただの「犬」。おれはそれぞれのキャラを使い分け、演じ、その見返りとして食べ物やねぐらを提供してもらう。これは「愛」のひとつの形態なのだ。

おまえは見境がない? ポリシーがない? とんでもない言いがかりだ。そういうことを言うやつは単にキャパの小さいやつ、多様な女の愛を受け入れられるに足るセンスのないやつなのだ。

また朝が来る。おれは人目につかないようすっかり明るくなる前に光代のアパートを出る。そして駅前で奈保子と会う。

「ジュンちゃーん、おはよう!」

奈保子はバッグからスタバのコーヒーパイを取り出し、おれにくれる。おれは喜んでいただく。パイはまあまあの味だが、奈保子のミニスカは最高だ。

公園では和子がたこ焼きを持ってきていた。ほどよい加減に冷めている。おれはしっぽをぱたぱたとせわしなく動かす。若干演出が入っている。

「はいはい、いまあげるからな、クロ。そうかそうか、おなか減ってたんやなあ。わかったわかった」

和子は10個入りの船のままおれの前に置く。ありがたい。和子はいい女だ。しかし、犬につまようじは不要だぜ。

おまえの本質は何なんだいって?
質問自体がナンセンスだ。あらゆる存在は多面的なのだ。

♪風はきままに吹いている 鳥はきままに鳴いている
 どうせ男と生まれたからにゃ 胸の炎はきままに燃やそ
 意地と度胸の人生だ ままよなげくな いとしいお前
 明日は明日の風が吹く
 (石原裕次郎「明日は明日の風が吹く」:井上梅次作詞)

「ピーター、私の人生って何なのかしらねえ」
光代、犬にそんなことを語りかけるおまえが好きだ。

それは突然訪れる。

住民のだれかが通報したのだ。市のマークの入った車がやってきて、おれはあっけなく捕獲される。おれは荷台に揺られ、動物管理センターに運ばれて冷たい檻の中に入れられる。一緒に捕獲された仲間の話から、その檻に入れられている期間はわずか三日間だということを知る。それを過ぎると処分の対象になるのだ。だれも引き取り手が現れない限り。

冷たい檻の中でおれは夢をみた。女たちがおれを助けにくる夢。

「クロ、かわいそうにかわいそうに。もう安心やで。私がいてるさかいな」

「ジュンちゃん! いやん、どうして知らせてくれないの?! あなたの姿が見えないと寂しくて気が狂いそうだったわ」

「さ、帰りましょ、ピーター。今日は海苔デラックスよ」

誰も現れなかった。当然だ。もともと犬を飼える環境にないわけだし、そこんとこはおれも割り切っている。

♪めぐり逢って恋に落ちてそして傷ついて
 後悔はしないわあなたを愛した
 (テレサ・テン「カシオペア」:作詞山上路夫)

三日目。
おれを引き取りたいと言う女が現れた。その女は煮くずれたはんぺんのようなスマイルを浮かべておれに語りかけた。

「さあ、もう心配ないわ。私はあなたのような身寄りのないかわいそうな犬をこういう施設から引き取っては里親を探すボランティアなの。すぐにここから出してもらうわ」そして歌いだした。

♪お金いらない お礼もいらない
 たださんさんと太陽は降り注ぐ
 (坂本九「太陽はさんさん」)

おれの中の何かがぴくんと反応した。おれは吐き気を覚えた。毛が逆立ち、血圧が上がり、悪寒が走り、頭痛が耳鳴りを呼び、口内炎を引き起こし、水虫がぶり返して胃けいれんを起こした。おれの全身が総力をあげてこの女に抵抗していた。なぜだ? この女が愛だと思っているものがおれにはそうではなかったからだ。このおばはんのおれを見るまなざしは奈保子や和子や光代のそれとはまったく異質だった。顔がぶさいくだとか好みではないというのではない。おれを理解せずにおれを救えると思うなよ。

おれはがぶりとおばはんの手にかみついた。

「ぎゃー! なななな何すんのよ! こ、この薄汚い野良犬が!」

おれは直ちに処分されることになった。かまうものか。おれはおれの生き方を全うするだけだ。おれは歌う。

♪嫌だ嫌ですお天道様よ
 日陰育ちの泣きどころ
 明るすぎます俺らには
 (鶴田浩二「傷だらけの人生」:藤田まさと作詞)

おばはんは傷口を押さえ、おおげさに顔をゆがめつつ歌いながら去ってゆく。

♪かるく見るなよ命の重さ
 誰も秤にかけられぬ
 切ればまっ赤な血の出る躰
 それが命というものさ
 バカにするやつぁアー罰あたり
 (北島三郎「命」:宮原哲夫作詞)

「おい、同輩。寂しそうだな」

同じ檻の犬が話しかけてくる。おれより若くてたくましい体つきだ。何が悲しくてこんなところに。

「お互いもう長くないもんな。これでも食わないか」

そう言いながらそいつは、首輪の裏に隠していたチョコを差し出した。ショコラティエ・エリカ。しかも「マ・ボンヌ」だ。おれは「ビジュ」しか食べたことがない。

「奈保子っていう、チョコレートの好きな女にもらったんだ。いい女だったけど毎朝毎朝くれるもんで、余っててね。そうそう、いつだったか、NOKAのチョコをもらったこともあるよ。高級品らしいが、おれにはよくわからなかったね」

おれはショックで気絶しそうだった。後悔なんかしていない。後悔はしていないが…だれかおれに歌を歌ってくれないか。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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