ショート・ストーリーのKUNI[38]引き出し(2)
── やましたくにこ ──

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人間はおどろくほど忘れっぽい生き物だ。

朝が苦手な私は午前中は頭が働かない。それで日曜日の朝、新聞店の集金人がインターホンを鳴らして「新聞代お願いします」と言ったとき、私はなぜかはんこが必要だと思った。そして、あちこち探し回ったあげく、引き出しを引っ張ったのだ、あの引き出しを。それも強く。当然引き出しはつっかえ、一瞬にして前回のいきさつがよみがえったときにはすでに遅かった。ぼきっ。何かが折れる鈍い音がはっきりと聞こえた。私はその場で凍り付き、後悔し、そのあとゆっくりと玄関へ向かった。新聞代を払うために。


翌日、いつものように会社に行き、帰途についた私の足取りは重かった。ドアを開ければいるかもしれない。ジョンが。でも、いなかった。部屋はいつものようにからっぽで寒々としていた。私はほっとしてひとりの食事をとり、テレビを見て風呂に入って、寝た。

翌日もその翌日も、ジョンは現れなかった。

私は心配になってきた。いや、心配なんかじゃない。私はジョンのことなど全然心配ではない。だいたい、だれなんだ、ジョンって? 引き出しの中に?ぷー! いるもんか、誰も。前回のことは私の勘違いだ。私は自分で引き出しの中から1万円札を2枚発見した。そしてそれで彼女と親密な時間を過ごしたのだ。なにか不審な点でもあるというのか。私はほっとしているのだ。

夜、私は夢をみる。ジョンがうらめしそうな目で私を見ている夢だ。身体の片側が、つぶれて……真っ赤だ。私は冷や汗びっしょりで目覚め、これは絶対、今度こそジョンの身に取り返しのつかない損傷が加えられたことを示しているのだと思う。許してくれ、ジョン、そんなつもりはなかったのだ。恨むなら日曜の朝に来る集金人を恨め。だが、次に朝の光の中で目覚めてコーヒーを飲み、朝刊を読み終わったときには私はすっかり元気を取り戻し、引き出しがどうしたと思う。

「ねえ、あなたのお部屋に行きたいの」

デートの夜、彼女が私の腕に自分の腕をからめてそう言ったとき、私はそういうわけですっかり油断していた。アパートの鍵を開け、ドアを閉めるなりキスをしたときも、そこから無理矢理我に返って「シャ、シャワーでもつつ使うかい」と浴室に向かったときも。そして、汚れた下着が洗濯機の上にてんこ盛りになっているのをあわてて片付け、ついでにトイレのタオルをこぎれいなものに替え、呼吸を整えて浴室から戻ってきた私は腰を抜かしかけた。ジョンがいたからだ。ジョンはテレビの前のローソファに彼女と並んでかけていて、あろうことか二人の間には一種親密そうな空気まで漂わせている。

「あら、遅かったわね」彼女が私に気づいて言う。
「お友達がいたのね。知らなかった」
「あ、ああ……そいつについてはその、また今度言おうと思って」
「かわいそー。このひと、けがしてるのよ、ほら」

彼女がそういうと、ジョンはうなずき、私とは目を合わさないまま身体の角度を変えた。私はもう少しでぎゃっと叫ぶところだった。ジョンの左腕は、まるでマネキンのパーツのようにだらりと肩から下がっている。袖は破れ、そこから傷口が丸見えだ。骨が、というより腕がよじれて無惨に折れ曲がり、肉の裂け目から白い骨の一部が露出していた。それは誰が見たって、引き出しにつっかえてそれを無理矢理引っ張られたからだとしか思えないはずだ。袖にはなかば乾きかけた血糊がべったりと付着している。

私は自分の血の気が急降下でひいていき、顔面蒼白になりつつあるのがわかった。子供のころから私はこういうのが苦手で、指先に刺さったとげを母親に抜いてもらうときでさえ目を開けていられなかった。同級生の中村君が交通事故で大けがをして病院に運び込まれ「指がちぎれたらしい」「頭に車のブレーキが刺さったらしい」とみんながうわさするのを聞いているだけで貧血を起こして保健室に運び込まれたくらいだ。こんな大けがをしていてどうして平気なんだ、ジョンは。

「痛いの痛いの、とんでけー」
彼女が笑い、ジョンがにっこりほほえむ。
「頭のてっぺんにもけがのあとがあるのよね。かわいそー」

私はどきっとする。確かに、頭頂部の一部は毛が抜けたままピンク色の皮膚がむき出しになっていて、見るからに痛々しい。彼女はやさしくそこをなでてやったりする。どうかしていないか、彼女も。困惑した私がふとふたりの背後のガラス戸に目をやると、そこには二人の後ろ姿が映っている。

ん? 私は目をこらした。なんとジョンが右手を彼女の腰に回し、微妙に指先を動かしているではないか。私は今度こそ猛然と腹が立った。おい、いいかげんにしろ! ここをどこだと思っている! そう言おうとするのにちらちらと傷口を見せられるので私はおそろしくて声が出ない。口をばくばくさせていると、ジョンのほうで気がついたらしく、にたりと口の端だけで笑った。私を見ずに。器用なやつだ。

そして、私には聞こえない声で彼女に何かささやいたかと思うと、すっと立ち上がって玄関の方へ歩いていった。やれやれ。すると、ジョンの背中に何かがくっついていて、それがはらりと床に落ちるのが見えた。私はつい引き寄せられて拾いに行った。それは、小学生の私が母の日用に書いた手紙だった。私はくしゃくしゃの黄ばんだ紙を広げた。

おかあさんへ
ぼくはおかあさんがだいすきです。おかあさんの、つくってくれる、ごはんは
とてもおいしいです。とくにぼくのすきなのは、ちくぜんにです。うえだくん
のおかあさんより、はやしくんのおかあさんより、ぼくのおかあさんがいちば
んりょうりもうまいし、びじんだとおもいます。

そうだ、確かにこんなことを書いたような気がする。これを母の日に渡そうと思って、引き出しにしまったままどこにやったか忘れて、ついに渡せなかったんだ。そうか、そうか、あの引き出しにあったんだ!

おかあさん、これからも、きれいで元気でいてください。大きくなったらおかあさんに、だいやをかってあげるね。

読んでいるうち、当時の情景がよみがえってくるようだった。私は柄にもなく目頭を熱くした。手近にあったタオルで涙を抑え、ふと目を上げると彼女が立って私を見下ろしていた。
「あたしね、マザコン男って大嫌いなの」
「いや、違うんだ、これはね、その、あの」

彼女はぷいと背中を向けたと思うとさっさと玄関に向かって歩き出した。いや、それはないだろ! おい!
私ははめられたのか?! 覚えてろよ、ジョン!

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
< http://www1.odn.ne.jp/%7Ecay94120/
>

引き出し(1)2351号に掲載
< https://bn.dgcr.com/archives/20080124140300.html
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