ショート・ストーリーのKUNI[45]パンダ
── やましたくにこ ──

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私は妻を愛しているが、時にはふたりの時間を気まずく感じることがある。その日もなんとなく気まずい感じだったので、私は気分転換に近くのスーパーに行くことにした。それで出がけに妻に声をかけた。

「何か買ってきてほしいものはあるかい」
すると妻はリビングで足の爪をぱちんぱちんと切りながら
「パンダでも買ってきてちょうだい」と言った。
え、と言うと妻は振り向きもせず
「冗談よ。ありえないじゃない」と言う。

しかし、スーパーに行くと私はなんということか、パンダを買ってしまう。
「お待ちしておりました。パンダです」
目の前にはなるほどテレビで見るのと同じパンダがいる。白と黒のふかふかした生き物。
「冗談はよしてくれ。ありえないだろう。スーパーでパンダを買うなんて」
「ところがお客様、ほら」
店員が指で示した方を見ると掲示板があり、そこには一週間の売り出し予定が張り出されている。今日の欄には次のように書かれていた。
○月△日限り!
ありえないことが本当になるサービス!
「というわけです」
「いや、そう言われても」
「お客様のためにご用意したのですから。ほら、笹もおつけします」



執拗にすすめられ、私はパンダとともに団地の2階の我が家に帰る。案の定、妻が露骨にいやそうな顔をする。
「ほんとに買ってきたの、パンダ。いくらありえないことが本当になるサービスの日だからって」
「知っていたのかい」

「あたりまえじゃない。スーパーのチラシをチェックするのは主婦なら当然のことよ。醤油やサラダ油、だしの素は底値のときじゃないと買わない、冷凍食品は週に一度半額になるから他の日に買わない。常識じゃない」
「え、今日、冷凍のハンバーグを買ってしまったけど」
「しろうとはこれだからいやだわ」

そうなのか。チラシに書いてあったのか。私は妻が足の爪をぱちんぱちんと切っていたとき、紙を下に敷いて受けていたことを思い出す。あれがそのチラシだったのかもしれない。

とにかく、パンダをどこかへ落ち着かせないといけないが、ほかにないのでベランダに居させることにした。ベランダに面した戸を開けると、パンダはおとなしく自分から出て行き、どっかと座り込むと笹をむしゃむしゃと食べ始めた。
「あああ、ベランダがパンダくさくなってしまう」
「しかたないだろ、おまえがあんなことを言うからだ」
妻はすっかり肉付きのよくなったお尻をゆさゆさと揺すりながら、ぷいと台所に行ってしまう。

さて、パンダをどうしたものか。はたしてベランダでパンダを飼育できるものかどうか。私は「パンダ ベランダ」とキーワードを入れてネットでぐぐってみた。すると、パンダベランダという漫才コンビのブログと、「パンダとベランダとラベンダーのうち花が咲くのはどれでしょう」というクイズが載ってるサイトと、「パンダがベランダにいる夢をみた」と書いているブログとが見つかった。

私はちょっと迷ってからパンダベランダのコンビのブログに行き、それを読みふけっているうち、いつしかパンダのことは忘れて居眠りしてしまった。

パンダは不思議な生き物だ。どう見ても着ぐるみとしか思えない。油断ならないようで気が抜けるような、頭が悪いようで賢いようで、信用していいのかどうか、よくわからない。でも、つぶらな目を見ていると悪いことをしそうにはみえない。

私は試しに本を読んでやることにした。パンダの前に椅子を持ってきてすわりこみ、シャミッソーの「影をなくした男」を朗読してやった。パンダはおとなしく聞いていた。灰色の服の男がポケットから三頭の馬を取り出す場面では、思わず目をまるくした、ように見えた。
「おや、この本が気に入ったとみえるな」
私はすっかり気をよくした。

次の日もその次の日も私は「影をなくした男」をパンダに読んでやった。パンダは、少なくとも私には物語を楽しんでいるようにみえた。そうなると私のほうでも気持ちが入って、つい声色を使って読んだりしてしまう。

物語がもうすぐおわりというころ、私はあるカタログを持ってきてパンダの前にひろげた。それは気の利いたネックレスの写真がいくつも収められた色刷りの美しいもので、私はその中からひとつをプレゼントするつもりだった。妻より3まわりほども小さな尻をした若い娘のために。だが、どれがいいのか決めかねていたのだ。
「さあ、おまえならどれにする。選んでみろ」
すると、パンダは腕をぶるん、と振り下ろして、小さな銀のくじらがついたペンダントを指し示した。
「うん、私もそれがいいと思っていたよ」
私は満足する。

あたたかなミルクの川を舟でゆらゆらと下っている夢をみていると、遠くから小鳥のさえずりにも似た声が聞こえてきた。聞いたことがあるようでないような、女の声。ひそひそと何かをしゃべっている。とても楽しそうだ。目がさめても声はまだ聞こえていた。ベランダからだ。

私は驚いた。声の主は妻だったから。妻はベランダでパンダに話しかけていた。私が聞いたこともないような、少女のような愛らしい声で。

私は若い娘にくじらのペンダントをプレゼントしてとても喜ばれる。娘と私はそのあと楽しいひとときを過ごす。だが、なにかが心にひっかかっている。

ある日、チャイムが鳴ってドアを開けると、そこにはスーパーの店員が立っている。
「パンダをお引き取りにきました」
「え、引き取りに?」
「あれ、ご存じないんですか? 今日は○月×日限り、ありえないことを元に戻してあげます! というサービスの日なんですけど」
私はまったく混乱したが、そうこうする間にパンダはベランダの居場所を引き払い、自分からのそのそと玄関にやってきた。残りの笹を持って。パンダが自分のそばにやってくるのを待って店員は頭をぺこりと下げ
「ありがとうございました、では!」
やたら明るい声でパンダと共に去っていくと、あとには私と妻が残された。

「知っていたのか、おまえ」
妻はリビングで鏡を片手に眉毛ばさみを使いながら答える。
「だからさ、チラシに書いてあるわよ、そんなこと。基本よ、基本」
「そうなのか」
妻の前にはチラシが広げられ、その上にカットした眉毛が落ちるようになっている。あれがそのチラシなのだろうか。
「最近のスーパーの売り出しって、凝ってるんだなあ」
「私ね、ちょっといやだったんだ」
「え?」
「ふとん干すときじゃまでしょ、ベランダに」

それから妻は眉の手入れを終え、チラシをくしゃくしゃと丸めてくずかごに捨てた。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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