ショート・ストーリーのKUNI[46]ムッシュの店で
── やましたくにこ ──

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その店はとても変わっている。

階段を上がった2階には海がある。板張りの床の足元から海が始まり、少しずつ深さを増しながらはるか沖で空と交わるまで続く。水面がたぷたぷと揺れる程度で波がほとんどないのは陸に入り込んだ内海なのか。水は澄んで、かすかに青みを帯びて美しく、手で触れるとやわらかな感触もある。でも、水からひきあげたその手はぬれていない。揺れる水を透かして見える貝殻もつかめはしない。海は幻影なのだ。時折カモメの姿も見えるし、空に雲が生まれては消えもするのに。

店の存在は限られた人にしか知られていない。
ある日、ごく簡単な招待状が届く。

 私の店にどうぞお越しください。
                  ムッシュ



私の元にも招待状が届き、そこに添えられた地図を頼りに店を訪れると、ムッシュと呼ばれ、自分でもそう名乗っている男が2階に案内してくれた。

私はすぐに店が気に入った。海辺のテーブルにひじをつき、ぼうっとしているだけで心が安らぐのを感じる。しばらくそうしていると目の前にザザのグラスが置かれ、ムッシュが「あちらの男性からです」と、ひとりの男を示した。

やがて、その男は実在しない浅瀬をざぶざぶと横切って私のテーブルにやってきた。そしてにこりと笑った。感じのいい人、と私は思った。

私とザザ------その男をザザと呼ぶことにする------はその後、店に行くたびにテーブルをともにし、おしゃべりを楽しむようになった。私たちはなぜかとても気が合い、ごくささやかな話題でも楽しかった。

「ぼくがこどものころはこうだった」
「私もよ。不思議ねえ」
「なぜみんなそう思わないのか理解できなかったんだ」
「そうそう、とてもよくわかるわ」

会う回数が増えるにつれ、ザザの顔が変わっていくことに気づいた。最初はなんとも思わなかったが、どんどん目鼻立ちが整い、端正になっていく。笑ったときの顔が特に、魅力的だ。私はその笑顔が見たくて、ザザが笑ってくれそうな話題を用意していく。

ムッシュは店のすべてを仕切っている。私たち客はムッシュに案内されて一人ずつ入店し、ふたたびムッシュとともに一人ずつ店を出る。私たちはみんな、ムッシュによってだけ、結びつけられているのだ。

ムッシュがこの店のオーナーなのか、単に雇われているのかはわからない。それでも、私たちにとって、その店は「ムッシュの店」である。

ある日ムッシュが
「いかがですか。お楽しみいただいてますでしょうか」と言うので私は答えた。
「それはもう、とても。でも」
「でも?」
「彼、少しずつ顔が変わっていくような気がします」
「それはもちろんです」
「どういうこと?」
「この店ではすべてが幻影だからです。海も、空も、あなたも、彼も、そのほかのお客も、ここでの外見はすべて幻影です」
「幻影? それはだれが操作しているの?」
「あなたが彼と話しているとき、彼の外見はあなたの心が創り出している。彼はどんなふうに見えますか?」

ムッシュはにたりと笑った。私はしばらく意味を考え、それから言った。
「では、私の外見も?」
「彼が見ているあなたは、あなたが会社の洗面所の鏡に見るあなた自身とは似ても似つかぬ姿です」
「私はどんなふうに見えているの?」
「それは彼の表情から読み取ればいい。いえ、ふたりでいる時間が楽しいものかどうか、それでほぼ判断できるといえるでしょう」
「見る人によって顔が違ってくると?」
「その通りです。あなたが見る彼の顔はほかのお客が見る彼の顔とも全く違うはずです」

「あなたと彼との関係が変われば、お互いの外見もそれにつれて変わるのです。現実世界でも幾分似たことはあるでしょう。好ましい感情を抱いていると、その人の外見さえ好ましく思えることが。ここで起こることは、それを純粋化し、明晰にしたものです。幻影と言いましたが、それはある意味真実なのです」

私はムッシュの言うことが半分くらいしかわからなかった。

確かに、店にはほかにも客が何人も来るし、会釈したり簡単な会話を交わすこともあるが、その人たちがどんな顔をしているか、まったく印象に残っていない。私も、その人たちから見れば同じことなのだろう。特に親しくない人たちにとって、私の顔はたぶん灰色の石塊、それともプラスティックの安物の玩具のようなものか。

次に店に行ったとき、ザザはますますハンサムになっている。髪はつやつやとした紫色で睫毛が黒々と長く、ほほは少年のようにバラ色だ。
「でも、ここで見るものはすべて幻影なんですって?」
「そうとも。ムッシュが言ってただろ?」
私はうなずいた。
「ぼくは、すばらしいシステムだと思っているよ。外見にしばられない、本当に心から理解しあえる人を探すことができるんだよ、ここでは。ちがうかな」
「そうね。きっとそうだわ」

ザザは笑った。なんてかわいい笑顔。私はとろけそうだった。

夜が更けて、私はひとりのアパートに帰り着く。浴槽に湯を満たし、衣服を脱いで裸になる。鏡の前に現実の私が映る。背が低く、ぶよぶよと太った醜い中年女。子供のころから「かわいい」と言われたことのない不器量な顔。左ほほには生まれつきの大きな痣がある。それだけでなく、右目の上に大きな傷跡があり、その傷の治療がまずかったせいか顔が左右でゆがんでみえる。若いときにつきあっていた男から殴られたときの傷だ。まぶたが切れて血がたくさん出たこと、その血が目に入って痛かったことを覚えている。なぜあんな男と何年も一緒に住んでいたのだろう? あの男はどんな顔をしていただろう? 思い出せなかった。私はいつまでも、鏡を見続けた。

「ぼくは野球選手になりたいと思っていたんだ」
「私は歌手よ。踊りながら歌うの」
「それはいい。君ならきっとスターになれただろう」
「私が?」
「うん。君はきれいだし、声もすてきだから」
「ほんとに?」
「最初からすてきだと思ったけど、どんどんきれいになる。今日のすみれ色のドレスもとても似合っている」
現実には私は10年以上前に買ったベージュの無難なワンピースを着ていた。
もちろん、私の持ち合わせではいちばんまともな服だったけれど。
「あなたは野球選手にならなくてよかった」
「どうして?」
「今でもこんなにすてきなのに。スター選手になれば私なんかサインさえもらえなかったわ」
「君には特等席を用意しておくよ」

ザザは見るたび、体格もよくなっていた。仕立ての良いスーツに包まれた堂々とした身体は厚い筋肉に覆われていそうだ。これがすべて幻影なのか。

朝、私は残り物を詰め込んでこしらえた弁当をバッグに入れ、アパートを出る。電車に乗って20分、そこから歩いて15分ほどの職場に向かうために。電車はいつも混んでいて、私は奥へ奥へと押され、弁当の入ったバッグを抱えたままドアのガラスに押しつけられ、つぶされそうになるのをこらえて立っている。電車はいくつもの駅に着き、反対側のドアが開いてはまた閉まり、発車する。と思っていると、不意に電車が止まった。
「信号待ちです」

ふと外を見ると、線路のすぐそば、飲食店らしい店の裏口の光景が目に入った。ポリペールや段ボールが積み上げられている横で、背が高く肩幅も広い大きな男が何やら怒鳴っている。私の目が釘付けになったのは、怒鳴られている方の男だ。その男は無惨なくらいにやせて哀れげで、背筋が曲がっていた。着ているものも粗末で、ぼろぼろに見えた。髪は半分以上が白髪だ。大きな男に何かを責められ、謝っているらしい。そう、多分その男はこれまでいつも誰かに謝り続け、それで背筋も曲がってしまったのだ。でも、大きな男は目の前で顔を醜くゆがませ、泣きそうになりながら懇願する男をも、容赦しない。何か言いながら、やせた男を殴る。殴られた男はよろめいて、後ろへ倒れ、段ボールの山が崩れる。さらに、大きな男は倒れた男の肩を踏みつける。底の分厚い、汚い靴をはいた足で。

私はガラスに顔を押しつけられ、身動きもできない満員の電車の中から、まばたきもせず一部始終を見ていた。すると、私の大きく見開いた目と踏みつけられた男の目が合った。悲しげなその目は、私がよく知っている人のような気がした。

電車が動き出した。私は、自分が涙を流していることに気づく。まるで自分が汚い靴で踏みつけられたように。

4日間、ザザは店に現れなかった。私はひとり海辺のテーブルで、雲の動きを飽きることなく目で追いながら過ごした。

5日目、私のテーブルにムッシュが来て「お越しになられましたよ」と言った。やがてザザが現れ、私のそばに立った。おそるおそる目を上げると、そこにはひとりの落ち着いた感じの紳士が立っていた。紳士は「おひさしぶり」とささやき、それから私の向かいに腰を下ろした。身のこなしは軽いが、肩をかばっているように感じられた。

「今日、ぼくはどんな風に見えますか? 今までと違って見えますか?」
私は少し間をおいて答えた。
「ええ、違うわ」
ザザは一瞬緊張した。私はにっこりとほほえんで、言った。
「いままでよりずっとすてき」
それは本当だった。ザザはこれまで以上に美しく、繊細で、輝いていた。
「よかった。あなたも、今までで一番きれいだ」

ザザは笑い、つられて私も笑った。私たちは何もおそれることはなかったのだ。そのことに感動していた。いつの間にかムッシュがそばに来ていた。私たちは乾杯した。ムッシュの店のために。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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